あなたとわたしの、しあわせなはなし。
今日も、彼は帰って来ない。
誰もいないリビングを見て、わたしは静かに溜息を吐く。
付き合い始めた頃からわたしは、彼の部屋へ頻繁に足を運んでいた。けど、それだけじゃ物足りなくて。いつでも、彼と一緒にいたくて。いつか一緒に暮らすことができればと望んでいた。
彼の夢だった、ワンルームでの甘い生活。いつか二人で一緒に住みたいって、彼は友達にもそう話していたから。だからわたし、すっごく頑張って、この部屋を借りたの。
それなのに……。
結婚してからというもの、彼がこの部屋へ帰ってきてくれたことは一度もない。あなたの願いが詰まったこの部屋に、わたしはいつだって一人きりで。
ねぇ、どうしてなの?
冷たいソファに身体を預け、わたしはもう一度深く溜息を吐いた。
――忙しいのかしら。それともわたしより、他の女の方がよくなった?
手元にあったスイッチを入れて、いつもみたいに目の前で動く画面を眺めながら、わたしはぼんやりと物思いに耽る。
ねぇ、次はどの子?
何度わたしを裏切れば、あなたは気が済むというの?
わたしが、何も知らないとでも思ってる?
何度問いかけても、返事はない。あなたはわたしの存在になど目もくれず、今日もどこかで誰かと睦み合う。
――そう、こんな風に。
動く画面を凝視しながら、わたしは今日も一人、唇を噛みしめ嫉妬に狂うのだ。
◆◆◆
「な、に……」
突然目の前に現れたわたしを、彼は心の底から驚いたように凝視する。
わたしはゆるりと笑みを浮かべた。言い知れぬ高揚感が、わたしを心ごと包み込む。
嗚呼、いいわ。そうよ。もっと。
もっと、わたしだけを見て。その美しい瞳に、わたしだけを映して。
一歩、また一歩と距離を詰めようとするわたしから逃れるように、彼は怯えながら後ずさる。揺れる黒い瞳は、どんな宝石よりも美しい。
手に入れたい、と強く願う。
ねぇ、あなた。
呼びかけると、戸惑いがちに表情を歪める。それでもその瞳は逸らされることのないまま、わたしのことだけを一心に見つめている。
逸らせないのかしら。わたしが、あまりに魅力的すぎるから? 嬉しいわ。だって今日は、とっても気合を入れてメイクしたんだもの。衣装も
真っ赤なルージュを引いた唇を、にぃ、と挑発するように引き上げる。ふわりと、鉄の香りが僅かに漂った。
こっちに、おいで。
きらりと光る、銀。
丁寧に磨いた愛用のそれを目の前にちらつかせると、彼は大きく目を見開いて……がたがたと、震え始めた。
「や、やめて……たすけて」
掠れる声さえも、美しい。それがわたしにだけ向けられたものだっていう、それだけでわたしは打ち震えるほどの歓びを感じる。
「いとしい、あなた。これからは、ずっと一緒にいましょうね」
もう二度と、他の女のところへ飛び立っていくことのないように。あなたの全てが、わたしに対してだけ向けられるように。
あなたに関わった愚かな女たちは、全てわたしが排除した。だから今は、あなたとわたし、二人っきり。
何度も首を振りながら、彼はさらに後ずさる。けれど残念、もうその後ろは行き止まりだわ。
ドン、と彼の背中が壁に着いた。同時に、わたしは彼のもとへと大きく足を進める。
にぃ、と口角を上げると、わたしは彼の整った目尻に浮かんだ涙をそっと拭った。嗚呼、なんて綺麗。
でも、今のわたしも……すっごく、きれいでしょう?
銀色に光るそれを、彼の腹部へと突き立てる。ぐちゅり、と何とも言い難い音を立てて、それは確かな手ごたえとともに沈んでいった。
「が、は」
彼の薄い唇から、美しい朱が一筋、伝う。
息も絶え絶えになりながら、彼は――いとしいあなたは、言った。
「あんた……あんたは、一体、誰なん……だ……がっ、あ」
ぐりりっ、
彼の言葉を遮るように、彼の身体に沈んだそれを捻る。彼の顔が、激痛によってさらに歪んだ。
息絶える寸前まで、彼はわたしから瞳を逸らさなかった。そのことに、言い知れぬ幸福を感じる。
わたしだけを見ていてくれる、あなたはやっぱり一途な人。恨んだこともあったけど、この一瞬だけでわたしはあなたの全てを許すことが出来る。
あなたはずっと、ずっと、わたしだけを愛しているのね。そうよね。えぇ、知っているわ。
これからは、あの部屋で一緒に暮らしましょう。あなたの夢だった、ワンルームで、二人きりで一生過ごすの。
「あいしているわ……」
がくり、と力の抜けた、いとしい彼の
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