さよなら、ほずみ先生
鳥海勇嗣
【其の壱】さよなら、八月一日先生
「
三〇年前、八月一日先生はわたしの担任でもありました。その八月一日先生が今日、この学校で定年を迎えられます。けれど普通の定年を迎える先生の挨拶とは違い、今日この学校の体育館にはわたしを含め、大勢の先生のかつての教え子たちが、先生を見送ろうと押しかけていました。空調の効いてるはずの体育館は、初春だというのにそれでも暑苦しく、わたしも他の大勢の生徒もじっとりと汗ばんでいますが、誰一人、文句を口にする人はいません。それはきっと、今見送られているのが他でもない八月一日先生だからでしょう。
「え~それでは、八月一日先生から一言お願いします」
在校生からの挨拶が終わり進行役の教頭先生がそう言うと、渡された花束を抱えて恥ずかしそうに頭をかきながら八月一日先生が講壇の前に立ちました。
「うん、何を言おうか……。昨日一所懸命考えてきたはずなんだけどね、緊張して忘れちゃった」
八月一日先生がそう言うと、体育館の空気は笑い声で揺れました。先生はそのみんなの反応を見て、照れながらもう存在しない髪の毛を手ぐしで整えています。わたしが初めて八月一日先生と出会ったときはまだ先生も30代で、今では想像もつかないほどにフサフサだったのですけれど。
「そうだねぇ。まず、こんなに多くの人達に祝福してもらえるってのは嬉しいかな。本当に教師冥利に尽きます。みんな、ありがとう。でも……こんなに多くの人に来てもらえるとね、なんだか自分が特別な存在な気がしてしまいがちだけど……決してそうじゃないんだよね」
今まで照れ隠しでうつむきながら話していた先生が顔を上げると、そこにはうってかわってとても静かで穏やかな表情がありました。
「そうだよね、特別なのは君たちだった。僕は……君たちがいなかったら、本当になんでもない普通の教師だったんだ。君たちが僕を引っ張ってくれたんだ。君たちだからこそ僕は必要とされ、君たちだからこそ僕は頑張った。だから……やっぱり特別なのは君たちなんだよね。なんで、お礼を言うのは僕だ。とても……なんていうのかな、この世で一番価値のあることを君たちから僕は受け取った。それは君たちじゃないと教えてくれなかった、とても大事なことだったよ。うん、本当にありがとう。……やだね、意外と平気だと思ってたんだけど、これ以上話すのはきついな……」そこまで言うと、八月一日先生は腰に両手を当ててまた黙ってしまいました。
この先生の挨拶は、ありきたりの「生徒に教えられています」という教師の定例文じゃなくって、本当の言葉なんだとおもいます。もしかしたら八月一日先生は、普通の学校にいたら何てことのない、普通の先生だったのかもしれません。それは、きっとここに居るみんながおもっていることでしょう。でも、それでもいいんです。普通の先生だからこそ、きっとわたしたちは八月一日先生が大好きなんです。
30年間、お疲れ様でした。
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