015.コキュートスの恋人たちのための習作
荒波に侵された心に残ったものは悲しみだけだった。他には何もなかった、何も。
……いや、正確には多くの物が残っていた。成長過程を記録したアルバム、毎日欠かさず付けられた日記、色鮮やかな口紅……。私はそのうちの一つ、誕生日に贈ったブランド物のバッグを質屋に入れることにした。手元に置いてあっても誰も使うことはないし、悲しみを呼び起こすことしかしなかったから。
私がバッグの査定を頼むと、質屋の店員は一目でそれを偽物だと見抜いた。彼はあえて偽物であると明言はしなかったが、ここで引き取ることはできない、そのような意味のことを言われた。そんなはずはない、知人に頼んで購入してもらったきちんとした品だ、と私は抗議した。しかし、それまでブランド物にまるで興味のなかった私では彼に大した反論もできず、偽物のバッグを持ち帰ることしかできなかった。
どこをどう通ったのかは覚えていないが、私は途中でふらりと深夜営業の喫茶店に入った。時刻は午後十一時を回っていた。どうせ家に帰ったところで誰かが待っているわけでもなく、容易に寝付けるようにも思えなかったので、ホットコーヒーを頼んだ。私の席にコーヒーを運んできた店員と入れ違う形で女性が隣の席に座った。水商売風の服装ではなく大学生というほど若くも見えないのでおそらく三十歳くらいだろうか、とコーヒーに砂糖とミルクを入れながら考えた。
あえて弁解させてもらうとするなら、私は好色家ではないので若い女性をじろじろと眺める趣味は持っていないし、他人の年齢をいちいち想像するほど暇な人間ではない。ただ、彼女の場合は、見ず知らずの他人にそれを強制させるだけの何か、言葉にできない魅力が備わっていたのだ。容姿は? なるほど、美しい部類に入る。性格は? それは分からない。では、何が彼女を魅力的に感じさせる? 答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると駆けまわる。女性のことをあれこれと考えるのも久しぶりのことだった。忘れかけていたときめき、これがそうなのだろうか?
そのとき、彼女の携帯電話が鳴った。周囲に気を遣って外に出て行く彼女の後ろ姿に、私はまるで初めて恋を知った中学生のような力強い眼差しを送った。
残り香、そう、残り香だ。彼女は海の青を連想させる香りをまとっていた。それは水面下に繰り広げられる過酷な食物連鎖を無に帰す爽やかな香りだった。残り香は観念上の女神を生み出した。すなわち、たった今までそこにいた女性の、姿がないからこその美しさ。それを私は愛した。……
彼女が戻ってくるのにそう時間はかからなかった。彼女が再びその席に座ったとき、私は観念の具象化、夢の再現をそこに見た。空白を埋める彼女の姿は紛れもなく女神そのものだった! 瞬間、私と目を合わせた彼女は、そこにあるかないかのよく分からない、幽玄な表情を浮かべた。
それが、私と彼女との出会いだった。
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