宝石人種―ジュエロイド

林間カルシウム

荻原治哉の進学

1

 ここ数日、朝の目覚めが異常に悪い。

 体が重く、寝起きから頭ががんがんと割れそうな痛みがはしり、目の奥が焼けるように熱いときもある。

 夜の寝つきは決して悪くはないのだ。ベッドに入り横になっていればいつの間にか眠っている。睡眠時間だって十分にとっているのに、目が覚めるときは毎日最悪な気分だ。

 最近は逆に目覚めたくないという理由で夜寝ることが億劫になってきた。

今日も首筋がやたらと凝るため、手を肩から首にかけて滑らせていたら、何かが指先に当たった。硬い、異物感。ピリッとした痛みも走ったので、ニキビでもできたのだろう。受験の面接に備えて短く切りそろえた毛先が当たっていたのか。思わずため息をつきながら体を起こし、ベッドから降りた。


 階段をおりたら魚の焼ける匂いがした。弁護士の父は繁忙期ならもう家を出ている時間だが、今は大きな案件を抱えていないのか、余裕をもって結構な量の朝食を作っていた。焼き鮭、ほうれんそうのお浸し、卵焼き、のり、豆腐の味噌汁。炊き立てのご飯をよそいながらこっちを振り返り、「おはよう」と声をかけてくる。

 ここのところずっとこんな感じの朝だ。僕の受験が近いから仕事を抑えて帰ってきて、朝昼晩、手作りのご飯を食べさせ、体調管理を徹底しようとしている。決して教育パパというわけではない。ただ単に息子の人生の岐路を父なりに全力で応援しようとしてくれているのだ。片親だからと不便な思いをさせたくないと、彼は酒を飲むたびぐちぐちと話す。

 優しい父親の期待には十分応えたいし、僕はべつにぐれてもいなければ反抗期でもない。それなのに寝起きの最悪さからここ最近は朝の挨拶さえまともに返せていない。


「どうした、今日も寝不足か」

 自分の分の食事も食卓に並べながら父が再び声をかける。まだ何も口に入れていないせいか喉がべたつき声が出ない。薄く首を横にふり、湯飲みに入った熱いお茶に口をつけた。

「最近体調が悪そうだな。受験のストレスか。あまり根を詰めすぎないほうがいい」

 父は繁忙期でなくても夜の帰りは遅い。僕はがつがつと勉強をしているわけではないし、息抜きにテレビだって見ていること、むしろそっちの時間のほうが長いことを知らない。

「大丈夫だよ、無理はしてない。高校だって一応合格圏内のところだし、友達もみんな同じところを受験するから」

 嘘はついていない。目下、受験はストレスではないのだ。その気になれば自転車で通学できる距離の、国公立大学くらいなら目指せるごくごく普通の進学校。中学での成績は決して悪いほうではなかったし、良くも悪くも目立たない生徒だったから内申点も問題ない。つるんでるやつらはスポーツ推薦を狙っている二人を除き、同じ高校を受験予定だ。

 ふと、今朝がた気づいた首筋のニキビに手をやる。こうやって触っていると治りが悪くなるのは知っているが、一度気が付いてしまうとどうにも触り癖がついてしまう。

「なんだ、肩も凝っているのか」

 首に手を当てた僕に気づき、さらに心配そうに眉を寄せる。

「大丈夫だってば。首にニキビができたみたいでちょっと気になるだけ」

 本当は肩も首筋も凝っているけど、心配をかけたくなくてそういった。すると父はなぜか目を大きく見開き、箸を止めた。

「……痛むか? 大きいのか?」

 明らかに動揺した表情でこちらを見てくる。いったい何だっていうのか。

「まあちょっとね。でも大丈夫だよ」

 微妙な居心地の悪さを感じて、僕も思わず箸を止めた。口をつけていた味噌汁だけ飲み干し、そのまま食器を下げる。

「今日は朝早めに行って羽柴に数学教える予定だから行くわ。残りは晩御飯に食べるから冷蔵庫に入れておいて」

 父の作ってくれた弁当を手に取りながらそそくさと食卓を出ようとする。すると急にぐいと両肩を父につかまれた。なんとなく、父が首筋のニキビを凝視しているのはわかった。

「なんなの、急に」

 父の様子がおかしい。十五の息子にニキビができるくらい、よくあることだろうに。

「いや、すまない。もし化膿しているなら薬を塗ろうと思ったのだがな。そこまでひどくないようだ」

 父は肩から手を放し、席に戻り自分の朝食を続ける。

 なんなんだ。薬くらい自分でぬれる。父に対して少しいらだちを感じながら、そのまま家を出る。どうせ夜は会わないのだから「行ってきます」くらいは言えばよかったと、バスに乗り込んだあたりで変に後悔をした。



 学校につくと二、三人の生徒がすでに自分の椅子に座っていた。熱心な生徒は朝と放課後、自主的に勉強をし受験に備えている。

その中の一人に羽柴はしばがいた。羽柴は僕と同じ高校を狙っているもののボーダーすれすれで先生にも心配をされている。

「おはよう、荻原おぎわら

 もともと朝が得意ではない羽柴は早朝に予定を入れるといつも遅刻をする。それなのに今日は僕よりも早く到着し、問題集に手を付けていた。勉強嫌いのくせに。

「どうしたんだ、珍しい。今日は槍でも降るのか」

 軽口をたたきながら羽柴の前の机に腰掛ける。自分の席は窓際の一番後ろだけど(三年最後のくじ引きでかなりいい席を当てたと思う)、ホームルームが始まるまではみんな好きなところに座っている。今はほとんど人がいないから選び放題だ。

「失敬な。今日の天気は晴れだよ。雨も降らない。この間の最終模試の結果が思ったより全然よかったからさ、もっと安心しておきたくて」

 模試の結果が良くて勉強にやる気を出すところは素直に感心する。単に心配性なだけかもしれないけど。

 羽柴はもともと文系の科目は結構得意で、僕と同じくらいの点数はとれている。調子が良ければ僕より高い点数を取ることもしばしばだが、数学だけ壊滅的に悪かった。今も問題集の応用編で筆が止まっている。

「そこの問題はこの間の模試に出てたやつと同じ公式で解けるよ。大問の三とかだったかな」

 あー、と羽柴が大げさにため息をつきながらシャーペンを動かしだした。

「ひどいよなぁ、こんなひっかけ問題」

「おまえ、国語はできるんだから文章読むのは得意だろ。大体数学の問題文なんて定型が決まってるものが多いんだから、こういう問題だったらこの式、くらいの認識でいけるんじゃないか」

 不満そうな顔をしながら羽柴が顔を上げる。

「いいや違うね、問題文がいかに似ていようが、そこで求められている解は別のものだ。同じ文章で同じ個数を求めていたとしても、求める対象物がりんごとミカンだったらまるで違う。なぜなら俺はりんごのほうが好きだからだ」

 よくわからない理屈をこねながらサクサクと問題を解いていく。最初のつっかかりさえなくせば数学だって僕よりもできるかもしれないのに。

小中通して同じ学区にいたのに中三で初めて同じクラスになった縁の薄い友人の、少し髪が伸びてきている坊主頭を眺めながら、やっぱり同じ高校に行きたいとぼんやり考えた。


 放課後、帰る直前になって急に雨が降り出した。ほら見ろ、羽柴が柄にもないことをするから。

 当の本人はやべぇやべぇ言いながら隣のクラスに走っていく。つい先日できた彼女の傘に入れてもらうとにやけた顔で去っていった。

 仕方がないから図書館で勉強でもするかとほかの友人たちと話していたら父から電話がかかってきた。

「まだ学校か。近くまで来ているから一緒に帰ろう」

 時間は十六時過ぎ。こんな時間に帰るなんてことはまずない父がなぜこんなところにいるのか。

「本当にどうしたの。今日なんか変だね」

「……ああ、そうだな。少し話したいこともあるんだよ。できれば早めに」

 こんな父は初めてだった。電話越しから少し切羽詰まった感じがして変に緊張する。

「わかった、でも三宅みやけ信二しんじも乗せていってもらっていいかな」

 会話を聞いていたのか、悪友たちは顔を見合わせハイタッチをしている。

「いいよ、雨もひどいし家の前まで乗せていこう。悪いが正門までは走ってきてくれ」

 車の前まで走り、急いで乗り込む。友人たちは口々に「たすかりました」「ありがとうございます」とお礼を言い、父はそれに嬉しそうに応える。今さっきの電話の雰囲気は何だったのか。

 車を出して一つ目の角を曲がったときに羽柴と彼女が笑いながら歩いているのを追い越した。小さな花柄の折り畳み傘に肩を寄せ合いながらも入りきらず、羽柴の右肩はぐっしょりに濡れている。

 そういえばあの彼女も同じ高校を志望していたっけ。やっぱりあいつも同じところに入らないと。幸せそうな姿を少し羨みながら、明日の朝も早めに学校に行こうと思った。


「ここで大丈夫っす。俺んちここの坂の途中なんで」

 家の前までつけようとしていた父を制止し、三宅が車から降りていく。

「本当にありがとうございました。じゃあな、荻原」

 車から降りて坂を一直線に上がっていく。三宅の家の玄関が開き、中から母親らしき女性が出てきた。エプロンの端で手をぬぐいながら、こちらに気づいたのか恐縮した顔で会釈をする。父は軽く手を振り、微笑んでいた。

「お前もいい友達に恵まれたものだな」

 静かになった車内で唐突に父が口を開いた。

「信二君とはもともと小学校の時から遊んでいたから知っていたが、今の子は中学校に入ってからだな」

「うん、三宅は小学校の時学区がぎりぎり二小だったから」

 住宅街で子供もおおかったこのエリアでは小学校は二つあった。三宅は二小だったけど、エリア的には二小の学区の端に家があったため、実際のところ僕や信二とおなじ一小のほうが近かった。仲良くなったのも中学からだったが、家に遊びに行ったところ信二よりもずっと近くに住んでいた。

「ほかにも仲のいい子がいるんだろう」

「ああ、羽柴とかね。途中車で追い越したよ。あいつリア充だからさ、彼女と一緒に帰ってるの」

「はは、もう彼女なんているのか」

 父はそう言って笑うけど、中学生の彼女持ちなんて珍しくもなんともない。信二だってつい最近別れてしまったけど、同じクラスの学級委員と付き合っていたのだ。自分の親にばれたくないからと口止めされていたけど。

「みんな高校はどこを受けるんだ」

 中学三年の一月。やっぱり友人の話が出るとこの手の話題になる。

「今日いたメンバーは盟応だよ、羽柴も含めてね。僕と一緒。あと中野なかのとモスラはスポーツ推薦」

「モスラってなんだ、あだ名か」

「うん。茂木雷人もぎらいとって名前でいつの間にかモスラってなってた。本人は本名で呼ばれるよりずっといいって言ってる。別にそこまで変な名前じゃないのにね。昔からかわれたのがかなり嫌だったみたい」

「それはまた……親御さんも複雑だろうな」

 学校のこと、勉強のこと、その日あったいろいろ。ほかの家よりかはずっと話してきた気がするのに、一番仲のいい友人たちのことを父はあまり知らなかった。聞かなかったのか、自分が言わなかったのか。昨日まで一体父と何を話してきたんだっけ。

治哉はるや、今日話したかったことっていうのはな。高校のことなんだが」

 いつの間にか車は路肩に止められていた。雨音が一層激しくなり父の声が聞こえにくくなる。

「盟応は受けるな」

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