第8話『マヨイ』

 ルピナスの花を買ったあとはファミリーレストランでお昼ご飯を食べ、そのまま家に帰ってきた。

 午後はゆっくりとなおくんの好きな音楽を一緒に聴いた。私が知っている曲もあれば、高校生になってから好きになった曲も。好きな音楽を聴いているなおくんはずっと穏やかな笑みを浮かべていた。泣くようなことは一度もなかった。

 私はなおくんの隣で、ずっと彼の手を握っていた。そんな時間がとても心地よかったのであった。



 7月22日、月曜日。

 一昨日から夏休みだけれど、平日になってようやく夏休みになったんだなぁと思う。

 いつもなら学校の友達とどこかに遊びに行ったり、家でゆっくりしたりするんだけれど、今年は違う。月原市のなおくんの家にいるんだ。夏休みの宿題をするために必要なものは持ってきたけれど。何をしようかな。


「さっさと宿題済ませた方がいいんじゃないか。最後の方になって焦るよりさ」

「そうだね、なおくん」


 そういえば、なおくんは昔から夏休みの宿題は7月中に終わらせていたっけ。私はそんななおくんに分からないところを中心に教えてもらっていた。たまに、やってもらったこともあったけどね。


「今回も分からないところ教えてね」

「……俺に教えられることがあればな」

「うん、ありがとう。……そうだ、近くのコンビニでお菓子とジュース買ってくる」

「昔のまんまだなぁ」


 ははっ、となおくんは笑う。

 夏休みの宿題を一緒にするとき、大抵はお菓子とジュースを用意していた。多分、そういう楽しみがないと宿題をする気にならなかったんだと思う。今はなくても平気だけれど、あった方が当然やる気は出る。


「なおくんは何かリクエストはある? それとも一緒に行く?」

「……昨日、久しぶりに外に出たからか、疲れがなかなか取れないんだ。ブラックコーヒーを買ってきてくれるかな。お菓子とかは美緒に任せるよ」

「うん、分かったよ。じゃあ、行ってくるね」


 私はなおくんの家を出発する。

 昨日の朝のことがあったから、一緒にコンビニ行くかと思った。落ち着いた様子で私を送り出してくれたってことは、私のことを信用してくれているのかな。

「できるだけ早く帰ってこよう」

 なおくんと一緒にいる時間を少しでも多くしたいから。自然と歩く速度が増していく。

 寮の入り口を出たところに、2人の女の子が立っていた。1人は知っている子で、もう1人は知らない子。知っている子が、何かを悩んでいそうな知らない子に声をかけていた。


「咲ちゃん、どうしたの?」


 私は知っている子……広瀬咲ちゃんに声をかける。


「あっ、美緒……」


 最初こそは驚きの表情を見せていたけれど、私の顔を見てどこかほっとしているようにも見える。そうなったのはきっと、咲ちゃんと一緒に私の知らない子が原因だろうけど。


「この子が、直人に謝りたいって言ってここまで来たんだけれど、いざ寮に入ろうとしたら、怖くなったのか入りたくないって言い始めて……」


 私の知らない……オレンジのカチューシャを付けている茶髪の女の子は俯いてしまっていて、私の方に視線を向けることは一切なかった。


「もしかして、この子が例の女の子?」

「……うん」


 咲ちゃんのその言葉に心がざわつく。

 これまで聞いた咲ちゃんの話から、1人だけ私の知らない女の子が登場していた。それは、なおくんの記憶を取り戻すきっかけとなった女の子だった。その子は咲ちゃんに脅迫をして、なおくんが咲ちゃんを選んだ代償に自殺未遂をした。

 なおくんが好きだからという気持ちは分かるけれど、その子がしたことに対していい気持ちを当然抱けるわけがなくて。咲ちゃんからその話を聞いたときは、これが怒ることなのかと思うくらいに怒りが湧いた。

 けれど、目の前にいるこの女の子がその子だと言われると、不思議にもその怒りは一気に沈んだ。きっと、その怒りが再び湧き上がることはないだろうと思った。この子も悩んでいることが、一瞬にして痛いほどに分かってしまったから。


「初めまして。私、椎名美緒。なおくん……藍沢直人の幼なじみで、夏休みの間だけ一緒に住んでいるんだ。あなたの名前は何て言うのかな」


 なおくんの知り合いだということが分かったからなのか、女の子は体をびくつかせる。反応はそれだけで、依然として私の方を見ようとしない。

「ごめん、美緒」

「気にしないでいいよ、咲ちゃん」

 私は茶髪の女の子の手を掴んだ。

「……名前、教えてくれるかな」

 すると、茶髪の女の子はゆっくりと私の方に視線を向け、


「紅林杏子……です」

「紅林さんっていうんだ。よろしくね」

「……うん」


 こくりと頷いたものの、紅林さんに笑みは浮かばない。


「なおくんに謝りたいことがあるの?」

「……うん。一緒に住んでいるなら、もう知っているかもしれないけれど、直人君の心を傷つけたのは私なの」

「名前は知らなかったけれど、なおくんが今のようになった経緯は咲ちゃんから全て聞いているよ」

「そうなんだね」


 紅林さんの眼が潤んでいる。自分のしたことが、なおくんにどれだけのショックを与えたのか。それが分かっているからこその涙なんだ。


「……直人君に謝りたい。でも、恐い……」

「杏子、直人が入院してからは直接会ってないんだけれど、病室の外から直人が暴れて、泣きわめくところを見ちゃって。その光景が頭に焼き付いてしまっているみたいなの」

「そっか……」


 きっと、紅林さんの見た光景は、一昨日のなおくんよりもずっと苦しんでいた様子だったんだと思う。自分があんなことさえしなければという思いが、紅林さんの胸の中を駆け巡っているのかも。

 なおくんの苦しみもなくしたいけれど、紅林さんの苦しみだってなくしたい。どんな理由でも胸が苦しいままっていうのはとても辛いと思うから。


「謝ることは大切だよね。なおくんにしっかりと謝るべきだと思う」

「それは分かってる。でも、恐くて……一歩が踏み出せなくて」

「そっか。それなら、今日は無理しない方がいいと思うよ。気持ちの整理も必要だと思う。そうすればきっと、自ずとなおくんに謝る勇気が出てくるんじゃないかな。今日しかなおくんに謝るチャンスがないわけじゃないんだし」

「椎名さん……」

「あたしも同じ考えだよ。今日はもう帰って、また一緒にここに来よう」

「紅林さんがなおくんに謝るときは私も一緒にいるから」


 罪悪感に押し潰されそうな紅林さんにできることはそのくらいしかない。

 紅林さんがなおくんに謝ることは、互いにとって大切なこと。お互いに抱えている苦しみから解き放たれるきっかけになればいいけれど。


「……咲、今日は帰る。気持ちの整理、してみる」

「うん、そうしよう。……ありがとう、美緒」

「私は何もしてないよ」

「……美緒らしいな。今度、直人に謝りに行くときには美緒に連絡するよ」

「分かった。じゃあ、またね」


 咲ちゃんと紅林さんはゆっくりと寮を後にした。

 今度、なおくんに謝りに来るときは少しでも紅林さんが真っ直ぐ向いていると信じよう。さっきみたいに俯いてばかりでは、伝えたい想いも伝わらないから。


「……あっ、早く買いに行かないと!」


 なおくんを待たせているんだった。

 私は早足で一番近くのコンビニに向かう。そのことでたくさん汗を掻いたからか、コンビニの中に入ったときに鳥肌が立つくらいに寒かった。

 なおくんから頼まれたブラックコーヒーと、適当なお菓子を買って再び早足で家に帰る。とても疲れてしまって、午前中から始める宿題は午後からすることになったのであった。

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