018.屈折せしもの空より堕ち

 ぼんやりした不安というのは、その語意に反してとても明瞭な表現だった。僕が、いや、僕たちが抱えているのは、まさにぼんやりした不安なのだ。

 僕たちはある事実を前にしながら、それを無視するかのように当たり前の日常を過ごしている。テレビでは見た目の整ったモデルが、流行のファッションやスイーツの情報をリポートしている。また、呑気な表情のコメンテーターが、芸能人の恋愛模様を談じている。そこに感情はない。虚しさや切なさを糊塗しようという意思だけがそこにある。僕にはそう見えた。

 僕はやはりぼんやりした頭でそんなことを考えていた。そこへ朝食のトーストを運んできた母さんが来たので、僕は慌てて頭を切り替えた。決して聡くはない母さんでも子供の感情は直感的に分かるものらしい。かといって、僕は母さんの心情を瞬時に察知することはできない。だから頭を切り替えたのを悟られたかどうか分からないまま、心臓をどきどきさせながらトーストを受け取った。

 既に父を仕事へ送り出した母さんは、甘ったるいコーヒーを飲みながら画面に視線を向けた。その横顔を見ていると、僕はいつも安心させられる。それは単に肉親に対しての好意的な感情のためでもあったし、大人には立派に感情があるのだということを再確認させてくれるためでもある。テレビに出ている大人たちには感情というものが読み取れない。もちろん、その理由はよく分かる。悲観的な未来しか思い描けない状況の中で、なんとか秩序を維持しようとしているのだ。感情の爆発が起きないように、少しでも長く平和でいられるように。

 あの画面に映し出される世界が成立するまでには、多くの大人たちの意志が介在している。そこには意志と同時に感情も存在しているはずなのに、どこかでそれは削ぎ落とされる。一人一人の感情を殺して成り立っている世界だから、テレビはあまり好きではない。一方でネットの世界では簡単に感情を含んだ言葉と出会うことができる。ただし、どんなに笑っているように見えても、どんなに悲しんでいるように見えても、本当にその感情が存在するのかは分からないし、その裏にどんな意志があるのかを読み取ることは難しい。だから、ネットの世界が好きかといえばそうでもない。

 僕が思うに、意志と感情とは同時に存在していなければならないのだ。感情のない意志は歪んでいるし、意志のない感情は制御ができない。では、意志と感情とが混濁してしまえばどうなるだろう? その場合は――

 僕は駅までの道を行きながら、ぶんぶんと頭を左右に振った。考え事を始めるとついつい深みにはまってしまうのが僕の悪い癖だった。せっかく用意してくれたトーストの味も覚えていないし、母さんにしっかり挨拶してから家を出たかすら曖昧だ。この恐ろしい世界で生きている僕たちは、断続的に訪れる別れを大事にしなければならないというのに。

 衝動的に家に戻ろうかという気持ちが沸き起こったけれど、なんとなく気恥ずかしいような思いがした。それにまだ若い僕は死というものを身近に感じることができずに、そのまま学校に向かう選択をした。選択しているという自覚もないままに。

 気を取り直した僕は、この朝の雰囲気すら大事なものだと考え始めた。電車で高校へ向かう陰鬱で長い道のりだ。電車に乗っても座れるわけではなく、振動に揺られながら音楽プレーヤーでお気に入りの曲を再生するだけ。何も楽しいことはない。でも、奇跡的に座席に座れることもあるし、別の高校の女子と目が合って脳が覚醒することがある。そんな小さな幸せを噛み締めながら、僕は毎日を生きているのだ。些細な幸福に溺れて大きな何かを忘れていく、それが僕の人生なのかもしれない。

 今日は座席に座れなかったが、ドアの横を確保してひたすら窓の外の景色を眺めた。踏切待ちをしているあの車はどこへ向かうのだろう。コンビニで弁当を買い込むあの土木作業員はどの現場へ行くのだろう。まだ起き上がったばかりのまっさらな太陽が、朝の情景に革命的な色彩を添えている。僕は目を細めて太陽を見つめた。眩しさの極みに何かが見つかるかもしれない、そんな子供じみた戯れだった。僕は何かを求めている。その正体を悟らせないかのようにして、電車は高校の最寄り駅に滑り込んで行った。




 教室に入ると真っ先に友人が話しかけてきた。あまり友人を作らない主義の、僕の唯一と言っても良い友人だった。


「聞いたか? 城戸の奥さん、例のアレで死んじゃったって」


 城戸というのは理科の教師で、ちょっと変わったところはあるけど面倒見の良い人だった。僕はそうか、とあまり興味を示さずに自分の席に座った。でも、頭の中ではその興味が首をもたげてきていて、粘菌のようにあちらやこちらへ思考を広げていった。どうして城戸の奥さんじゃなければならなかったんだろう、子供はいたのか、いたとすれば何歳くらい? 城戸はこれからどうするんだろう、今までのように何でもないような顔をして生徒の前に立つことができるだろうか?

 そんなことを考えていると、いつの間にか僕の前の席に反対向きに座って、僕の方を向いて話し続けている友人に意識が向いた。また考え事にのめり込んでしまっていた。


「かわいそうだよな、それに他人事とはいえないし。お前のところはどうなの?」

「どう、って?」

「ほら、予兆みたいなのを感じる人がいるらしいじゃん」


 彼が言うのは都市伝説のような話で、それが起こる前兆のようなものを感じる人がいるらしい。青空を見上げていると視界に微生物のようなものが映るとか、空が曇ってくると頭痛がするとか、そんな類のものだ。でもそれだって一種の病気の症状に過ぎないし、本当にそれが予兆だったとしても、その時点で悲観するような人間は覚悟ができていないのだ。……と、突き放して考えてみたが、実際に死を目の前にしたときに冷静でいられるかどうか、それは僕にも分からない。


「僕は別に問題ないよ」

「お前が大丈夫なのは見てて分かるけどさ、あの妹ちゃんのことが知りたいわけよ」


 ああ、と僕は腑に落ちた。彼が熱心に話しかけてくるのも、それが理由なのだ。たしかに彼は僕個人にではなく、僕の家族について訊いてきた。

 妹は受験を控えている中学三年生で、彼が気にかけるだけのことはあって、それなりに可愛い。それなりに、と言うと彼女を知る人々は謙遜だと言うけど、それも全くの的外れではない。真実、彼女は可愛い。でもそれを認めてしまえば、何かが壊れてしまう、規範のようなものや倫理のようなものが。僕はそんな気がしている。その危なっかしさを抱えながら、僕は今日も妹に挨拶をせずに家を出てきた。自宅から中学が近いこともあって、妹は遅くまで寝ているのだ。


「妹なら平気だよ」

「そうか、それならよし」


 彼はそれだけ言うと、さっと立ち上がって別の輪の中に入って行った。

 そろそろ彼との会話に飽きていたところなので、彼が去ってくれて嬉しいような気もしたが、妹のことを訊くだけ訊いておしまい、というのも失礼なようにも思えた。そこで会話を打ち切ることは彼なりのユーモアなり心遣いなのかもしれない、僕はそう考えたところで思考を打ち切った。




 帰り道、僕は交通事故の現場を目にした。

 交差点で信号待ちをしていた母と息子のところへ、制御を失ったトラックが突っ込んで行ったらしい。僕は見物人の中に混じってそのことを知ったが、どうやら人間というものは死というものに興味を持つ習性があるらしい。血に濡れたアスファルトや大きくへこんだトラックのフロント部分、衝撃を受けて歪んでしまった信号機。それらの発する死の臭いに、僕らはいつの間にか慣れてしまったらしい。

 再び帰り道を歩き始めた僕の頭の中は、やはり死のことで満たされていた。僕を含めた見物人は、何も死というものを面白がっているわけではないのだ。あれは、死というものをよく見据えることは、死ぬことの準備をしているようなものなのだ。この世界が大きく変わってしまったのは、黒い天使が舞い降りるようになってからだ。理由もなく死を運んでくる死の天使。彼らの手にかかれば、路上生活者だってアメリカの大統領だって等しく死に導くことができる。

 僕たちのその認識は、まさに屍の上に築かれている。その理不尽な死をもたさられる人は、一様に黒い天使が舞い降りる姿を訴えている。僕たちはそのために黒い天使の存在を知ったわけだが、その由来も理由も何も分からず、ただ怯えながら生活している。

 都市伝説によれば、黒い天使を目撃しても死ななかった者がいるというし、また黒い天使は未来からやって来た一種のプログラムで、未来人の使役に耐え得るかどうかを選別しているというのだ。馬鹿げた話だ。いや、人生というものは最初から馬鹿げているものだ。

 僕は、僕がどうなっても構わないと思っている。僕にとって大事なものは、母さんの横顔であり、妹の笑顔であり、そして……。

 ところで、僕に何ができるというのだろう? 僕にできることは、将来を悲観せずに明るく振る舞うこと、それだけなのかもしれない。家族に心配をかけないことが第一だ。もしそうだとすれば。

 突然、携帯電話が鳴った。画面を見ると妹からの着信だった。今頃は部活をしているはずなのに珍しいことだな、なんて呑気に考えながら電話に出た。


「もしもし、お兄ちゃん」


 消え入りそうな声だったが、間違いなく妹の声だった。少し気になったのは、周囲を気遣って意図的に声を落としているというよりも、何かが抜け落ちたような静けさだったことだ。


「どうした、部活はもう終わったのか?」

「それどころじゃないの。お母さんが……倒れてる」


 僕は反射的に電話をポケットに突っ込み駆け出した。さっき見た事故の光景を思い出し、次いで教師の城戸の顔を思い浮かべた。母さんは病気を持っていないし、今朝だって普段通りの様子だった。とすれば。最悪の場合を考えてしまう自分を責めながら、それでも理性的に考えることをやめられなかった。そうすることで別れの準備をしているのかもしれないし、ひたすら考えることで今向き合っている現実から少しでも逃避しようとしているのかもしれない。僕はそんな諸々のことを考えながら、家の近所の角を曲がった。走りっぱなしの身体が悲鳴を上げていたが、気持ちの焦りがそれを無視させてくれた。音を立てんばかりに頭の回転が速くなる。精神と肉体が分離している。あと少し、あと少し。僕は精神だけを先に到着させて、母さんが笑顔で出迎えてくれるのを夢見た。ようやく肉体が追いついた家の玄関は、僕が思い描いたのと違ってひっそりとしていた。

 ふう、と一度息を整える。妹を動揺させないためにも、最低限の余裕は作っておかなければならない。

 玄関を開けて靴を脱ぎ捨て、今朝トーストを食べたリビングに入った。ソファの前に座り込んでいる妹の姿がまず目に入り、そしてソファに寝そべって目を閉じている母さんを視界に捉えた。部屋の中は散乱としていて、まるで空き巣が入ったかのような状態になっていた。そのことは、僕に最悪の事態であることを告げた。

 ドアを開けて僕が入ってきたことに気付かなかったのか、妹は微動だにしない。肩に手を置いたところで、ようやく僕の存在に気付いた。


「部活が、急に休みになって。友達がね、どこか遊びに行こうって。でも財布を家に置いてきたから、一度帰ってきたの。そしたら……」

「こうなってたのか」

「うん」


 僕は熱でも計るように母さんの額に手を置いた。ひんやりとしていて、顔も青ざめていた。母さんは、死んでいた。


「ちょっと待ってろ」


 妹をその場に置いて、一度玄関を出た。近所の付き合いはほとんどなくて、誰かに頼ろうにも頼る人がなかった。もしこの瞬間に人が通り過ぎて行ったなら、それがどんなに恐ろしい顔をしていても、どんなに年老いていても、構わずにすがりついたに違いない。幸か不幸か、普段から人通りの少ないこの道を行く人はなく、僕は深呼吸をして冷静になろうと努めた。携帯電話を取り出すと、いざ必要なときに番号を忘れてしまっていた。ようやく番号を思い出すと、今度は警察と消防のどちらに電話すべきか迷った。

 母さんは本当に死んでしまったのだろうか? 僕は死というものに慣れていなかったから、死というものが分からなかった。もしかしたらまだ可能性はあるかもしれない。しかし、今度は別の可能性も考えられることに気付いた。母さんが死んでいるとして、どうやって死んだのだろう? 黒い天使に取り憑かれた人は、誰もいない空間に向けて喋りかけたり、狂ったように暴れ回ったりするらしい。でも、どうやって死んだのか本当のところは分からない。僕は迷った末に警察に電話をすることにした。

 電話を終え、僕は妹のいるリビングに戻った。妹は食事に使うテーブルの椅子に腰掛けていて、俯いたまま黙りこんでいた。僕は冷蔵庫に冷やしておいたミネラルウォーターをグラスに注ぐと、妹と向い合って座った。妹は静かにありがとうと言うと、少しずつ、しかし一度に水を飲み干した。僕も一口だけ飲むつもりが、思わず一気に飲み干してしまった。家まで全力疾走したこと、母さんの遺体を目の当たりにしたこと、警察に電話をしたことなど、この短時間に強い緊張を強いられていたから、それも当然といえた。

 僕が警察に電話をしたことを告げると、妹はまた、ありがとうと言った。今の妹に声をかけても何も響かないだろうと思いつつも、放っておくわけにはいかなかった。今はただ、寄り添っていることが大事なのだと思った。

 僕は肉体だけをそこに置いて、再び思考の世界へと戻った。さっき、妹からの電話がかかってくる直前、そして母さんの遺体を目にしたとき、僕はある間違いに気付いた。僕は僕がどうなっても構わないと思っていたが、あれは嘘だし、ずるい考え方だ。僕は家族というものを盾にして、自分の本当の気持ちを包み隠してしまっていた。

 本当は怖いのだ、死ぬことも何もかもが。




 太陽が傾き始めた頃、玄関のチャイムが鳴った。やっと警察が来たのだろう、そう思って鍵を開けた。そうして入ってきたのは、警察ではなく父だった。きっと僕と同じように妹から電話がかかってきて、仕事を投げ出して帰ってきたのだろう。西向きの玄関に立つ父の姿は、ちょうど太陽を背負う形になっていて、その表情はどんなものなのか判然としなかった。

 僕は何とも言えない微妙な気持ちになって、黙って父を迎え入れた。ドアが閉まる最後の瞬間、太陽に巨大な黒点が生じているのを僕は見た。

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