Your eyes have all the answer

死体

第1話

「×××、行こうか」


ぼんやりとその先を考えながら、小さく呟く。


がらんどうの部屋に、乾いた僕の声だけが浮かんだ。


午前三時


チクタク時計の音だけうるさい。


隅の方で毛布にくるまる彼女を見やる。


ことばもこころも、瞳や髪、手や足さえも失くしてしまった。


きっともう、僕の声も届いていない。





      チクタク          タク

                       ちく   タク

  ちくたく         ちくたく    


        「-------------」

          チクタク             ちくたく

チクタク                 チク  

       チクタク              たく







毛布の中から、何かが聞こえる。


いろんな色に染まった、汚い毛布から。






チク      「---ぅ」   

   ちく          タク

         ちく         「------こう」


  たく    チクタク   ちくたく


「--行こう」




何か月ぶりかの彼女の声


僕は驚いて、少しの間分からなかった。



優しく毛布をめくって、瞳をのぞく。


ねぇ、何が見えているの?


優しく手を取ってコートを着せる。


ねぇ、何か見えているの?



どうでもいい。



それだけがこころなら、一緒に行こう。


二人は家を出る。


鍵は閉めない。




×××へは車を使えば20分ほどで着くが、お気にいりのクーペは先月いよいよ手放してしまった。


夜の大気圧が一番重たくなる時間、深い闇の底を泳ぐようにして歩く。



冷たい黒の中に身体の輪郭が溶け出して、意識だけが宙に浮かんでいく。


繋いだ手に伝わる互いの体温が、いつでも二人ここにいる唯一の証明。


揺らいで、揺らいで、揺らいで、いる。




彼女のせかいは、大多数の人々の世界とは少しだけ大きく異なっていて


そのことが時にいつも彼女を苦しめていた。


僕らは何でもない日々を精一杯生きていたけれど


彼女はだんだんせかいから出られなくなって、僕らはどんどん世界から遠ざかった。


それでも不思議と目に映るものすべてが美しかった。


埃をかぶったアルバム


吐き戻した夕食


窓から差し込む古い日差し


今、二人を満たす果てのない黒、でさえも。





一時間ほどたっただろうか。


波の音がして×××へはもうすぐ。


三月初旬の早朝は凍えるような真空。


僕は彼女が窒息していないか心配で横を見る。


彼女の横顔


なぜだろう、今までのどんな彼女よりずっと美しくて僕は息をのむ。




ザバーン、ザバーンと、真っ黒な海が二人を呼んでいる。


生まれてから一番大きい台風が来た日


思い出のグラスを割ってしまった日


お互いが生まれた記念日


嬉しい時も悲しい時も


呼ばれるように求めるように、僕らはこの×××へ来た。


切り立った崖の先の方に座って、水平線を見つめれば


二人はちっぽけでどうでもいい二つになれた。




左腕の時計を見る。


ぼんやり浮かぶ5:00。


朝は来ない。


ずっと前から。


崖の上で立ち尽くす僕らに冷たい海の風が吹き付けて、彼女を抱きしめる。


きつくきつく抱きしめていたのに、一際強い風が吹いて彼女のマフラーをさらっていく。


海に軌跡が溶けてなくなる。


僕は細すぎる肩に顔をうずめたまま、最後の始まりを絞り出す。



「朝。」


・・・え?」


驚いて顔を上げる。


目と目があって、彼女の指さす方を見る。


水平線の奥ずっとずっと向こうに、小さく、けれど確かにオレンジ色の今日が揺れていた。


彼女が僕を見る。


とても美しい


嗚呼


彼女の


瞳の奥には


僕と


オレンジに光る世界が映っていて


僕の


瞳の奥には


彼女と


橙の世界が映っていて


この一瞬の今日でも君が祝福するなら、それが全てだ。


手を繋ぐ。


小さくて、細くて、とても暖かい。





「帰ろう」












     

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