第17話『いてよ』

 連絡をしてから10分ほど経って、美穂さんが保健室にやってきた。

 来たときこそ、美穂さんは心配そうだったものの、今もなお眠っている娘の姿を見て安堵の表情を浮かべた。


「渚、ぐっすりと眠っているのね。家でも疲れている様子だったから、無理はしないでって言っていたんだけど。頑張り過ぎちゃったのね」

「すみません。俺がついていながら……」

「気にしないで。私も渚から色々と事情は聞いていたし、彩花ちゃんのためにも頑張っていたからだと思うから。練習に一生懸命になるのはいいけれど、体を壊したら勝負にならないのに。今の時点で試合に出るのは相当厳しいかもね」


 まったく、と美穂さんは渚の顔を見ながら笑っていた。さすがは親だなぁ。優しさの中にもちゃんと厳しさがあって。

 でも、美穂さんの言うとおりだ。スポーツ選手として、体調管理をしっかりとすることが前提。体調を崩してしまったら、勝負以前の話なのだ。この時点で咲よりも何歩か遅れを取っていると言っても過言ではない。


「渚先輩は私のためにも頑張ってくれているんです。2人分のプレッシャーに勝とうと一生懸命だったんです。渚先輩を責めないでください。女バスのサポートをしていたのに、渚先輩の異変に気づけなかった私の責任でもありますし……」


 本当にごめんなさい、と彩花は美穂さんに深く頭を下げた。自分は直接関われない悔しさから脱却した矢先のことだから、また彼女は深い悔しさを抱いていることだろう。


「私は誰のことも悪く言っていない。ただ、こんなに頑張れる渚を知って嬉しくてね。でも、自分の健康は自分でちゃんと管理できないといけないっていう話をしているの。それはどんな人でも一緒」


 美穂さんは穏やかな笑顔を浮かべ、穏やかな口調でそう言った。

 母親の声が聞こえたからなのか、渚はゆっくりと目を開ける。


「お母さん……?」

「迎えに来たわよ。疲れが溜まっちゃったのね」

「……ごめんなさい、迷惑かけちゃって」


 そう言う渚の目は潤んでいた。きっと、今の彼女の心の中には色々な感情が巡っているのだろう。


「私は母親として当然のことをしているだけよ。それよりも、担任の先生の話だと、渚のことを藍沢君がここまで運んでくれたじゃない。何か言うべきことがあるとすれば、まずは私よりも彼に対してじゃないかしら?」

「……そうだね。直人、ありがとう。あと、倒れる前に色々と言っちゃってごめん」

「気にするな。それに、俺も八つ当たりみたいな感じで声を荒げてごめん」

「……うん。でも、嬉しかったよ。直人が私のことを抱き留めてくれたところまでは覚えているから」

「そうか。でも、体調が悪かったら無理せずに俺や彩花に遠慮なく言えよ。家だったら美穂さんに。体調が良くなかったら勝負以前の話だから」

「そうだ、練習――」

「言っている側から、ほら」


 俺は両肩に手を添えて、渚の体を優しく抑える。心も体も、決勝ラウンドのことばかりなんだな。


「今日と明日はゆっくり休みなさいって顧問の先生が言ってたぞ。今の渚に必要なのは体を休ませること。きっと、それが勝利への一番の近道でもあるだろう。渚の回復次第で、試合に出場させるかどうかは考えるそうだ」

「……そっか」


 渚は寂しそうにそう呟き、再び横になって窓の方を見る。日が暮れるのは大分先なのに、分厚い雲が空を覆っているためか外は結構暗くなっていた。


「……直人と彩花ちゃんは女バスの方に行って。今の女バスは2人のことを必要としているから」

「直人先輩と私は渚先輩の側にいることと顧問の先生から言われました。だから、私達は渚先輩の側にいますよ。むしろ、そうしたいくらいですし。ね、直人先輩」

「ああ、そうだな」


 それに、渚の側にいることだって、立派な女バスのサポートだと思う。決勝ラウンドまでに、いかにして渚の体調を元の状態まで近づけるか。それが俺と彩花に課せられた課題だと思う。

 それと、渚は今、体調が悪いことで試合に出られないかもしれない。調子が戻る前に、金崎と当たってしまったらどうしようととても不安な気持ちでいるに違いない。そんなときに1人きりだと気持ちが縮こまってしまうばかりだと思う。彼女の心の支えにもなれればと思っている。


「じゃあ、藍沢君と彩花ちゃんには一緒に家に来てもらおうかな。2人が一緒の方が心強いでしょ?」

「別に高校生になって、そんなこと……」

「試合で負けて藍沢君が側から離れたらどうしようとか、彩花ちゃんに嫌われたらどうしようとか泣きそうになっていたのは誰だっけ?」

「お、お母さん……!」


 具合が悪い人間の恥ずかしいエピソードを話すなんて。倒れる前よりも顔が赤くなっているじゃないか。微笑みながらも娘に酷なことをしていませんかね、美穂さん。


「……そういうことだから、2人とも渚の側にいてくれるかしら。渚の母親としてのお願いなんだけど」

「もちろんです! 直人先輩もいいですよね?」

「当たり前だよ。渚、こういうときは俺や彩花に遠慮なく甘えてくれ」


 普段、渚は女バスのエースとして頼られている立場にある。だから、こういうときこそ、彼女には甘えてほしい。

 渚は口元まで布団で隠しながら、俺達のことをチラチラと見ていたけれど……程なくして、ゆっくりと頷いた。


「……直人と彩花ちゃんに側にいてほしい」


 ようやく、渚の本音を聞くことができた。半ば強引ではあったけど。


「渚、藍沢君の手を借りたら何とか歩けそう?」

「……うん」

「分かったわ。じゃあ、藍沢君、渚のことをお願いね」

「分かりました。すまないけど、彩花。車まで俺達の荷物を運んでくれないか?」

「ええ、分かりました」

「渚のエナメルバッグは私が持つわ。それじゃ、行きましょうか。先生、ありがとうございました」


 美穂さんはそう言って保健室の先生にお辞儀をする。

 俺達は校舎を出て、美穂さんが運転してきた車が駐まっている場所に向かう。

 俺は渚の体が濡れないように傘を差し、彼女に肩を貸しながら一緒に歩いている。こうして体が触れると渚も女の子だと思う。柔らかくて華奢な部分もあって。本人は女の子っぽくないって言うけれど、そんなことない。


「……何、じっと見てるの。恥ずかしいよ」

「そいつはすまない。でも、渚を見放すつもりもないから。これまでも。これからも」


 今年こそ渚がコートで活躍する姿を見たいからな。それは、1年前……決勝ラウンドで4位に終わり、インターハイへあと一歩で出場できず涙を流したあの日から。


「俺や彩花、香奈さん達がついているから、金崎に絶対に勝って、インターハイで戦っている姿を見せてくれ。だから、そのためにも今日と明日は絶対に安静だ。分かったな」


 ――悔し涙は1年前のあのときで終わりにするんだ。


 そう言って、渚は今年のインターハイに向かって走り始めた。その決意をこんな形で水の泡にしたら、きっと試合に出場して負けるよりもずっと悔しい想いをするだろう。


「分かった。そういえば、直人……私がインターハイに出場するの、去年からずっと楽しみにしていたもんね」


 渚がそう言うと、少しだけ俺に寄りかかったような気がした。

「……いいな」

 彩花のそんな呟きがはっきりと聞こえた。彼女のことをちらっと見ると、微笑んでいたものの俯いていた。

 美穂さんの運転した車に到着し、彩花と渚が後部座席に座って、俺は助手席に座る形に。


「すぐに着くからね」

「……うん」


 学校から歩いて10分ぐらいだからな。車だったら2、3分で着いてしまうんじゃないだろうか。

 学校を出発してすぐのこと。


「藍沢君、彩花ちゃん。今日は家に泊まっていきなさい。渚の側にいなさいって顧問の先生にも言われたわけなんだし」

「お気持ちは有り難いですけど、俺達がいたら渚がゆっくりと休めないのでは……」

「側で看病したいですが、私達に気を遣ってしまうかもしれませんし」


 渚の側にいたい気持ちはあるので、ある程度の時間まではお邪魔させてもらうつもりだったけれど、さすがに泊まるつもりはない。渚にはゆっくり休んでほしいし。


「2人が言うことも分かるけれど、一緒にいてくれるからこそ、ゆっくりと休めることもあるんじゃないかしら」


 美穂さんがそう言うのも分かるけれど、以前のことを思い出すと、渚のこと以外で何か思惑があるんじゃないかと考えてしまう。

 美穂さんのご厚意には感謝するけど、泊まらせてもらうのは図々しいのでここは丁重に断ることに――。


「……いてよ」


 後ろから渚の小さな声が聞こえた。

 振り返ると、そこには潤んだ瞳で俺のことをじっと見つめる渚がいた。


「直人と彩花ちゃんにずっといてほしいよ。だから、泊まっていって」


 渚にそう言われてしまったら、断るわけにはいかないな。

 俺は彩花のことを見て、確認の意味で彩花と頷き合う。そのときの彩花は笑顔だった。


「では、ご厚意に甘えさせていただきます」

「……良かったわね、渚」


 そう言う美穂さんはとても嬉しそうだった。今の笑顔の源が体調を崩した娘にずっとついていてくれて嬉しいという親心であると信じておこう。

 泊まることが決まったときには、渚の家が見え始めていたのであった。

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