第19話『クライ』

 美穂さんのオムライスがとても美味しくて、食べているときずっと美味いと言い続けていた。そんな俺に美穂さんは喜び、彩花はちょっと妬いた表情をしていた。けれど、俺の玉子愛が強すぎたのか、最終的には2人とも呆れた感じで笑っていた。美味いものを美味いと言い続けて何が悪いんだか。

 夕飯を食べ終わって渚のことを中心に談笑していると、時刻が午後9時近くになっていた。話題はお風呂のことになるけど、美穂さんが俺と一緒に入りたいと願い出ることはさすがになく、そこは安心した。

 お客さんだからなどという理由で順番がすんなりと決まらなかったけれど、最終的に美穂さん、彩花、俺という順番に落ち着いた。

 美穂さんがお風呂に入るので、俺と彩花は一緒に寝る客間に戻って、自分達が寝るための布団を敷いた。


「これで大丈夫だな」

「はい」

「こうして布団の上に一緒にいると、ゴールデンウィークに旅行に行ったときのことを思い出すな」

「そうですね。あのときは渚先輩と美月ちゃんが一緒でしたけど。直人先輩と2人きりで布団で寝るのは初めてですね」

「そういえばそうか」


 その初めての体験の場所が渚の家の客間というのが何とも言えないところだけど。


「美穂さんに言われて、寝間着などは渚先輩のものを借りてしまいましたが、だ、大丈夫でしょうか」

「美穂さんがいいって言うんだから、着ても大丈夫なんじゃないか?」

「そういう意味ではなくて、その……物理的な意味で。……あうっ」


 しまったという感じで彩花は顔を真っ赤にして、俺に背を向けてしまう。

 物理的……ああ、なるほど。そういうことか。ただ、それを渚に言ったら彼女がどんな心境になるのか。ましてや、彩花の不安が的中してしまったら。

「そ、その……美穂さんに借りればいいんじゃないか」

 どういう言葉をかけていいのか分からない中でそう言う俺だけど、我ながら今の言葉はかなり酷い部類に入ると思う。


「俺だって不安だぞ。家にあった渚のお父さんの寝間着を借りたけど、俺の体には合わない気がするし」

「……そうですか」


 ど、どうしよう。この気まずい空気。声をかけづらい。

 静寂に包まれている時間がしばらく続いた後、彩花はゆっくりと俺の方に振り返った。


「……渚先輩、決勝ラウンドまでに治るでしょうか。熱も結構ありましたし」

「まあ、明日の午前中に美穂さんが病院に連れて行くと言っていたし、どうにか日曜日までに、試合に出場できるくらいまでに回復してほしいところだ。あとはそれまでに金崎と対戦しないことを祈るしかないかな」


 香奈さんや部長さんなど強いメンバーがたくさんいるけれど、咲と1対1でまともに相手できるのは渚しかいないんじゃないかと考えている。

「そうですよね。あとは渚先輩の回復力を信じるしかありませんね」

「ああ、そうだな。あとは香奈さん達のサポートをしていくことだ。バスケは渚1人で戦っているわけじゃないし」

「状況を見ながらやっていきましょう」

 こういうことを話していると、正式に女バスのマネージャーになった気分だな。

 決勝ラウンドまで実質、あと1日とちょっとしかないけれど、今からでも何かできるはずだ。それが勝敗を左右するかもしれない。

「彩花ちゃん、お風呂空いたわよ」

 風呂上がりの美穂さんは桃色の寝間着を着ている。シャンプーなのか、ふんわりと甘い香りが彼女の方から伝わってくる。


「私は少しゆっくりしたら寝ちゃうけれど、何かあったらすぐに言ってきてね」

「分かりました」

「じゃあ、2人とも、おやすみなさい」

「おやすみなさいです、美穂さん」

「おやすみなさい」


 美穂さんは客間から出て行った。俺と客間で2人きりという展開にならなくて一安心。


「じゃあ、お先に入りますね、直人先輩」

「ああ、ゆっくり入ってきな」


 俺がそう言うと、彩花は小さく頷いて客間を出て行く。

 久しぶりに1人きりになったところでどっと疲れが襲ってきたので、俺は布団の上に仰向けになる。布団はゴールデンウィークの旅行以来だけれど、布団もなかなかいいな。こうしていると疲れが取れてくる。同時に眠気が襲ってくるけれど。


「……そうだ、渚の様子を確認しておくか」


 渚の眠りを邪魔しないように。

 俺は客間を出て、渚の部屋の前まで静かに歩いて行く。すると、

『うっ、うっ……』

 部屋の中から渚の泣き声が微かに聞こえてくる。

 部屋の扉を開けると中は真っ暗だった。カーテンが開いているものの、曇っているために外からの光はほとんどない。

 渚のベッドには備え付けのライトがあるので、それを点ける。すると、渚が顔全体を布団で覆っているのが分かった。


「渚、泣いている声が聞こえたけれど、大丈夫か? 苦しかったり、暑かったりして眠れないか?」


 小さな声で渚に問いかけると、渚はゆっくりと布団から顔を出してきた。潤んだ目で俺のことを見つめている。彼女の目はベッドライトの光だけでも分かるくらいに赤くなっていた。


「……悔しくてたまらない、自分に。分かっていたのに。私が倒れた時点で広瀬さんの勝ちだって」

「何を言っているんだよ。確かに体調管理ができなかったのは悪いかもしれないけど、試合はまだ始まっていない。やってみないと分からないのがスポーツってもんじゃないのか。準決勝の咲だってそうだったじゃないか。途中、かなりの点差があったのに、最後には勝った。今からそういう気持ちだと、そういうことも起こせなくなるんじゃないか?」

「直人……」

「自分だけじゃなくて彩花のことも抱えているけれど、渚だったら今からでも絶対に咲と互角に戦えるまでに回復する。俺はそう信じてる。まあ、金崎との試合がいつになるのかはまだ分からないけれど」


 そこだけは運だ。日曜日に対戦できることを願うしかない。

 俺は渚の頭をゆっくりと撫でた。ずっと寝ていたからか、渚の髪はとても温かった。


「ねえ、直人。我が儘を言ってもいい?」

「俺にできることなら、何でも」

「……じゃあ、口づけしてほしい。そうすればきっと、体も一気に治る気がするから。ダメかな?」


 渚は意外と精神的な影響が体に出やすいからな。渚の言うとおり、口づけをすれば一気に体調がよくなっていくかもしれない。

「分かった」

 俺はそっと渚に口づけをする。

 さすがに今日は渚も舌を入れる元気がないみたいで、唇を触れさせるだけだ。その代わり、渚はそっと俺のことを抱きしめる。


「こうしていると、私って本当に直人のことが好きなんだなって思うよ。あと、気持ちがだいぶ軽くなった気がする」

「……それなら良かった」

「でも、直人と口づけしたら今まで以上に体が熱くなってきちゃった。けれど、さっきよりも眠くなってきた」


 それはきっと、気持ちが軽くなったことでもたらされたことだろう。安心して眠っていいんだって本能的に分かった証拠なんだと思う。


「ねえ、直人」

「うん?」

「……私、広瀬さんに勝てるよね。みんなと一緒に」


 その言葉はまるで俺の気持ちを確かめているようだった。自分や彩花のことが好きなのかって。それは俺の思い込みかもしれないけれど。


「勝てるよ。いや、勝とうぜ。みんなと一緒に。そのためにまず、渚はゆっくりと休むんだ。きっと、香奈さん達もそう思っているはずだ」

「……うん、分かった」

「じゃあ、俺はそろそろ客間に戻るよ。何かあったらすぐに言ってきてくれ」

「うん。……あと、今日は色々とありがとね」

「例なんていらないよ。俺や彩花は渚を支えたいから、ここにいるんだ。だから、安心して眠ってくれ」

「……うん」

「じゃあ、おやすみ、渚」

「……おやすみ、直人」


 ベッドライトを消す寸前の渚は穏やかに笑っていた。このままぐっすりと眠って体調が良くなっていくといいな。



 その後、俺はお風呂に入り、彩花の横で眠ることに。

 ただ、夜中に何かあるかもしれないと思ってしまいあまり眠ることができなかった。それは彩花も同じようで、たまに渚や女バスのことで話したりもして。

 けれど、渚が俺達を呼ぶことは一度もなかったのであった。

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