【短篇集】花の菓子折り

恋文

 学校で全ての授業を終え、いつもならそこで帰れるはずだった。しかし、今日はそういうわけにはいかなかった。国語担当の先生から呼び出しがかかっていたからだ。

 何故かは知らない。優等生でないことは承知の上だが、特別あの人の気に障るようなことをした覚えもない。何故だろう? と考えることも面倒臭かったので、おとなしく従うことにした。


「――失礼します」

 定型句を発し、私は淡々と職員室へ入った。

 目的の席へ足を進めると、私を呼び出した張本人である先生は、パソコンに向かって何やら打ち込んでいた。クラスに配布するための学級通信のようだ。ちなみに先生は一年生の担任を持っている。一年生の子が羨ましい……と少しだけ思ってしまうのは秘密だ。

「先生、来ましたよ」

 つっけんどんな調子で先生の背中に声を掛ける。先生はパソコンを打つ手を止め、こちらへ向き直った。

「あぁ、来ましたか」

 いつも通りの柔らかな口調で微笑む先生。先生がこちらを見て微笑むだけで、何故だか胸のあたりがむずむずするような、苛々するような、訳のわからない気持ちになる。気が狂ってしまいそうになりながらも、私は冷静を装った。

「何の御用ですか。何も悪いことをした覚えはありませんが」

 クスクス、と先生は上品に笑った。

「えぇ、確かに悪いことはしていませんね。三年生で卒業も近いのに、わざわざ問題を起こすような根性が君にあるとも思えませんし」

 品定めをするかのような視線とその口調に、私はムッとした。発する声が自然と低くなる。

「では何故私は呼び出されたのでしょうか」

「いえね、少し確かめたいことがありまして」

 また先生は笑う。そのひとつひとつの仕草は、流れるように美しい。男の人とは思えないほどだ。

「本題に入りたいところですが、ここでは……少しまずいですね」

 笑うのをやめてそう言うと、先生は突然辺りをきょろきょろとしながら呟いた。私はますます訳がわからなくなった。人前で話すのがそんなにはばかられるような内容の話なのだろうか。

 そんな私のことなどお構いなしといった様子で、先生は立ち上がると、私についてくるように促した。

「司書室にでも行きましょうか。あそこなら今の時間、誰もいないはずですからね」


    ◆◆◆


 先生に連れられてやってきたのは、図書室の隣にある司書室。先生の言った通り、そこに人の姿はなかった。

 先生は自分の席に座ると、隣の椅子を引いて自分の横に置く。座りなさい、ということか。私は多少躊躇ったが、先生のやさしい眼差しにつられるようにふらふらと近づき、用意された席に腰をおろした。

「さて、本題ですが」

 そう言って先生は机の上に、二つ折りになった一枚の紙を置いた。

「この紙に見覚えはありますか」

「ありません」

 感情を込めず、私は即答した。先生はふぅん、と不思議そうに唸った。

「おかしいですね。確かに君の字だと思ったのですが」

「だから何の……」

 何の話ですか。そう言い募ろうとした時、先生がぺらりと二つ折りになった紙を開いた。女子らしさの欠片もない冷たい字が紙の中心にポツリと佇んでいる。それを読み、私は思わず息を呑んだ。

「…………」

「見覚えは、ありませんか?」

 先生が私の目をじっと見つめて聞いてくる。

「これは君が書いたものでしょう?」

 否定することなど出来ないような空気だったし、今更という気もしたけれど、ここで肯定してしまうのは何となく悔しい気がした。

「決め付けるのはまだ早いんじゃないですか。字だけで私だと判断するのは安直な気がしますが」

「一筋縄では行きませんか……なるほど、強情な子だ」

 先生は面白がるような口調で呟くと、腕を組んで椅子の背もたれに身体を預けた。ずいぶんとフランクな格好だ。いつもきっちりしている先生にしては珍しい。

「言っておきますが……教師たるもの、生徒の字の判断ぐらいついて当然です。特に君の字は男子のように角張ってもいないし、他の女子のように丸くもない。実に独特だ。だから尚更覚えていたんですよ。それに、」

 そこで先生は言葉を切り、ニヤリと悪徳めいた笑みを浮かべた。

「君の先ほどの反応を見て、確信しました」

 できるだけ表情に出さないつもりでいたのに。この人には全てお見通し、という訳か。私は諦めることにした。ため息をついて、先生を見据える。

「だったらどうだというんです」

「図星、ですか」

 得意げな顔だった。先ほどまでの上品な様子はすっかり抜けている。これが先生の素なのだろう。騙されたような気がして悔しかったけれど、先生の新しい面が見れて何となく嬉しいような気も少ししてしまった。

 誤魔化すように私は口を開いた。また声が自然と低くなる。

「で? わざわざそれを確かめるだけの為に私を呼んだんですか」

「いいえ。まさかそれだけの為に呼ぶわけないでしょう」

「じゃあ他に何の用事があるというんです。説教でもなさるおつもりですか」

「いいえ」

 知られたところで『ふざけたことを』と馬鹿にされるか、咎められるものだと思った私は、そのあっさりとした答えに拍子抜けした。先生は気にせず続ける。

「お返事を差し上げなくては、と思いまして」

「返事?」

 私は顔をしかめた。不機嫌な私とは裏腹に、先生はどことなく機嫌がよさそうだ。長い指で紙をそっと手に取り、しげしげと眺めている。そんな様子も絵になるのだから、余計に腹立たしい。

「いわばこれは君からの、一世一代の恋文じゃないですか。そうでしょう? でしたら僕のほうも、しっかりとお答えせねばなりません」

 『恋文』という古めかしい表現をする所が、国語の先生らしい。私はふいと横を向いて、馬鹿らしいというように鼻を鳴らした。

「これがラブレター……恋文だという、証拠はあるのですか。和歌が書かれただけのこの紙が」

 そう、私はその紙に「好きです」といった類の言葉を書いたわけではない。一つの和歌を書いて、先生に届けた。ただそれだけだ。

 先生はククッと笑った。もう素を隠す気などないようだ。

「この歌の意味を知ったうえで、君は僕に送ってきたのでしょう? 意味のない和歌を送るような無駄なことなど、君はしないでしょうから。だとしたら……それは立派な恋文だ」

 そう言った後、先生はしばらく何かを考えるかのように目を閉じた。沈黙があたりを包む。

 やがて、長い睫毛が再びゆっくりと持ち上がった。漆黒の甘い瞳が私を捕らえる。初めて見るその表情に、私は息が詰まるのを感じた。心拍数が一気に上昇し、顔がかぁっと熱くなっていくのがわかる。

「だ……だったら」

 苦し紛れに私は口を開いた。私がこんなにも動揺していることだって、先生はとうにお見通しなのだろう。

「だったら、早く言ってください。もう帰りたいんです。だから……」

 早く、断ればいいじゃないですか。

 自然と声が震えた。怖いのだろうか? 結果などわかりきったはずなのに。何かを望んでいた訳でもないのに。

 ただ私は……先生に知って欲しかっただけだ。あなたのことを好きでいるような馬鹿な女が確かに存在しているんですよ、と。

 私の顔を見た先生は、困ったように笑った。

「泣きそうな顔をしていますね」

「っ、気のせいでしょう」

「そうですか? まぁいいです」

 不意に先生が私に近づいた。しなやかな指が頬に触れ、自然と身体が強張る。

「では」

 囁くように先生が言う。

「その紙に書かれた歌、読んでください」

 小さな小さな声で、私は紙に書かれた恋の歌を読んだ。


「……『かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを』」


 ――こんなに恋い慕っていると言おうにも言えずにいるのですから、きっとあなたは知らないのでしょうね。伊吹山のさしも草のように燃える、我が恋の思いの火を。


「よく出来ました」

 先生は柔らかく笑った。先ほどまで頬に当てられていた手が頭に移動したかと思うと、子供をあやすような手つきで撫でられる。私は上目遣いで先生を睨んだ。

「子供扱いしないで下さい」

「はいはい、ごめんなさいね」

 おっとりとした口調。気付いたときには、先生はもういつもの上品な仕草に戻っていた。

「いいかげんにしてください」

 この状況から早く脱したくて、つい急かすように言ってしまった。先生はしょうがないな、といった風に笑った。

「そうですねぇ」

 もったいぶるように呟くと、先生はおもむろにペンを取った。私の書いた和歌の下に、サラサラと何かを書き加えていく。私はその様子をただ呆然と見つめていた。

「これは……」

 書かれたものを見て、私は思わず目を見張った。先生はいたずらっ子のように笑うと、書かれた和歌を読み上げた。


「『恐ろしや木曽の懸路の丸木橋ふみ見る度に落ちぬべきかな』」


 ――恐ろしい、恋の路に懸けている女性からこのように恋文がやってきてしまった。見る度に転落してしまいそうだ。しかし、丸木橋を踏み外して恋に落ちるのも悪くはないね。


「私は恋に懸けるような女ではありません」

 歌を聞いた私の第一声はこれだった。

「知ってますよ。あなたがそんな女性でないことぐらい」

 先生はまた私の頬に手をやった。ひんやりとしたそれは、火照った頬を冷ますのにちょうどいい。

「それよりも……通じましたか? 僕の気持ちは」

「…………つまりは、どういうことでしょうか」

 事態を上手く呑み込むことが出来ていない私を見て、先生は意外そうな顔をした。

「おや、通じていないようですね。では直接言いましょうか」

 頬に手をやったまま、先生は私の耳元へと唇を寄せた。私の顔は、先生の冷たい手が効果を無くすほど熱くなってしまった。

 先生は私の耳元で、甘ったるく低い声で囁いた。

「教師という立場を捨てて、あなたと恋に落ちるのも悪くないということです」

「う、あ……え?」

 頭がぼうっとして訳がわからなくなり、私はしばらく固まった。先生はそんな私をぐい、と自分のもとへ引き寄せた。私の身体はいとも簡単に、すっぽりと先生の胸の中におさまってしまう。

「先生……」

「どうです? 僕と、恋に落ちてみませんか?」

 頭上で聞こえる柔らかな声と、髪を梳かれる暖かな手の感触。いつもすれ違うごとに香っていたラベンダーに似た香りが、普段より強く鼻腔を満たす。そのすべてが心地よくて、このままたゆたうように身を委ねたくなってしまって……。

 返事をする代わりに、私は先生の背中へ腕を回した。そしてそのまま先生の胸の中で、そっと目を閉じた。

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