第5話『デレーヌ-後編-』

 咲が俺と一緒に行きたい場所。それはカラオケボックスだった。音楽が好きだというイメージもなかったので意外だ。

 咲の提案で、午後8時まで利用できるフリータイムを選ぶ。歌いたい曲がたくさんあるのだろうか。また、ドリンク飲み放題らしいので、部屋に入る前にドリンクコーナーで各々の飲みたいものを用意する。

 俺と咲が利用する部屋は2人で利用するにはかなり広い。受付では数人のグループもいたから、何だか申し訳ない気分。


「結構広いね」

「そうだな」


 のびのびとできると思えばいいか。

 現在の時刻は午後4時過ぎ。フリータイムの制限である午後8時までは4時間弱。2人だけだから、かなり曲数を歌うことができる。あとでお手洗いに行ったときにでも、彩花に遅くなるってメールを送っておこう。

 バッグとドリンクを置き、ソファーに座って何を歌うか考え始めたときだった。


「直人」


 右側からぎゅっと咲に抱きしめられる。その瞬間に感じる彼女の汗の匂いはとても芳しく思えて。


「……やっと2人きりになれたね。直人のことが好きになってから、ずっとこういう時間を過ごしたいって思っていたんだよ」


 そういえば、咲とは一緒にいる時間はあっても、それは美緒や唯も一緒だったときも多かったし、咲と2人で話してもそれは周りに人がたくさんいる場所だった。こうして、2人しかいない空間で一緒に過ごすのは初めてだ。


「ここに来た理由は俺と2人きりになりたかったからか」

「……うん。思いついたのがここしかなくて」


 そう言うと、咲は俺の正面に来て、顔を向かい合わせる形に。咲の温かな甘い吐息が俺の顔にかかる。


「……あたし、本気だよ」

「えっ?」

「直人を引っ張っていくこと。直人が悩んだり、苦しんだりするのはもう嫌だし、直人を幸せにしたいの。できれば、あたしと一緒に」

「そのために、期限を設けたってわけか」

「……うん。あたしじゃなくてもいいから、直人に勇気のある決断をしてほしかったの。……って言ったら、嘘になっちゃうか」

「嘘ってどういうことだ?」


 俺がそう問いかけると、咲の目から涙がこぼれ落ちる。


「……あたしを選んでくれないと嫌だって思っちゃうから」

「だったら、どうして泣くんだよ」

「あたしには自信がないの! 宮原さんや吉岡さんがいる中であたしが選ばれる自信が。宮原さんも吉岡さんもあんなに可愛くて、優しくて。あたしはそういうのが全然ないから、どうしてもみんなの前だと、せめても見かけだけでも強い自分を作って、馬鹿にされないように尖った言葉を使って威嚇するようなことばっかり言っちゃう」


 咲は俺の胸に顔を埋める。

 つまり、あの強気な態度は作り物で、こうして泣いているのが素の咲だったってわけか。そういえば、紅林さんも俺のことが心配なときも、連絡手段はあったのに一度もしない奥手な女の子だと言っていたな。きっと、紅林さんは今みたいな咲の姿を幾度となく見てきたのだろう。

 自分に自信がないから、いつも強気の自分を取り繕っている。咲はそう言っているけど、


「強気なのが見かけだけだったら、彩花や渚は咲のことを手強いとは思わない」

「えっ……」

「俺のことを好きな気持ちや、俺を引っ張りたいって覚悟を持っているのが分かったから、彩花や渚は咲の挑戦を受けたんだと思う」


 昨日の咲の態度に対して、2人が何も悪い印象を抱かなかった理由も同じだと思う。真摯に向き合おうとする咲の姿勢が2人に伝わっていたから。


「ただ、もう少し素直になったり、柔らかい言葉で言ったりできるようになっていけるといいな。咲だったら大丈夫だ。だって、咲はこんなに可愛くて、優しい女の子なんだから」


 俺はそっと咲のことを抱きしめて、優しく頭を撫でる。3年前よりも背も高くなって、体格も良くなったように見えるけど、こうして抱きしめてみると、意外と華奢であることが分かる。


「……できるのかな? 全然自信ないよ」

「少しずつでいいんじゃないか。といっても、今の俺にそんなことを言う資格はないと思うけど」

「……そうかもね」


 咲は俺の胸から顔を離す。涙は止まっていたが目尻が赤くなっていた。


「あたし、直人のためなら悪にでもなるよ」


 咲は俺に対して温かい気持ちを持っていると分かっているのに、今の言葉はとても冷たく感じた。俺が好きな気持ちの表れだと思いたいけど、その言葉に秘められている真意が分からない。


「昨日の体育館での咲は、お前の言う『悪』なのか?」


 思い当たる節がそれしかないのでそう訊いてみると、咲はゆっくりと頷いた。


「……うん」


 自分が嫌われてもいいから、今の状況を何とか変えたかったのかな。どうも、それだけではない気もするけど。ただ、そんなことは止めてほしい。けれど、それは言えない。咲を『悪』にさせてしまった俺こそが一番の『悪』な気がして。


「ねえ、直人」

「うん?」

「今もまだ、2人に勝てる自信がないの。2人とは、その……どのくらいのことまでしたの? キス? それとも、そ、それ以上のことを……」


 恥ずかしいのか、咲は意図的に俺から視線を逸らしている。心なしかさっきよりも咲の体が熱くなっているような。

 そうか。こいつ……彩花を助けた次の日の渚と一緒なんだ。きっと、咲は2人と同じスタートラインに立ちたいのだろう。


「キスまでだよ」


 そう言うと、咲は俺を見つめてくる。


「じゃあ、キスしていい? ううん、したい」

「……いいよ」


 すると、咲は迷いなく唇を触れてきた。彼女の唇はとても柔らかく、気持ちがよくて俺はゆっくりと目を瞑った。

 咲は舌を入れるようなことはしなかった。その代わりなのか、俺を抱きしめている両手を時折動かしている。制服を通して全身で咲の温もりを感じている。

 唇が離れたのでゆっくりと目を開けると、そこには嬉しそうな笑みを浮かべる咲の顔があった。


「とても思い出深いファーストキスになったよ。これが直人にとってのファーストキスじゃないことが残念だけど」

「そうか。俺にとっては忘れられないキスの一つにになったよ。だって、咲とのファーストキスだからさ」


 俺がそう言うと、咲は照れているのかはにかんでいる。


「……まったく、直人ったら。今の一言でより直人のことが好きになった。また、キスしたくなっちゃったよ」


 咲は再び俺とキスしてきて、俺のことをソファーの上に押し倒す。それでもなお、咲はキスを続けた。咲ってこんなにも温かくて、甘い味のする女の子だったのか。

 長い口づけが終わると、咲はうっとりとした表情をして俺のことを見つめていた。


「今のあたしにはこれ以上のことをする勇気が出ない。それに、宮原さんと吉岡さんは直人とここまでしかしてないそうだし。ここから先は……直人からしてほしいことだから。キスよりも先のことがしたくなったら……いつでも言って。もちろん、あたしと恋人として付き合うってこともね。待ってるよ」


 咲は今までの中で一番優しい笑顔を見せながらそう言った。今のような笑みをもっと多くの人の前でもできればいいんだけれどな。


「直人。せっかくカラオケに来たんだし、何か歌おう」

「ああ、そうだな」


 自分の好きな曲をそれぞれ歌って、時には一緒に歌ったりして。3年間離れていていたからこそ、咲と一緒に夢中になって遊ぶことがとても楽しくて。そんな時間はあっという間に過ぎていったのであった。

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