第1話『なつひ』

 7月20日、土曜日。

 今日から40日ほどの夏休みが始まる。

 去年は家でのんびりしたり、楓ちゃんや高校の友達と一緒に遊びに行ったりした。本当に普通の夏休みを過ごしていた。

 でも、今年は違う。

 私の大事な人であり、とても好きな人が苦しんでいる。

 夏休みの間、その人の側にいることを決心し、今は洲崎町から月原市に向かう特急列車の中にいる。


「なおくん……」


 好きな人の愛称を呟く。去年だって、なおくんのことを想ったことは何度もあったけど、今のように強く想うことは一度もなくて。

 咲ちゃんから聞いた話だと、記憶を全て取り戻した代わりに、心が崩れてしまったそうだ。病院での治療を通し、ひかりさんと美月ちゃんと一緒に暮らすことを条件に退院した。今は3人でなおくんの家で暮らしている。

 私が行くことでなおくんの心が救えるどうか分からない。

 でも、救いたい。救う。

 なおくんと一緒に幸せになりたい。

 そんな気持ちを抱いた私の乗せた特急列車は、月原市へと向かっていった。



 午後2時。

 特急列車が月原駅に到着する。

 月原駅のホームに降り立った瞬間、のんびりとした洲崎町の空気とは違うものを肌で感じた。人が多いからかなぁ。


「暑い……」


 海の近くにある洲崎よりもこっちの方が暑いとは聞いていたけれど、その通りだった。これが例のひーとあいらんど? 現象っていうのかな。

 駅の外に出ると人と建物ばかり。街路樹などの自然もあるけど、洲崎よりも窮屈に思えてしまう。


「美月ちゃん、どこかな……」


 美月ちゃんとは、午後2時過ぎに月原駅の前で待ち合わせをすることになっている。これだけ人が多いと、美月ちゃんがなかなか見つけられないなぁ。


「美緒ちゃん!」


 美月ちゃんの声が聞こえたので振り返ってみると、美月ちゃんが笑顔で私に手を振っていた。私のところへと駈け寄ってくる。


「麦わら帽子ですぐに分かったよ」

「日差しが強いから被ってきたんだけど、目印になって良かった」


 お母さんから都会は暑いと言われたから、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被って月原に来たけれど、思わぬところで役立っちゃった。


「洲崎よりも人が多いね。さっそくはぐれちゃうところだったよ」

「あたしも初めて来たときはそうだったなぁ」

「こういうところでちゃんと過ごせるなおくんは凄いな」


 人と建物ばかりで窮屈そう。楽しそうなところがたくさんあるのはいいけど。


「きっと、慣れれば美緒ちゃんでも住めると思うよ」

「そうかな?」


 生まれてからずっと洲崎町で暮らしてきたから、こういうところに住み始めても慣れるまでに時間がかかりそう。


「それじゃあ、さっそく行こっか」

「うん」


 私は美月ちゃんについて行く形で、なおくんの家に向かって歩き始める。

 月原市って凄いな。電車やバスも多くて。色々なお店があって。洲崎から電車で行ける範囲で、こんなところがあったんだと驚いてしまう。


「キョロキョロしちゃって、どうしたの?」

「いやぁ、凄いところだなぁと思って」

「あたしも同じ。お兄ちゃんが元気になってきたら、一緒に色々なところを行ってみたいね」

「うん、そうしよう」


 なおくんが元気になったらか。

 唯ちゃんが生きていた頃のようではなくても、せめて、ゴールデンウィークのときに洲崎に帰ってきたときくらいに元気になったら、なおくんと一緒にどこかへ行きたいな。


「……なおくんの様子はどう?」


 何度も美月ちゃんからなおくんのことは聞いているけど、改めて彼女に訊いてみる。少しでも良くなっていることを期待して。


「退院してからは穏やかだよ。処方された薬の影響で、ぼうっとしていることが多いんだけどね。でも、お母さんやあたしに気を遣ってくれているのか、たまに笑顔を見せてくれることもあって」

「そうなんだ。病院では泣いたり、暴れたりしているって聞いていたけど、結構落ち着いてきたんだね」


 私がそう言うと、美月ちゃんは儚げな笑みを見せる。


「……うん。入院しているときに比べたら落ち着いてきているけど、お兄ちゃんの笑顔が作り笑顔だって分かるんだ。きっと、あたし達をできるだけ不安にさせないようにしているんだと思うの。一度、心が壊れても、お兄ちゃんの優しすぎる性格は変わらない」


 はあっ、と美月ちゃんはため息をついた。

 思い返せば、ゴールデンウィークに帰ってきたときも、笑顔こそは少なかったけど、言葉の一つ一つに優しさを感じられた。


「私が行ったらなおくんはどうなるのかな。なおくんを救うんだって決めてここに来たけど、不安なことはたくさんあって」


 ましてや、なおくんのことが好きだって伝えちゃったら。なおくんの心が壊れた一つの原因が自分に向けられた好意だから。


「あたしも不安でいっぱいだよ。どんなことがきっかけで、お兄ちゃんが泣いたりするか分からないし。でも、あたしもお兄ちゃんも一人じゃないから。お母さんだっているし、彩花さんや渚さん達だっている。だから、お兄ちゃんが元気になれるって信じて、一緒に過ごしていけばいいんじゃないかなって思うの」


 笑顔でそう言う美月ちゃんはとても大人に思えた。不安になるのは仕方がない。でも、何かをしないと今の状況を変えられない。

 私にできることは、なおくんの側にいること。なおくんと話すこと。そうすれば絶対になおくんがまた元気になれる。そう信じてここに来たはずでしょう?


「……ありがとう、美月ちゃん。あと、これからよろしくね」

「こちらこそ」


 それに、今は美月ちゃんやひかりさんがいる。なおくんのことをよく分かっている心強い人が2人もすぐ側にいるんだ。

 まずは笑顔になってなおくんと会わなきゃ。こっちが元気じゃないと、きっとなおくんも本当の笑顔を見せてくれることは絶対にないと思うから。

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