解決篇
(1)
形川リナが死んでいる。
3分割された右腕が、左手の部分に。
17分割された左足が右手の場所に。
6分割をさらに4分割した左手が右脚と左足代わりにその中心部分に。
28分割をさらに真っ直ぐ縦に半分にされた右脚が、頭の部分に。
そうして、ズタズタに引き裂かれた内臓が穢れた後光のように周囲を彩り、開腹された腹の中には、臓物の代わりにジグソーパズルのような有様になった彼女の頭部が、弾けた
しなびた黒い眼球が、虚ろな眼差しでこちらを見詰めている。
溢れ出す血液は
あまりに欠損が激しく、無事な部位は存在しない。
手指や顔のパーツも、そうだと言われなければ判別不可能なほどあまりにズタズタに砕け散っていて――それはまるで、生卵を地面に落としてしまった時の、取り返しのつかない損壊のようであった。
「――――」
私は、私達は、その様を呆然と眺めている。
独房の中を私が覗いたのはこれが初めてだったが、そこはあまりに地獄染みていた。
なにせ、形川リナの遺体は
――十字架の形に組まれて、部屋の壁に打ち付けられていたからだ。
釘。
無数の釘。
おびただしい量の釘が、彼女の亡骸が地に落ちる事すら許さず、打ち貫き、壁に突き刺し、固定していた。
そのあまりに冒涜的な光景に、とうとう誰かが
えづく音。
吐瀉物が
苦鳴。
視線をちらりと向けると、楽田さんがうずくまり、胃の内容物を吐き戻していた。朝食前であったことが幸いしてか――それを幸いと言えるのか既に私に判断がつかなかったが――零れているのは胃液と少量の未消化物だけだった。
彼の背を擦りながら、三田さんが私に言葉を投げた。
「なんなのですか、これは……っ」
なにもかにもない。
形川リナが死んだのだ。
事件の、容疑者。その最有力候補が惨殺されたのだ。
二人目の、犠牲者が出たのだ。
それはたぶん、その場にいた全員が解っていて、解っていながら問わずにはおれなかった言葉なのだろう。
だから私は振り返り、一同を見詰め、こう告げた。
「これは、連続殺人事件です――密室で起こった不可能犯罪です」
二つ目の不可能犯罪が、嵐に沈む真子島の朝を告げた。
◎◎
「状況を整理します。私達は朝食の席に集まった。それは丁度、午前8時――その十分前。食堂に一堂に会するはずだった」
しかしその場に、形川リナの姿はなかった。
当然だ。彼女は独房に閉じ込められ、その部屋の鍵は私が預かっていたのだから。
私は鳥羽瀬さんと連れ立って、その場にいた全員の許可を取り、形川さんを迎えに行った。
そして、あの惨状に出くわした。
密室空間におけるバラバラ殺人。
さらには、分解され組み立て直され十字架に見立てられた遺体と、犯行声明文のような血文字。
あまりに凄惨極まりないその有様は、超常犯罪の言葉が相応しかった。
正常な神経の人間にできるような真似ではなかった。
「鍵は、ここにあります。鳥羽瀬さん、マスターキーは存在しますか?」
鍵をポケットから取り出し、食堂に集っている全員に見えるようにしながら、私は彼に問い掛けた。
しかし、彼から帰ってきたのは残念ながら否定のサインであった。三田さんにも視線を向ける。
「鳥羽瀬の言う通りで御座います。この館にはマスターキーは無いのです。いえ、以前はありましたが……恥ずかしながら身内の――楽田の過失により、紛失しているので御座います。また、そのマスターキーは特殊なものでありましたから、新たに創ることも適わず、もうこの数年は存在しないままなので御座います」
二人の話を聞いて、私は頷く。
マスターキーは、存在しない。
「では、あの部屋に通じる秘密の通路のようなものは?」
この館の構造はシンプルだ。
部屋数が大きく、敷地面積が広く、凹状の屋敷でこそあれど、いわゆる隠し通路のようなものがある、そのようなものが仕込めるようなゆとりはない――それは初日に確認している。
それでも、一応尋ねる必要があった。
答えは、
「いいえ、私が存じ上げる限り、そのようなものは存在致しません。神に誓っても断言できます」
「紅奈岐美鳥嬢に誓っても?」
「無論でございます。私、ことこの館の構造については嘘偽りを口にしたことはありませんので」
「……つまり」
三田さんが、ゆっくりと呟いた。
それまで俯かせていた顔を緩慢に上げ、私を生気のない眼差しで見つめ、言った。
「刑事様だけが、あの独房に出入りできたので御座いますね?」
……そう言うことになる。
つまりは、私が今の容疑者だ。
不可能犯罪者が死に、代わりにその容疑者筆頭の最有力候補に、よりにもよって刑事たる私がすえられた形だった。
……もっとも、私は自分が犯人ではないことを知っている。
身の潔白を訴えることは困難だろうが、私自身が無罪を承知している。
だから、やはり私が行うべきは事件の解決ではなく、精緻な科学調査が可能な応援と救助がこの島に辿り着くまで、これ以上の被害を出させないことだった。
「鳥羽瀬さん、天候の回復は見込めますか?」
三田さんの質問に応えぬまま、執事たる彼に問いを投げる。
鳥羽瀬さんは、その立派なカイゼル髭を何度か撫でて、「昼までには、どうにか落ち着くはずで御座います」と言った。
昼。
食堂の大時計へと視線を向ける。
いまの時刻は、午前9時17分。
あと、三時間弱の辛抱ということになるか。いや、天候が回復してすぐに救助がやってくるわけではない。4時間から5時間は耐える必要がある。
どうする?
こんな状況で、事件がなぜ起きたのか、いったいどんな手段によるものか、犯人は誰か、何一つ解らないこんな状況で、私はどうすればいい?
不可能犯罪に翻弄され蹂躙される感覚。
私は、嫌と言うほどこの感覚を知っている。
5年前のあの事件から。
今日と言う日まで絶え間なく。
いつの間にか、世界で唯一の不可能犯罪対策の専門家などと祭り上げられて。
この想いを、幾度となく味わった。
人知の及ばぬ大犯罪。
常理を超越した超犯罪。
私の手の届かない所で、人が次々に殺されていくこの感覚を。
――解決しなければならない。
胸の奥で、何かに火がついた。
それは、憎悪や復讐と言う感情に近いもので、陰火の如く何もかもをゆっくりと蝕む恐ろしさがあったが、だが、しかし、いまのこの状況では、必要なものに思えた。
何とかしなければならない。
ではなく。
なんとかする。
めらりと燃え上がるその炎が、私を突き動かす。
「みなさん」
画期的な発想の飛躍などなく、無策のまま、それでも事件を解決に導こうと声を上げた瞬間、私の胸元でそれが振動した。
まるで私の思いに応えたかのように、衛星電話が、着信を告げていた。
取り出し、耳元にあてる。
疎通――同時に聴こえたのは、聴き慣れた声だった。
『御手洗だ』
「――――」
その、落ち着いた声音に、思わず崩れ落ちそうになる。空間を超えて、電波になって彼のもとに飛来し、縋りつきたくなる。今日まで私を助けてくれた彼の声にはそれだけの力があった。
安堵に泣き出しそうになる自分を、それでも律して立ち続ける。胸の炎がそうさせる。
『どうした、壬澄くん。何かあったのか? こちらはあと四時間あればそちらに救援を向かわせられる。詳しい状況を報告してくれ』
私の沈黙から、鋭敏に状況の変化を感じ取った部長が、矢継ぎ早に言葉をかけてくれる。その忙しなさに、私は寧ろ冷静さを取り戻し、落ち着くことが出来た。
ありのまま、起こった出来事を伝える。
その事件のアウトラインを伝える。
「紅奈岐美鳥が
『つまり――不可能犯罪が二件起きたという事か? 容疑者が、犠牲者になって?』
「はい。私は、事件を防げませんでした……」
『不可能犯罪を阻める人間などこの世にはいない。超常犯罪を未然に防げる人間などこの世にはいない』
「ですが」
『それが出来たのなら!』
「っ」
なお言いつのろうとした私の言葉を、彼の強い言葉が遮った。
私が黙ると彼は、いったん声のトーンを落とし、迷子の子どもに大人がそうするように、言い聞かせるような、宥めるような優しい声で、こう言ってくれた。
『それが出来たのなら……君はやっていたはずだ。君に防げなかったのなら、この日本にいる誰にもそれは出来なかったんだ。だから、そんなだらしのない声を出すんじゃない』
君は、刑事だろう――と。
その場で事件を解決できる人間は、君だけだろう――と。
彼は――御手洗総一郎は、父親のような声音で、そう言ってくれた。私は、彼の大きな手が、この短い髪を撫でてくれているような、そんな錯覚に陥った。
「―――はいっ」
だから、短くも決然と告げたのは、その思いに報いたかったからだ。
是が非でも事件を解決し、この場にいる全員を救いたいと、かつてこの人がそうしてくれたように私も刑事としての職務を全うしたいと、そう思えたからだ。
私の決意の言葉を聞いて、電話の向こう側で彼が頷く気配があった。
『天候が回復次第、最大限の応援――救援隊をそちらにおくる。あと四時間……いや、三時間半、耐え忍んでくれ』
「いえ、是が非でも、それまでにホシをあげて見せます。この事件を、不可能なままで終わらせたりなどしません。だって、私は」
そう、私は。
『――その意気やよし。美しいぞ、女』
突然電話口から響いたその音を、私は一瞬、声だとは認識できなかった。
何故ならそれは、声と呼ぶにはあまりにも、あまりにも――
『な――なぜ君達がここにいる!? 君達はボストンに――い、いや! そんなことはどうでもいい。総員、この二人を取り押さえろ! 絶対に逃がすな!!』
電話の向こうが騒然となる。
『総員――かかれーッ!!』
御手洗部長のその号令を最後に、その機械が伝える音は、どれも意味をなさないものに変じた。
けたたましい怒号。騒然たる喧噪。叫び声に吠える声。物の飛び交い壊れる音。
激しい音の連続だけが、受話器から漏れ出してくる。
「なにが――いったい何が起きたのですかっ? 部長! 御手洗部長――」
私の、悲鳴にも似たその問いかけは、
『ああ、全く嘆かわしい』
そのあまりにも――
『あまり騒ぎたまうな、乙女よ』
あまりにも――
「折角の興が殺がれる」
――あまりにも近くで響いたその声によって、打ち消された。
「!?」
反射的に跳び退る私の手から〝その存在〟は、まるで魔法でも使ったかのようにするりと衛星電話を抜き取る。
そうして丁寧な動作で、見入ってしまうような優雅な動きで、その電話電源を――切った。
「な、な――」
言葉が出ない。
当然だ、こんなものを目にして瞬時に言葉が紡げる人間なんていない。いてはいけない。
だって、そうだろう?
いまの今まで誰もいなかったはずの場所に――1組の少年少女が立っていたのだから。
一人は少女。
真っ白な、純白な、髪まで白い少女。
その身に着ける衣装はいわゆるゴシックドレスと呼ばれるものだが、それも異様なほどに白く、一切の穢れを拒絶しているかのように白い。
ヘッドドレスが覆う髪は、そのドレスよりもなお白い。
潔癖、無垢、純粋、どうしようもない白。
その瞳は、つっと伏せられて伺えない。
瞳が伏せられていてなお、その少女は綺麗であった。触れることを躊躇うような綺麗な少女だった。
そうして、もう一人は少年だった。
英国紳士が身に着けているような、極上の――遠目にも最上級と解かる紳士服を身に着け、上質なマントを羽織る少年。
その頭部には小さめのシルクハットが乗っている。
右目には
その左手には
足元は厚底の革靴だ。
少年紳士。その言葉は彼のために今、この瞬間神が生み出したものだろうか。
だが、そんなものよりもいっそう、彼を表現する最適な言葉があった。
触れたものすべてを塩の柱に変えてしまうような美貌。
その少年は、黄金の髪に黄金の瞳を持つ彼は――あまりに美しすぎた。
その、光り輝くような少年が、口元に小さな笑みを浮かべて、こう言った。
「はじめましてだ、諸兄ら。或いは麗しの乙女」
では、早速だが。
「このくだらない醜悪な茶番を――終わらせよう」
◎◎
「い――いったいいつから、お前達はいたんっすか!」
その場にいた全員の心中を代弁する三田さんの言葉に、少年は笑みを返す。
その笑みは美しすぎて、私は卒倒しそうになった。
「クローズドサークル。いわゆる絶海の孤島、嵐の山荘、閉じた領域……そのお約束として、ひとつ。招かれざる客人と言うものが、ある。本来いないはずの場所に、異物として邪魔者が混入しているのだ。ミステリーにおける禁じ手の一つだが、時には場面を盛り立てる」
「……お待ちくださいませ。この真子島、警備は万全でございます。あなたがたのような存在の侵入などを許すはずが……そもそもこの天候でどうやって」
鳥羽瀬さんもっともな疑問に、しかし何らぶれることなく少年は返答する。
「招かれざる客人は、多くの場合、事件の起きるより以前に、その場に潜んでいる。事件より以前にいるからこそ、事件の当事者となり得る。犯人と疑うことができる。故に、招かれざる客人だ」
「では、あなたがたがお嬢様を殺した犯人! ……ということですかな?」
「壮年の執事よ、それは
「あなたは」
「うん?」
二人の会話に割り込む形で、私が絞り出した声に、彼の微笑みはこちらに向く。
眼が眩む。
眩しい、すべてを
それでも、私は言葉を振り絞る。
「あなたは、何者ですか? 事と場合によっては」
「逮捕する……か。よい。レディー、僕は君を気に入った。だから素直に名乗ろう。僕の名は
ご、ご都合主義……?
「ああ、淑女がそんな顔をするものではないよ」
どんな顔を私がしていたのはともかく、その少年――森屋帝司郎は、しかし意外なほど素直に、自分が何者であり何をしに来たのかを告げて見せた。
「繰り返させないで遅れ、レディー。僕はただの探偵役だ。不本意ではあるが、今回はその役目を引き受けた。麗しの乙女の熱意に打たれたのだよ。だから、ミス。ミス・ミスミ・マダラメ」
彼は、
「もう一度言おう――僕がこの事件を、終わらせてあげる。犯罪帝王学の講義を――初めてあげよう」
天使のような笑みでそう告げた。
三田恵理子が失神し、それを抱きとめようとして楽田英輔が倒れ込み、鳥羽瀬愁はよろけて壁に手を付き、私は。
「――――」
私は、その笑みに見惚れていた。
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