4 文明論的な規模(スケール)の主題
さて、以上のような物語展開や世界設定により、作者はいったい何が言いたかったのだろうか? この作品の主題とは、全人類的な恐怖を通じて、当時問題となっていた人口・環境問題や国際紛争などの文明論的な課題を、人間性の本質から問いかけることではなかったか、と私は考える。SF的な設定は、この主題を語る際に基礎となる、様々な事実を示した。そして逆転の物語が、この主題を語る際の演出効果を高めたのである。
逆転の物語展開という手法にはまず、意外性のある物語進行で読者の関心を引き付ける効果があり、生き生きとした絵や
またこの展開には、作者が当時『ハレンチ学園』で社会的批判を受けていたことに対し、価値観の多様性や相対性、変化の可能性を訴える意図もあったといわれる。実際にその後、技術の進歩からくる経済・社会の変化により、わいせつ概念だけでなく他の文化領域や家庭・労働など、様々な分野において価値観が変化・多様化し、新しい課題や議論も生じている。
しかし他方で、この逆転はそれだけにとどまらず、主要な登場人物の生活ばかりか社会全体の活動、すなわち科学や政策も含む文明活動の全段階に渡り、大規模に行われている。それは何より、SF的な設定が示す文明の課題を、効果的に表現するのに役立ったと思われる。
では、SF的な設定が示した文明課題とは何か?
物語とは、広い意味では一種の仮想現実である。読者は主人公など、登場人物の立場に身をおきながら読んでゆき、その中で何か欲求を妨げるものを疑似体験した時、それが何か、そしてなぜかを考えようとする。SF的な設定は、虚構が含まれていても論理的な設定なので、そうした論理の筋道を遡っていくことで、何を示したかったのかが見えてくる。
(1) 悪魔実在説が語る主題
第一の『悪魔実在説』は、悪魔襲来の脅威を告げると共に、悪魔と人間の違いとは何かも語っている。それは、文明の有無である。
文明とは、都市を築く土木技術や、国家を営む組織技術のように、高度な自然・社会科学的技術をもつ知的生命活動の様式である。社会科学的技術は、人々を動かし政策を実現するためのものなので、文明とは高度な技術と政策をもった生活様式である、ということもできる。この説について考えた私は、文明について次のような理論(仮説)を得ることができた。
文明には、その盛衰を左右する6つの要素がある。それは、①自然・社会環境、②科学・技術、③物的資源、④経済・社会活動、⑤人的資源、⑥制度・政策である。
まず、すでにある①自然・社会環境の影響のもとで、②科学・技術(認識)は自然を操作して富の生産・確保を行う。それは④経済・社会活動(行動)を豊かにするが、同時に産業・労働形態や生活様式を変えて、経済・社会活動を複雑化・加速化させ、人々の価値観(欲求)を多様化させるなど、変化させる。
すると、⑥制度・政策(決定)が人々の利害を調整して富の分配・再投資を行い、経済・社会活動を自己制御してその健全性を保つと共に、新たな技術の健全な開発・普及や、在来技術の維持を行っていく。
しかし、科学・技術は農業・都市施設や動力機械、電算組織などの③物的資源に具現化されないと、経済・社会活動を豊かにできない。
また、制度・政策や価値観を実現して、経済・社会活動を健全に保つには、それを考え、支え、受けて活かせる⑤人的資源の育成・確保、すなわち専門人材の養成や民度の向上が不可欠となる。
さらに、制度・政策や価値観が科学・技術を開発・普及・維持する際には、資源の産出や環境破壊の有無、近隣文明からの技術移転や役割分担、先行文明から受け継いだ文化や因習などの、①自然・社会環境も再び影響する。
以上の6つの文明要素は六芒星✡、いわゆる〝ダビデの星〟、あるいは〝
図:https://19084.mitemin.net/i398818/
これら6つの要素に含まれる多くの物事は、様々な相互作用の関係にある。しかし、全体としてみると、各要素間には次のような関係がある。
まず、
また、長期的な現象面で見れば、文明の発展に従って、②科学・技術、④経済・社会、⑥制度・政策という文明活動はその順番で変化してゆき、①物的資源、③人的資源、⑤自然・社会環境という環境条件はその順番で、文明発展の必要条件または制約条件として課題になる。
図:https://19084.mitemin.net/i384265/
さらに、『生物と環境の相互作用』という生物学的な視点からみれば、②科学・技術と③物的資源は、主として④経済・社会活動による①自然・社会環境の操作、つまり人間が環境に働きかけて好ましく変えることに役立つといえる。また、⑥制度・政策と⑤人的資源は、主として①自然・社会環境の変化に対応した④経済・社会活動の自己制御、つまり変化した環境に対する人間の自己適応に役立つといえる。
図:https://19084.mitemin.net/i545219/
科学・技術と制度・政策は、経済・社会活動を支える車の両輪である。文明活動の本体たる、全ての人々が営む経済・社会活動を豊かにし、健全に保っていくために、そこから専門分業化した活動といえる。両者は豊かさと健全さを求めて、競うように自然・社会環境、あるいは経済・社会活動に働きかける。しかしその一方で、科学・技術の健全な開発・普及を図る技術的政策や、制度・政策を考え、支え、受けて活かせる人材の育成や組織的な活用を助ける社会工学により、互いに助け合ってもいる。
悪魔は自らの身体を強化することができたので、高度な科学・技術を持っていない。また、闘争的な実力主義なので、議会政治や福祉・産業政策のような制度・政策も持たない。悪魔は、人類のような文明は持っていないのである。文化、すなわち知的生命活動の様式は持っているが、それは極めて好戦的な、弱肉強食の文化である。ゆえにこの説は、物語の結末において、なぜ文明種族である人類がこのような生物の襲撃にあって滅びなければならなかったのか、という問いかけに読者を導く。
なぜ人類は悪魔に敗れたか? それは人類が、自らに繁栄を与えてきた〝文明〟に関わる課題を解決することに失敗したからではないだろうか。
また、この『悪魔実在説』は、悪魔の存在を疑似科学的に説明するだけではない。人類の誕生以前に遡る悪魔の生物史や、古代に遡る悪魔を素材とした西洋神話・伝承説話といった歴史的文化も設定に組み込んでいる。
文化とは、高度な技術をもたない前文明的な生活様式をいうことがある。しかし、文明社会を構成する経済・社会活動の一部として、生存に直接必要ではないが有益かつ必然的な、芸術・知的遊戯・身体運動などの活動様式をさすこともある。この意味での文化は、知性がもたらす欲求の無制限性の発露として最も古くから存在し、他の経済・社会活動さらには技術、政策などとも影響し合いしながら文明の発展に影響する、極めて重要な活動様式である。すなわち『悪魔実在説』は、地球史・世界史あるいは文化史的な説明も取り込むことにより、物語に文明論的な主題を語らせるにふさわしい、時空間的な広がりや内容的な深みも与えているのである。
『悪魔実在説』は、作品に広がりや深みを与えながら、人類が文明課題を解決することの必要性を示したのではないか、と思われる。
(2) 悪魔天敵説が語る主題
第二の『悪魔天敵説』は、読者の目を人口問題に向けさせる。この説はマルサスの『人口論』のように、食糧の増産が人口増加に追い付かないことを警告する。また、戦争が人口を調節することにより、この食糧問題を解決する機能をもつという見解も含んでいる。するとこの説は、広く文明の課題について考えさせるものとなる。
生命活動は、生きるために必要なもの(富、財あるいは資源)を作って分けることにより営まれ、その本質は文明活動においても変わらない。そこで、文明の課題を論理的に分析すると、自然環境に対する資源の生産(獲得)という課題と、人間同士の間における資源の分配という課題に分けられる。
図:https://19084.mitemin.net/i382263/
資源生産の問題には、特定の資源が不足する資源枯渇と、ある資源の利用が環境内の他資源を損なう環境破壊という課題がある。資源分配の問題には、資源の分配が不適切となる貧困・不公正と、公正感覚の欠如や
人口問題は、直接的には資源枯渇と環境破壊の共通原因となるので、資源の生産の問題を代表するものといえる。戦争は、最大規模の紛争であり、資源の分配の問題を代表するものといえる。『悪魔天敵説』は、富の生産だけでなく分配の問題や、両者の関係性も指摘して、広く文明課題の内容を示したものといえる。
戦争に人口調節機能があるという見方は、戦争の負の側面を軽視させ、その肯定につながる恐れもあるので、認めたくない考えである。しかし、人口圧力が戦争を誘発する場合があるという事実は否定できない。この見解は、そうした問題に読者の関心を導く効果があったと思われる。1996年に書かれた、L.C.リュインの『アイアンマウンテン報告』という偽書では、他にも様々な、あってはならない戦争の〝効用〟という問題を提示している。
また『悪魔天敵説』においては、その補足説明として、人間の欲求の無制限性は、人間の悪魔に対する本能的な恐怖心から生まれている、という仮説が示されている。
人間の欲求の無制限性自体を否定することは難しいから、本当かな?とこの説に興味を持った読者は、別の理由も探そうとするだろう。人間の欲求が無制限的なのは、厳しい自然環境下で本能が多く求めていた食料等を、科学技術がそのまま供給できるようになったためであるとか、知的生命活動能力からくる、必然的な性質だからであるとも説明できる。そして、特に後者の考えは、文明の課題と大きな関わりを持ってくる。
知性、すなわち知的生命活動能力とは、脳神経系という専門分化した器官により、環境の変化に応じて活動を制御することにより、よりよく生存、すなわち自己と種族の保存を行うことができる能力である。
特に人間は、高度な知性によって環境の中の物事を分析、すなわち様々な要素に分けて、それらを結ぶ因果関係を解き明かす。相互関係や循環関係、複数原因・複数結果、さらには〝バタフライ効果〟の如き偶然性や因果の連鎖などもあって複雑な、因果関係の網の目を観察し、仮説を立て、検証する。そして、『ああいう時はああいうことが起きる』『こういう時はこういうことが起きる』という法則や、『ああすればああなる』『こうすればこうなる』という技術を見出してゆく。
そのうえで、それらを自らの欲求に照らして、『ああするか、こうするか』を決定し、実際にそれを行って、生存に好ましい結果を得る。このような知的生命活動は必然的に、遺伝的な本能に基づく生命活動よりも複雑化して、幅も広がることになる。
科学・技術の進歩により複雑化した経済・社会活動は、単純な本能だけでは営めない。そのため人間では動物よりも行動の選択肢や束縛が増え、過程も複雑になって、欲求が質・量共に無制限的なものとして表れる。心理学者の岸田秀が言うところの、『本能が壊れた人間がその代用とする、理想の自我を支えるための幻想』を実現せんとする傾向である。それは、神が自らに似せて人間を創造したのではなく、人間が自らの、全知全能永遠不滅の理想像を思い描き、神の姿として投影したとも説明できる考えである。
人間の欲求は、上手くすれば宇宙進出をも可能とするが、失敗すれば自分達自身を滅ぼしかねない、無限の可能性と危険性を合わせもっている。人間の高度な知性は、認識においては飽くなき知的好奇心の源泉となることもあれば、とてつもない虚構を創作させることもる。また行動においては壮大な自己実現につながることもあれば、禁欲的な自制に向かわせることもある。そして意思決定においては、人類愛に満ちた思想を生み出すこともあれば、人々を戦争や大量殺戮に走らせることもある。
『悪魔天敵説』は、読者を資源の生産(資源・環境)問題だけでなく、この作品の主題である文明の危機を理解するための、
(3) 悪魔人間説が語る主題
第三の『悪魔人間説』と、そこから生じる物語展開は、この作品の主題である文明課題に対する対策の、究極の失敗例を示している。
核兵器の応酬は神々の介入によって防がれたにも関わらず、デビルマンの存在を知らない人類は、最新の科学技術をもつ悪魔特捜隊により、結果としてデビルマン達をも狩り立てることになる。その後に発表された『悪魔人間説』は、サタンの情報操作もあって人間同士の猜疑心や差別意識を暴走させ、世界中を戦乱の地と化すばかりか、市民が集団で他の市民を虐殺する地獄絵図まで作り出してしまう。文明に対する悪魔という脅威の出現を前に、文明活動の本体たる経済・社会活動を支えるべき、科学・技術や制度・政策は、一体どうなってしまっていたのだろうか。
農業・工業・情報技術のように画期的な文明発展上の〝主力技術〟は、それだけで経済・社会を豊かにできるわけではない。技術の創造に必要な〝研究・開発技術〟、主力技術の物的資源化に必要な、土木・冶金・電気技術などの〝関連技術〟、技術の健全な開発・普及を助ける制度・政策の実現に必要な、〝社会工学的技術〟も必要になる。
また、それと同様に制度・政策は、福祉・産業政策のように直接的な〝経済・社会政策〟だけで経済・社会活動を健全に保てるわけではない。技術の開発・普及を助ける研究・開発政策、インフラ政策、社会工学的(ルール作り)政策のような〝技術的政策〟や、政策実現に必要な人々の教育・健康(精神・社会的含む)を高める〝人的資源政策〟、行政活動自体の高度化や国際化、民主化に応えて健全性を保つ〝行政管理政策〟も必要である。
図:https://19084.mitemin.net/i360580/
そう考えると、ここで描かれているのは、科学・技術の不十分さだけではない。制度・政策自体も各所で破綻している。人類はまさにSF的な数々の先端技術を持ちながら、悪魔とデビルマンの違いに気づかず、識別する技術も持ちえず、共に悪魔と戦いうるデビルマン達を自ら遠ざけてしまう。さらに人類は、悪魔がすでに撤退しているにも関わらず、サタンの扇動に乗って互いに殺し合い、ついにはデビルマン達にも見捨てられ、滅びていく。科学装備を持たぬ民衆も、暴徒と化して牧村家を襲う。 科学の
支援技術なき革新的技術は悪用・誤用され、社会工学もパニック阻止に失敗する。これを制度・政策の面から見れば、技術の開発・利用や物的資源化の失敗であり、精神的・社会的健康の維持や大衆啓発・社会教育の失敗でもある。そして何よりも、無責任なサディストを排除してデビルマンを戦力化し、市民と助け合わせ、悪魔を撃退するか交渉の席につかせ、さらには悪魔や人類を見捨てようとする神に翻意を促す、という利害調整政策、すなわち人々の組織化と資源の再分配・再投資による、経済・社会活動の健全化の失敗である。そして(本稿では経済・社会活動という言葉を社会的現実行動という意味で使っているので)そこには軍事や警察など、行政の実施活動も含まれる。
この作品を読んだ当時、まだ小学生だった私は、『なぜこんなに陰惨な話を……』と衝撃を受けた。しかし、こうした事例は魔女狩りやホロコーストなど、歴史上も実際に数多く存在した。
注目すべきは作者が虐殺や紛争だけでなく、そうした問題の背景には差別や偏見など、不公正の問題が隠れている場合もある、と示していることである。
こうした問題は現実にも、母国の差別や貧困に悩む若者がテロ組織に引き込まれてしまうといった形で起きている。近年トマ・ピケティ教授の、経済格差は拡大し続けてきたとする著作が話題になった。世界最先進国のアメリカにおいても、格差が政治課題となりつつあるし、日本でも、子どもの貧困による教育や保健への影響が大きな問題となりつつある。
もちろん、高度成長時代に描かれたこの漫画には、貧困や格差といった言葉は出てこない。しかし作中では、悪魔の襲来によって環境負荷が上昇したことにより、人々は生命や安全という最も重要な〝資源〟の分配を巡って犯罪や戦争に走り、自滅していくのである。
(4) 悪魔鬼子説/人間害獣説が語る主題
『悪魔鬼子説』と『人間害獣説』は、いわばおさらいである。
ダークでワイルドなヒーローもの漫画を期待して読み続けてきた読者が、このように
そこで、あらためて物語を振り返ってみると、『神々が悪魔を滅ぼそうとしたのは、その非文明的な好戦性のせい』、『悪魔が人類を滅ぼそうとしたのは、その人口爆発や環境破壊のせい』、『人類が悪魔に滅ぼされたのは、差別や偏見のせい』、『悪魔が神々の再侵攻を防げなかったのも、相手を滅ぼすことによって問題を解決しようとしたせい』だと分かる。
神々は言葉を発することなく、その考えも定かではないが、ならば読者はそれを知ろうと、いわば神の目でもう一度、悪魔や人間の失敗の過程を見直すことになる。
するとその時、この作品に描かれた悪魔と人類はどちらも、文明課題の解決に失敗して文明を見失った時の、我々自身の姿なのだと気付くのである。
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