二章

二章

その日は薄い雲が空一杯に垂れ込めていた。太陽の光は雲に遮られていたけれど、気温は暖かい。純永は幼馴染みの早川実理と、上野駅のイタリアンの店で待ち合わせしていた。休日だけあって、人通りは多い。動物園に行くのだろうか、子供を連れた夫婦が、公園の方向へ向かって歩いている。

「お待たせ」

待ち合わせの時刻丁度に、実理は現れた。美大生らしく、ファッションに気を遣っている実理は、フリルの付いたピンクのスカートと、白いTシャツ、長袖のジーンジャケットを着ている。大学生になってから、化粧をするようになったようだが、化粧は控え目で、元の顔立ちを生かしたものになっている。

「東京にはもう慣れた?」

窓際の席に着いて、すぐに実理は訊いた。

「人が多いね。ゴミ出しのルールが厳格だし、靴を洗える場所が無い」

実理は小さく笑った。

「アパートならそういうものだよ。友達はできた?」

「まだあまり…、かな」

前菜のサラダをウェイタが持ってくる。

「私の方が一年先輩だし、東京のことで何か訊きたいことがあったら、いつでも相談に乗ってあげる」

純永が一年浪人したことで、大学の学年が実理とは一年離れてしまっていた。

「はいはい。困ったら相談するよ」

得意そうに先輩風を吹かせる実理に対して、純永は多少拗ねてみせた。

「そっちの調子はどうなの?二年目になったら、色々実習みたいなものが増えてくるんじゃないの?」

純永は話題を実理に切り替えた。

「実習は一年目からあったよ。二年になってから多くはなっていないね。まだ、教養っていうか、知識を学ぶことが多いの」

実理は窓の外を眺めながら答えた。


純永と賽が通うC大学では、この時期、つまり四月から五月にかけて、教科書や参考書を販売するために、生協がプレハブの特設販売所を設置する。窓口は学部毎に設けられているが、所属する学生の数が多いため、期間中は長蛇の列が常に生じている。その列の中に、賽と花田勇が並んでいた。

「その遠野君と賽が出会ったのは、導入演習のガイダンスでだったと」

花田が相槌を打つ。賽は、純永のことについて話している。

「うん。眼鏡がとっても似合う、なかなか見所がありそうな人ね」

「賽がそう言うなら、そうなんだろう」

花田は笑いながら言った。

「相変わらず、同じ事を考え続けているんだろう?まあ、あまりのめり込むな、って俺が言うのも、好い加減賽は飽き飽きしてきているだろうから、今更言わないけれど…」

それを聞いて、賽はにっこりと微笑んだ。

「これは私の一大関心事だからね。人が多い大学を選んだのもその為なんだから。でも、今のところ、ちょっと当てが外れているわ。人が多ければ、それだけ色々な人が居ると思っていたのだけれど、安易だった。大多数は、平均的で、私の求めているタイプではない」

「そういう、平均的な人と上手くやっていくのが、生きていく上で一番大切だと僕なんかは思うけれども」

苦笑する花田。

賽と花田の順番が来て、二人は履修している講義の教材を買った。

「この後はどうする?」

「私は、帰って休みます」

「だと思った。大学に入っても、その生活習慣は当然直るわけないと。僕は講義の予習をするために、図書館に行くことにするよ」

二人は図書館の前で別れた。


大学から帰ってきた賽は、ベッドに直行した。ベッドの周囲には、法律関係の書籍、お気に入りの作家のエッセィ、女性向けの漫画雑誌、推理小説の文庫本といったものが平積みにされていて、足場がほとんど無い。一人暮らしを始めて、引越ししたときには綺麗に片付いていたものが、気の向くままに参照を繰り返すうちに、あっという間に散らかり放題になった。

「これでは実家に居た頃と全く変わらないな…」

毎日決まって実行する二時間の昼寝に落ち込みながら、賽は考えていた。

賽には、純永に話した法学部の志望動機とは異なる、明確な目的があった。その目的を持っていることを知られたのは、高校の同級生だった花田ただ一人だった。ある日の授業の合間に、突然花田からそのことを指摘されて、賽はとても驚いた。それ以来、花田とは親しくしている。

賽にとって、高校生活は退屈極まりないものだった。大学受験を見越したカリキュラムというのが、まず気に入らなかったし、そのカリキュラムに縛られて、周囲の人間の思考はほとんど停止しているように感じられた。若い感性を、このような閉鎖的な環境に置くことで、社会はどういう人間を生み出そうとしているのか。こういったことをよく考えたが、賽の思考は、嫌悪感で、いつもそこから先に進まなかった。しかし、答えは自明だ。一言で言えば、分かりやすいメリットを社会に齎す人間、そういうものを皆が総出で育てようとしている。賽は、早い時期からそう見切りを付け、独自の思索に耽っていた。

「遠野純永…か」

思考の対象が、高校の頃から変わらない自分の性質から、純永に切り替わる。純永から感じられたもの、それは、一番近い言葉で言えば、「ピンぼけ」であった。眼鏡越しに壇上を見ていた彼の目元は、独特な雰囲気を伴っていた。その後の会話の受け答えから察するに、頭の回転はかなり速い。にもかかわらず、終始視線は「ピンぼけ」しているように観察される。焦点が合っていない、ということではなく、焦点が常時移り変わっている、そんな感じだった。

「あれは、後天的に得た性質なんだろうか…」

答えが出ない疑問について考えながら、賽は眠りに落ちた。


ランチは一通り終わって、テーブルにはコーヒーが二人分置かれた。コーヒーに口を付けながら、実理は言った。

「純もようやく大学生かぁ。大学生活は楽しめそう?」

「まだよく分からないよ。ガイダンスが一通り終わったばかりで、今は手続的なことで頭が一杯」

「大学生活は始めが肝心だって言うからね。気を引き締めていかないと駄目だよ」

「まさか実理にそんなことを言われる日が来るとはね。その言葉、胸に刻んでおくよ」

純永にとって、現状、大学はそれほど魅力的に感じられなかった。学問というものには、その中でも法律には、たしかにそれなりに関心があったけれど、高校からの大きな趨勢に乗って、大学進学を決めたと言った方が事実に即していた。何か、この四年間で、大きな変化が自分に齎されるだろうか、ここ数日そんなことを朧げに考えてみたが、見通しはほとんど立たなかった。強いて今変化の兆しとして挙げられるものがあるとすれば、ガイダンスで出会った一志木賽だろうか。彼女は、今まで純永が出会ったことが無いタイプだった。すべてを見透かしていそうなその瞳、強い意志を感じさせる真っ直ぐな黒髪、滞りなく言葉が紡がれる口元、次に会う時にどんな会話ができるだろうか、そんな好奇心が純永の中に生じていた。

「でも、純は全然変わらないね」

実理は突然言った。目を向けると、どこか寂しそうな顔をしている。

「えっ?」

「いえ、深い意味は無いんだけれど。ううん、気にしないで」

どういう意味だろうか、純永は考えた。しかし、何も明確なことは浮かんでこない。なんとなく、これ以上訊き返すのは躊躇われたので、純永は話題を変えた。

「家庭教師のアルバイトはまだ続けているの?」

「うん。四月になって、教える子は変わったけどね。先月までの、教師も教え子も切羽詰まっていた状況から解放されて、安心しているところ」

純永も何かアルバイトをしようか、と思案していた。家庭教師は収入的には優れているが、自分には合わないのではないかと感じている。何事に対しても、突き詰めて考える性質を持つ自分だと、教え子の成績が伸びない時に、全ての責任が自分にあると考えてしまい、悩むことになるのではないか、と思った。こういう融通の利かない部分は、少しずつ改善して柔軟な人間になりたいと以前から考えていた。

「純には家庭教師は向かなそうね」

実理は笑いながら言った。

「そうかな」

「純は一生懸命になり過ぎるところがあるから…。自分のことはあまり熱心にならないくせに、人のことになると、途端に気合が入っちゃうんだもの。高校でも、そういう自分の癖を知っていたから、できるだけ目立たないように、役目を振られないように気をつけていたでしょう」

純永は、はにかんだ。

「そんなこと…は多少あるかもしれないけれど。実理は意外と俺のことよく見ていたんだな」

「そりゃ見てますとも。幼馴染みから見れば、そのくらいのことは簡単に読み取れました」

実理の攻勢は、その後もしばらく続いた。高校の頃には気づかなかった幼馴染みの一面を知って、純永は楽しい時間を過ごした。


導入演習の初日が訪れた。純永と賽は、結局最初に純永が目を付けた先生のゼミを選んでいた。ゼミが始まると、メンバの自己紹介が一通り行われた。その後、課題図書が指定されて、その日のゼミは終わった。初日だからこんなものだろうか、と純永は少し肩透かしな感じを抱いた。

最初に出会った日と同じように、純永は学食で賽と向かい合う。

「さっきのゼミはどんな感じだった?」

賽は席について、辺りを一度見回してから、純永に尋ねた。

「もっと色々なことをやるのかと思っていたけれど、あっという間だった。先生は予想通りというか、興味深い人物ではありそうだ」

「自己紹介って難しいよね。私は苦手」

賽はこう言った。純永には、賽が自己紹介が苦手とはとても思えなかった。先ほどの自己紹介も、全く迷っている感じが無かった。賽は、その場の空気に応じて、あるいは相手に応じて、適宜紹介する自己を滑らかに構築しているように見受けられる。今のこの発言さえ、純永が相手だからこそ、出てきたものではないか、そんな一瞬の予測が純永の中に起こった。

「遠野君は、大人ってどういうものだって思う?」

賽は突然質問を口にした。その内容が突飛だったので、純永の思考は、少しの間停止した。

「えっ、大人?」

「そう。大人になるってどういうことか。大人ってどういう人のことか」

「難しい質問だね」

純永は考える振りをした。賽は純永の瞳をじっと覗き込んでいる。

「そうだね…。もちろん年齢的な話ではないと思う。そういう意味は、社会的には確かにあるけれど。結婚する、子供を持つってことともあまり関係が無いだろう。結婚したことも、子供を持ったことも無いからよく分からないけれど、そういうステップを踏むと、人間的に変化することはたぶん間違いない。その変化は、大人になるということの意味の一部を構成する。でも、それもすべてではない」

純永は、ここで一度言葉を区切った。

「じゃあ、結局大人になるとはどういうことかというと…。やっぱりよく分からないね。子供も大人もそれほど違わないんじゃないかな。子供のまま大人になる人もたぶん居るし…、どちらがどちらに集合論的に含まれるか、子供や大人の定義によって入れ替わる」

「つまり、大人の意味について、遠野君は自分の中に確定的なものをまだ持っていないわけだ」

「そういうことになるね。質問の答えにはあまり相応しくないかな」

「そんなことはないわ」

賽は微笑んだ。

「私はね…、大人になるってことは、弔いを経験する、死を知るってことだと思う」

「弔い?」

「そう」

賽の瞳は澄んでいた。


賽は、頃合いを見計らって、今日質問してみようと昨夜から考えていたことを純永にぶつけてみた。質問をぶつけると、予想通り、純永の目元はあの独特の雰囲気を醸し出した。

「弔いっていうのはね、お葬式に参加するとか、墓参りをするとか、そういう形式的な話じゃないの。ただ、人の死に接するということ、人が死ぬということ、人が死んで、でも自分は生きている、そういう状態を経験して、理解して、そこで何かを考えて、生き続けることなの」

純永は黙って賽を見つめている。

「そして、いつか自分も逆の立場になる、弔われる側になる、そういうことを意識すること、かな」

「そういうことだとすると、随分暗い意味合いになるね。大人になるって」

「そう?」

賽はまた微笑んだ。しかし、今度の微笑みは、先ほどのものとは全く違った印象を純永に与えた。純永は少し怖くなった。

「そういう意味だとして、一志木さんはもう大人になっているの?」

「どうかしら…、それはよく分からないわね」

賽は純永から視線を逸らした。遠くを見つめている。

その様子を見て、純永は思ったことを口にした。

「ということは、子供って、人の生に接する、人が生まれて、でも自分は死んでいる。そういう状態を経験して、理解して、何かを考えて、死に続けるってことになる?」

口にしながら、純永は言っていることがおかしくて笑い出してしまった。

「これじゃあ、子供は皆死んでいることになってしまうね」

賽は、純永に視線を戻した。その瞳は、吸い込まれそうな黒さを湛えていた。

「そうかもね…。大人と子供が反対の意味だったら、そうなるわ。その場合、『人』と『自分』が入れ替わっていると考えると良いのではないかしら。人と自分はそもそも交換可能なものだったわけ」

純永は、賽の話の展開に驚いた。賽は相変わらず微笑んでいる。

「つまり、『人』と『自分』の差が無い状態が子供ってこと?」

「鋭いね」

賽は吹き出した。純永はじっと賽を見つめている。

「ちょっとした雑談なんだから。そんなに真剣に見つめないで」

そう言われて、純永は自分が思いの外真剣になっていることを意識した。

「ああ…。そんなに真剣な風に見えたかな」

「ええ」

賽はまだ笑っている。

その後は、終始取り留めもない話をお互いにした。純永は、賽の口にした話が、鮮やかな印象を持って、自分の中に落ち込んでいくのを感じた。

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