【其の拾】果たされない約束

 八月一日ほずみは学校が終わるとその足で都内の大学病院に足を運んだ。受付を済ませ、看護士に挨拶をした八月一日はとある病室に向うのだが、八月一日が向かう先は彼が進めば進むほど人影が少なくなっていく。八月一日が入った「特別治療室」と書かれた病棟の一室には、点滴に繋がれた老婆が眠っていた。その薄暗い部屋の中、機械によって生かされているその老婆の枕元まで行き八月一日は彼女の頭をそっと撫でる。

「先生……。」

 八月一日が触れたのに気づいたのだろう、老婆が目を覚ました。

「起こしてゴメン。……久しぶりだな、夏目なつめ

「そうだっけ?なぁんの変化もない日々だからねぇ、また来たの?て感じ」

 その老婆は、声こそは老人のものだったが口調は随分と若い。

「ごめんな、何か先生暇人かもしれない」

「駄目だよぉ先生、せっかく教師になれたのに……。」

「そうだな……。」

 八月一日は、目を逸らしながら笑う。患者に気遣われるくらいに元気がなかった。

「……ねぇ、外晴れてる?」

「ん?ああそうだな、少し雲があるけど……。」

「いいよ。少し雲があるくらいが、丁度いいから」

「うん」

 八月一日は老婆を抱きかかえて車椅子に乗せると、点滴が下げてある器具を車椅子のサイドに差して病院の外に出た。外は八月一日の言うように少し雲がかっていたが、皮膚がすでに弱っている老婆にはそのほうがよかったようだ。病院の中庭には多くの患者が体を休めていたが、彼らは八月一日達が親子か何かと思う程度だった。

「いい風ねぇ……。老体にはこれぐらい優しい」

 そういう老婆の自虐の冗談も、八月一日には笑えなかった。

「そういえば、先月は三人の命日だったね……行ってくれた?」

「うん……。」

 背中越しに老婆が聞く八月一日の声は、その表情が手に取れるようだった。

「先生元気ないよぉ?どっちが年寄りかわかんない」

「すまない、ちょっと学校でいろいろあってな……。」

「ちょっと弱音?老人の前でそんなこと言う?」

「いや~、だから今日は夏目に元気を分けてもらおうと思って」

「えぇ?やめてよ、これ以上わたしから吸い取るつもりなんだ」

「お前は本当にタフだからな。いっつも勇気付けられるよ」

「どっちがお見舞いに来てるんだか」

「そうだな、すまない……」

「またあやまるし」

 八月一日と老婆は、何の目的も持っていないように、ただ車椅子を押して中庭をぐるぐる回っていた。笑うふりもしたが、八月一日お口からは空気が漏れただけで形にならなかった。

「……年内もたないかもって言われた」と、突然老婆が声の調子を変えて言った。

 八月一日が押していた車椅子が止まる。老婆が何か言おうとするが、その言葉が飛行機の音で掻き消えた。ただでさえ薄暗かった二人の周囲は完全に雲がかかり、二人は完全に闇に落ちた。

「そうか……。」

「インフォームドコンセントってやつ?残酷だよね。……でもさ、これ去年も言われたわけ。ホントにここやぶなんだから」

「そりゃあ、お前が医者の想像以上に頑張ってるからだよ……。」

「そーなんだよね。だからもう一ふん張りしてみようかなって。わたし、あきらめないよ?」

「もちろんだ」

「だから……先生も頑張んなよ。教え子が戦ってるんだから」

 老婆が八月一日の方を向いて笑うと、雲の切れ目から光が差し込んだ。笑った老婆の口の中で、入れ歯ではない永久歯が白く光る。

「そうだな……。」

 病室に戻ると、八月一日は老婆を抱きかかえ再びベッドに寝かせた。

「……先生にこんな風に抱っこしてもらえるなんて思わなかった。わたしたち夫婦みたいだね」

「馬鹿いってら……。」

 八月一日は微笑みながら点滴を元の位置に戻す。

「……先生、頑張ってね」

「ああ」

「みんな、先生が頑張ってるってこと知ったら喜ぶから」

「……ああ」

「誰も、先生のこと恨んでないよ。わたしだって先生がいたから生きてこれたんだもん」

 車椅子を畳んでいた八月一日だったが、老婆が「愛奈まなだって……」と言うとその手が止まった。

「みんな先生のこと誇りに思ってるから。アイツやっつけて、大勢の命救ったんだもん。凄いよ。だから……わたしたち先生のこと誇りに思ってるから」

 八月一日は畳んだ車椅子を部屋の隅に置き、「ありがとう」と言った。八月一日の声は少し掠れていた。

は絶対に負けない。そうでしょ?」

「そうだ……そうだな、夏目」

 八月一日は老婆の手を強く握った。に、少しでも自分の生命力が受け渡せるように暖かく厚く。


 その晩、八月一日は夢を見た。八月一日は自分の腕に少女を抱きかかえていたが、その生命力に満ちた若々しい少女からは、みるみるうちにそれが火にくべられた小枝のような乾いた音と共に奪われていき、文字通り少女は干からびていってしまうという異様な光景だった。その少女は、「先生?何が起きてるの?ねぇ、せんぜぇ……」と、自分の身に何が起きているのか理解できず、痩せ細った顔のせいでデメキンのように強調された瞳を八月一日に向けていた。

 夢が次の場面へと移ると、そこで八月一日は椅子が一脚しかない暗い部屋でテレビを見ていた。モニターには八月一日と同じように、椅子に座った20代半ばの青年が映っている。その青年はビデオの早送りのようにみるみる老いていき、90歳を超える程の年齢になると、そのまま椅子ごと倒れ画面から見えなくなった。

 目を覚ますと、まだ6月にもなっていないというのに八月一日の体はしっとりと濡れ、部屋の中はつけっ放しで砂嵐になっているテレビのみが光を放っていた。砂嵐の雑音が、それとも昼の出来事があんな夢を見せたのだろうか。八月一日は抜けた水分を補給するため牛乳の紙パックをラッパ飲みする。しかし、別段牛乳を飲みなれていないわけでもないのに、八月一日の胃は牛乳を受け付けず、それは逆流してシンクへと吐き出されてしまった。

 牛乳と粘液で滑った口を腕で拭いながら八月一日は呟く。

「負けないんじゃない……。」

 ……八月一日から吐き出された粘ついた白濁液は、ノロノロと流しの奥の闇へと吸い込まれていった。


 八月一日先生が頑張っていたのはわたしたちのためだったのでしょうか。もちろんそれもありますが、少なくともわたしが先生から感じていたのは、情熱とは違う、別のところから来るエネルギーだったように思います。それは誰かとの遠い昔に交わした、大事だけれど決しては果たされることのない約束のような、まだ子供だったわたしたちには知ることのできなかったものでした。けれどだからこそ、八月一日先生は決してあきらめなかったのだと思います。先生は一人ではなかったからです。

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