第9話『Please KILL me』

 7月23日、火曜日。

 昨晩、咲ちゃんから紅林さんのことで電話がかかってきた。

 咲ちゃんは紅林さんと話し合い、今日の昼前になおくんの家に来て、きちんと謝る決心を付けたとのこと。気持ちを整理して、なおくんへ謝る勇気が出たのだそう。

 紅林さんが謝ることで、なおくんの心が良い方向へ進んでいくか、悪い方向に進んでしまうのか……正直、分からない。

 ひかりさんと美月ちゃんだけにこのことを伝え、なおくんには伝えなかった。

 なおくんと一緒に夏休みの宿題をしながら、紅林さんと咲ちゃんが来るのを待つ。


 ――ピンポーン。

『はーい』


 ひかりさんが対応する。咲ちゃんと紅林さんが寮の玄関まで到着したんだ。

 咲ちゃんが何度かここに来たことがあるそうなので、彼女に紅林さんをここまで連れてきてもらうことになっている。

 緊張の時間がすぐそこまで迫る。

「宅配便とかかな」

「ど、どうだろうね」

 なおくんの眼を見ることができなかった。紅林さんが来ることを隠しているのが良くないような気がして。


『あら、いらっしゃい』


 来た。咲ちゃんと紅林さんが来た。

「誰が来たんだ?」

 気になっていたのか、なおくんは立ち上がって部屋の扉を開ける。

「えっ……」

 玄関には咲ちゃんと紅林さんがいた。


「久しぶり……だね、直人君」

「紅林さん……」


 彼女の名前を呟くなおくんの脚は震えていた。きっと、なおくんは彼女が自殺未遂をしたときのことを思い出しているに違いない。顔色が悪くなり、視線もちらついている。


「ど、どうして紅林さんがここに……」

「直人君に謝りたいからだよ」


 そう言う紅林さんはなおくんのことを真っ直ぐに見ている。

 咲ちゃんと紅林さんは家に上がってきて、なおくんの部屋の前までやってくる。そんな2人に恐れを成しているのか、なおくんは一歩、一歩と後ずさりをする。

 万が一のことを考えて、ひかりさんと美月ちゃんにもこの場に居合わせてもらう。


「直人君。あの時は本当にごめんなさい。本当にごめんなさい……」


 私達が見守る中、紅林さんはなおくんの目をしっかりと見て、自分の過ちについて謝った。なおくんに向かって深く頭を下げる。

 当の本人であるなおくんは依然として、紅林さんを怖がっている様子だ。


「紅林さんは俺に謝るようなことなんてしてないよ」


 すると、なおくんは勉強机の引き出しを開けて、何かを探し始めた。いったい、なおくんは何を考えているの? どこかを物色する音だけしか聞こえないのが、この不穏な雰囲気を加速させている。


「謝るのは俺の方だ。でも、謝ったところでどうにもならないんだ……!」


 鬼気迫る声でなおくんはそう言うと、刃を出したカッターナイフを持って紅林さんの元に近寄る。


「直人、やめなさい!」

「母さんは黙っていてくれ! これは俺と紅林さんの問題なんだ!」


 カッターナイフの刃をひかりさん、美月ちゃん、咲ちゃん、そして……私にも向ける。私達を近づけないつもりなんだ。

 こんなに目を鋭くさせて、怒号を放つなおくんを今までに見たことがない。


「意識を取り戻してから、ずっと考えていたんだ。どうやって死ぬのが一番いいのか。自殺だって考えた。でも、家族や医者や薬で止められた。だから、薬で頭がもやもやする中で考えたんだよ。紅林さんに殺してもらうのが一番いいって」

「まさか、退院してからのお兄ちゃんは全て演技だったの……?」

「その通りだよ、美月。ずっと死にたいっていう気持ちを抱えたまま、俺は穏やかに生きる演技をした。病状が落ち着いたなら退院できるし、紅林さんが俺の前に現れて謝ってくるだろうと思ったからね」


 なおくんは言葉通りの冷たく寂しい笑みを浮かべていた。

 そんな。私が来てからのなおくんはずっと嘘だったというの?

 私の側で見せてくれた笑みは作ったものだったっていうの?

 そんなの、信じたくない。信じたくないよ。


「さあ、紅林さん。俺を殺してくれ。君を一度でも死の淵に追いやった俺に対して、殺すという裁きをしてくれ」


 紅林さんの前に立ったなおくんはカッターナイフを自分の方に向け、柄を強引に紅林さんに握らせる。手放さないようになおくんがしっかりと彼女の手を握って。


「さあ、いつでも俺のことを刺してくれ」

「そんなこと、できない……」

「大丈夫だ。俺が死んでも君は罪には問われない。俺には君に殺されたい意思があった。君はその手助けをしただけだ」

「そんなことできないし、したくないよ!」

「人が願うことを叶えて何が悪いんだ! 罪の裁きをすることで何の罪に問われるんだ!」

「それでも、人を殺しちゃいけない! 自ら死んでもいけない! 私は直人君のおかげで大切なことを教わったの!」

「たとえそうだとしても、俺は君に殺されなきゃいけないんだ!」


 それは、紅林さんの伝えたい想いを断ち切るようだった。

 一度、自ら死の淵まで行った紅林さんは、なおくんがしようとしていることがとても痛く、悲しく、辛いことが分かっている。だからこそ、なおくんの想いに対して頑なに首を横に振り続けた。



「さあ、俺を殺すんだ!」

「いやだっ!」


「殺すんだ!」

「いやっ!」


「殺せえっ!」

「いやああっ!」



 何としてでも、なおくんが死ぬことだけは止めたい。

 その想いだけを胸にあって。私にできることは何なのだろう。そんなことを深く考える前に、私は迷いなく――。


「なおくん。死んじゃ嫌だよ」


 ――痛い。

 右手がとても痛い。

 その痛みに伴って流れるのは、透明な涙じゃなくて、赤黒い血だった。手から溢れ出す血は留まることを知らない。

「み、お……」

 なおくんの手が紅林さんから離れた瞬間、


「紅林さん、ナイフを離して!」

「う、うん!」


 紅林さんの手から離されたナイフは、私の手からこぼれ落ちた血の上に落ちる。


「俺はまた、人を傷つけた……俺は、俺はああっ!」


 激しい叫び声を上げて、床に落ちているカッターナイフを取ろうとする。

「咲ちゃん!」

「はい!」

 なおくんがカッターナイフを取る寸前に、ひかりさんと咲ちゃんは押し倒す形で彼のことを押さえ込む。


「俺を死なせてくれ! 殺してくれええっ!」


 死ぬ願望が更に膨らんでしまったなおくんは、暴れて必死に抵抗する。


「どうして、みんな俺のやりたいことを潰すんだよ!」


 その激しさから、なおくんの叫びが痛いほどに伝わってくる。


「それはね、直人! みんなあなたに生きてほしいし、元気になってほしいからだよ!」

「咲ちゃんの言う通りよ。天国の唯ちゃんだってきっとそう思ってるわ!」

「母さんに唯の何が分かるんだ! 適当なこと言ってるんじゃねえ! 離せよ!」


 このままだと、なおくんが2人を振り払って、カッターナイフを使って自分のことを刺しちゃうかもしれない! どうしよう、右手が痛んでいるからとてもじゃないけれど、力になれない。


「美月! リビングに薬があるから早く持ってきて!」

「分かった!」


 美月ちゃんは急いでリビングへと向かう。

 きっと、病院で暴れていたときも、こんな感じだったんだ。右手の切り傷よりも、なおくんの叫びの方がずっと痛いよ。

 なおくんは死にたいという気持ちを隠しながら、なおくんは紅林さんと会えるときを待っていた。

「なおくん……」

 何でだろう。苦しんでいるなおくんを見たら、死んじゃ嫌だと言った自分が嫌いになってしまいそうだ。なおくんが死んだら、そのことで生まれるのは辛くて悲しい気持ちだけだっていうことは分かっているのに。


「お母さん、持ってきたよ!」

「ありがとう、美月。直人に飲ませてあげて」

「うん、分かった」

「止めてくれっ! どうせ俺を眠らせるだけだろ!」


 なおくんが薬の服用を拒否し続け、美月ちゃんがなおくんに薬を飲ませるまでに数分ほどかかった。なおくんが眠りにつくまでは更に多くの時間を要した。

 ひかりさんと咲ちゃんが身を挺して、暴れるなおくんを押さえ込み、美月ちゃんが強制的に薬を飲ませる。そんな光景を見て、やっと私はなおくんの置かれている状況が分かったのだ。そして、同時に自分の覚悟の甘さも思い知ったのであった。なおくんが隠し続けていた気持ちを見抜けなかったことを悔やみながら。

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