第32話『しぶき』

 午後6時。

 紅林先輩が指定した時間ピッタリに、私達は金崎高校の屋上へとやってきた。

 薄暗くなっている中、屋上にはカッターナイフを広瀬先輩の首に突きつけている紅林先輩がいた。


「咲さん!」

「……直人、ごめんね。こんなことに巻き込んじゃって。宮原さんも吉岡さんも……」

「何を言っているんですか。大切な人が死の危機に晒されているんです。それに、彼氏として咲さんを助けに来るのは当然でしょう」

「直人……」


 広瀬先輩は直人先輩の顔を見ると、僅かだけど笑顔を見せる。それとは対称的に紅林先輩は不満の表情を露わにする。

 どうにかして、2人とも救わないと。少なくとも、命だけでも。


「時間ピッタリに来たね、直人君」

「女性との約束はきちんと守らないといけませんからね」

「ふうん」

「……それよりも、咲さんにカッターナイフを突きつけるのは止めてくれませんか。僕の答えをまだ言っていないでしょう」

「嫌よ。咲を解放するのは、私か咲が死んだ後よ」

「……そうですか」


 どうやら、そう簡単には広瀬先輩を解放するつもりではないみたい。隙さえあれば2人のことを助けるとは決めているけど、カッターナイフを持っている以上、私や渚先輩も迂闊には動けない。


「直人君、さっきの電話で私が言ったこと……覚えているよね」

「……咲さんを選べば紅林さんが亡くなって、紅林さんを選べば咲さんが亡くなるという話ですね」

「そう。選ばれた方は見事に生き残って、選ばれなかった方は生きる価値なし。この場で死ぬのよ。あなたの目の前でね」


 紅林さんはニヤリと笑った。その顔は不気味の一言に尽きる。


「さあ、聞かせて。あなたは私と咲、恋人としてどっちと付き合うのか」


 ついに、このときが訪れてしまった。直人先輩がどちらの女性と付き合うのか。それを紅林先輩に伝える時が。

 直人先輩は一度、深呼吸をした。そして、


「僕は……咲さんと付き合っていく決断を変えません」


 答えは広瀬咲。

 直人先輩の意思は変わらなかった。究極で残酷とも言える状況にも屈しなかった。迷いなく広瀬先輩の名前を口にしたのがその証拠だろう。


「へえ、直人君はそこまでして私を殺したいんだね!」

「そうではありません! あくまでも、僕はどちらと恋人として付き合っていきたいか……それだけを考えて咲さんを選んだんです!」

「どうして咲なのよ! あなたと無理矢理に付き合わせたこの自己中な女と!」


 紅林先輩は涙を流しながら、罵声とも言えるような大きな声で直人先輩に不満をぶつける。

 しかし、直人先輩は落ち着いていた。


「咲さんは悪いことには悪いといいます。けれど、今のあなたのように、咲さんは相手のことを決して貶すことはしません」


 直人先輩の言っていることは正しい。こんなことをする紅林先輩についても、広瀬先輩はいけないことだとは言っていたけれど、貶すような言葉は言っていなかった。

 付き合うきっかけは間違っていたかもしれないけれど、直人先輩はそんな彼女の誠実さに惹かれていったんだと思う。誰がどう見ても、直人先輩と広瀬先輩は立派な恋人同士だと思う。どんな脅しをされても、紅林先輩を選ぶことはないだろうとは思っていた。


「僕はこれからも咲さんと付き合っていきます。だから、咲さんにカッターナイフを突き付きけることは止めて、彼女を解放してください」

「……分かったわ。その代わりに、どうなるか分かっているよね」


 そう言って、広瀬先輩の首筋からカッターナイフが離れた瞬間だった。

 渚先輩が勢いよく走り出し、カッターナイフを持っている紅林さんの右手を思い切り蹴飛ばした。


「いたっ!」


 紅林先輩のそんな声を同時に、彼女の右手からカッターナイフが落ちた。渚先輩はそのナイフを拾い上げ、刃を閉まってブレザーのポケットにしまった。


「これでとりあえずは大丈夫かな」


 渚先輩は私達の方を向いて、爽やかに笑った。紅林先輩の手を掴むかと思いきや、派手に蹴飛ばすとは。アグレッシブ。

 広瀬先輩は直人先輩のところに駈け寄って、彼を思い切り抱きしめていた。


「直人、直人……!」

「もう、大丈夫ですよ。僕が咲さんをずっと守っていきますから」

「うんっ……!」


 本当に理想の恋人関係じゃないかなって思う。信頼し合ったことがこの結果に繋がったんだ。


「良かったね、広瀬さん。広瀬さんの王子様はちゃんと君を選んだ」

「……うん。本当に幸せだよ」


 渚先輩に見せる広瀬先輩の笑みはとても嬉しそうだった。直人先輩の気持ちが決して変わらなかったからかな。

 広瀬先輩は直人先輩との抱擁を終えると、紅林先輩の方を見る。


「杏子……」

「……おめでとう、咲。これからもずっと直人君が恋人でいてくれるよ」


 紅林先輩は弱々しい声で広瀬先輩に祝福の言葉を伝える。直人先輩に選ばれずに相当ショックを受けているはずだけど、こういうことが言えるのはさすがに親友だからかな。


「直人君も咲のことを守っていってあげてね」

「……はい、もちろんです。しかし、まずはあなたの命を守ります」


 直人先輩ははっきりとそう言った。

 少しの間は紅林先輩のことも支えていかないといけないな。とりあえず、渚先輩がカッターナイフを奪ったことでこの場は切り抜けたけれど、この先……まだ、何が起こるかは分からないし。

 選ばれる人もいれば、選ばれない人もいる。

 直人先輩は確かに1人を選んだけど、選ばなかった人のこともちゃんと考えようとしている。本当に優しい人だと思う。


「杏子……あたし、これからも杏子と仲良くしていきたいよ。楽しい思い出をいっぱい作っていきたいよ。杏子が死んじゃうと、あたし……寂しいよ。だから、死なないでよ」

「うん……」


 広瀬先輩からの必死の訴えに紅林先輩は確かな返事をした。

 けれど、何かがおかしかった。

 渚先輩がカッターナイフを奪ったはずなのに、紅林先輩はどうして遠いところを見てうっすらと笑っているんだろう。そんな彼女を見て、なぜか寒気がした。


「……咲。私ね、本気で死ぬつもりなんだよ。ずっと言ってきたじゃん。直人君にフラれたら私は死ぬってさ。私にはもう生きる希望は何もないんだよ」


 紅林先輩はブレザーの内ポケットから、もう1本のカッターナイフを取り出して刃を出した。


「好きだよ、直人君。じゃあね、みんな」


 そう言った瞬間、涙を流す紅林先輩は右手で持ったナイフを左の首筋に当て、勢いよく切り裂いた。その傷口から彼女の鮮血が飛び散る。

 紅林先輩はその場に力なく倒れ込んだのであった。


「杏子!」

「紅林さん!」


 渚先輩と広瀬先輩が紅林先輩のところに駆け寄り、持っていたハンカチを使って渚先輩が血を止めようとする。


「彩花ちゃん! 救急車を呼んで!」

「は、はい!」


 渚先輩の一声で、ようやく私は我に返ることができた。

 救急車を呼ぶけど、ここに到着するまでは10分近くかかってしまうらしい。


「10分ほどでここに来るそうです!」

「分かった! 紅林さん、生きるんだ!」

「杏子、死なないでっ!」


 渚先輩が賢明な処置をしている横で、広瀬先輩が紅林先輩に必死に声をかけ続ける。私にも何かできることはないのかな。


「俺は……」


 直人先輩は目を見開いて、血を流して倒れている先輩のことを見ている。衝撃的な光景を目にしたからか、体が震えていた。そして、


「俺はまた、人を殺したんだ……」


 直人先輩はそう言うと、激しい頭痛が襲い始めたのか頭を抱え込んで、


「うわああっ!」


 悲痛な叫び声を上げて、その場で跪く。


「直人先輩!」

「ああっ……あああっ!」


 身体的にも精神的にも苦しんでいるのか、直人先輩の叫び声は止まらない。それどころかどんどんと大きくなっていって。


「紅林先輩は絶対に助かります! それに、直人先輩はこれまでにも誰も殺していません! だから、直人先輩は人殺しじゃありません! 先輩は何も悪くありません!」


 私は直人先輩の声をかけて、直人先輩のことを思い切り抱きしめた。直人先輩の気持ちが少しでも落ち着くように。今の私にはそれしかできなかった。



 まさか、こんなことになるなんて。

 紅林先輩はカッターナイフで首筋を切って自殺を図り、その光景を見た直人先輩は罪悪感で激しい頭痛に襲われる。

 地獄絵図というのはまさにこのようなことを言うんだと思う。紅林さんの側に落ちているカッターナイフで切り裂いたのは、彼女の首筋だけじゃない。

 ここから明るい未来が歩ける望みなんて皆無に思えた。限りなく、最悪に近い。そんな状況を太陽までにも見放すかのように、刻一刻と沈み、この場を暗くさせてゆく。

 残ったのは、広瀬先輩の泣き声と直人先輩の呻き声だけ。そんな今の状況がどれだけ虚しくて、悲しいか。


 願うしかなかった。紅林先輩が助かると。

 そして、この惨劇が夢であったのだと。

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