文学少年の秘密
神奈沢 薫
序章 或る文学少年
第1話 文学少年の決意
今日、僕は退部届を提出した。
部長は、黙ってそれを受け取った。部室から出るとき、ひそひそともくすくすともつかない囁きが僕の耳ににじり寄ってきた。
こっちへくるな。
一睨みしたい衝動に駆られるが、そのまま黙って音の波を潜り抜ける。
古くて建て付けの悪い戸は、ゆっくり閉めても少しだけ浮き上がるように開いてしまう。その隙間から僕の足に纏わりついた囁きは、僕の耳に辿り着くころには壊れた金管楽器のような笑い声に変わったが、やがて廊下を歩く僕の硬い足音に振り払われた。
部室から生徒玄関へと続く暗い道を、俯いたまま黙って歩く。
普段は教室の片隅で、やかましい男子や派手な女子たちから身を隠すようにして過ごしているくせに。部室でかたまっては馬鹿騒ぎをしている女子部員たちに、僕は憎悪とも軽蔑ともつかない砂嵐のような感情を抱いている。
耳障りなら抜き言葉。下品な男言葉。猥褻な話題。こんなものに馴染めなくて、僕は助かった。
若葉中学校の北館三階、廊下の一番隅っこ。日当たりの悪さからくる鈍重な匂いとけたたましい女子の笑い声が、徐々に遠ざかっていく。
これでいい、と僕は思う。あの部に、本を楽しんでいる人間など誰もいない。鼻に掛かった眼鏡を少し上に押し上げ、僕は前を向いた。
僕は純粋な文学少年として、誇りを持ってこの部を後にするのだ。
制服のポケットから文庫本を取り出す。余談だが、この学校では日頃ジャージを着用して過ごしている人が多い。野暮ったい生地でできた田舎くさいデザインのジャージをだらしなく腰で履いて、長袖の袖口に鋏で切りこみを入れてぼろぼろにして着るのが格好いいらしいのだ。
狂っている。僕はジャージを好まない。高等教育を受ける者が脈々と着てきたこの学生服こそ、僕の中学校生活に相応しい。
僕は本を片手に階段を下る。窓の外から大仰な掛け声が聞こえてくる。
いち、に、いち、に。
サッカー部の馬鹿どもは二進法しか知らないのだろうか。この本に真っ赤な絵具を付けたあの阿呆も、ヘディングのしすぎで脳細胞が死滅したのではないだろうか。僕は、自分に向けられたあの醜いにやにや笑いを思い出して、身震いする。
なぜ十五歳にもなってあんなに低能なのだろう。全く理解ができないし、理解ができないことを誇らしく思う。
僕は、離脱したい。
生徒玄関を出て本を開く。車通りの少ない校庭脇の道を、川端康成と二人で歩く。文芸部の女子たちが文豪の名を口にしているのをたまに聞くが、懸けてもいい。彼女らは川端を読んだことなんてない。文豪の小説の二次創作や文豪自身を主人公の名前に使った二次創作を読み、勝手に膨らませたイメージで盛り上がっているだけだ。
全く、馬鹿げている。文豪の人物像に脚色や妄想を挟む余地が必要があるのだろうか。本を開けば、彼らは饒舌にその生涯を語ってくれるというのに。
びゅっ、と目の前を何かが過った。空気の抜けかけたテニスボールのようだ。黒のマジックで「キモヲタ死ね!」と書いてある。
僕はその幼稚さに大きくため息をついた。仮にも自分で選んだ部活だろうに、活動中にふざけるだけでなく用具に落書きまでするとは。彼らは何のために今、校庭にいるのだろう。愛のなさに、哀れささえ感じる。
僕は十五歳の良識ある人間として、本当は触りたくもなかったがそのボールを拾い、近くのゴミ箱に捨てた。こんなくだらない物のせいで転ぶ人でもいたら可哀想だ。
校庭から下品な言葉を叫ぶ声が聞こえたが、同じ土俵には決して立ちたくない僕は憐れみを持ってそれを無視した。さっきまでボールが転がっていた場所を、自転車が通り抜けた。
僕は川端と歩く。そうすれば、いつだって世界は静かで饒舌だ。
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