良質な青春純愛ジュブナイル「君の名は。」の引力と新海誠監督
※若干ネタバレあり
高い高い空の高みから、何かが落ちていく。カメラはそれそのものの視点となって、ゆっくりと、ただひたすらに落下していく。そのスピードは実際はかなりのものなのだろうが、あまりにも“それ”が巨大なために、その落下はスローモーションのようにも感じられる。そして、いつしか雲を突き抜け、風を切って――。そして暗闇の大地の彼方に見えてくる町明かり。
アニメーション映画「君の名は。」冒頭シーン。雄大な空の高さと星の大きさを感じさせる、その視点、そして彗星そのものの目になったかのような、その表現の観点に、まず心奪われる。視聴者の目線を釘付けにする、どこか数学的でもある、その広やかなイメージ。本当に「宇宙を見てきた」人のように。ああ、やはり新海監督の作品だ。劇場の大画面で観ているせいもあっただろうが、まずそう思い一気に引き込まれた。
* * *
新海誠監督のデビュー作「ほしのこえ」に出会ったのは、かれこれ15年ほど前。キャラクターこそ稚拙で荒削りな線で描かれていたとはいえ、完璧に計算し尽くされた精緻な画面作り。息を飲むほどに美しく繊細で光と影のコントラストの鮮やかな、どこか懐かしさを含んだ風景の数々。そして何より、瑞々しく純粋な感性に裏打ちされた切ない物語性。それを当時の若かりし天才監督は、たった一人PC上の孤独な作業だけで堂々完成させたのだ。
「私はここにいるよ――」そのメッセージが虚空に響き渡り、切なく胸に突き刺さる。新海監督の作風の瑞々しさ。それは常にここにいない遠い誰かを思う想いの引力に集約される。現在絶賛公開中の新作劇場作品「君の名は。」も、しかり。互いに見も知らぬ二人の高校生男女の心と身体が入れ替わり、そのつかのまの“夢”の中で知り合ううち、いつしか訪れる別れを境に互いを絶対に忘れてはいけない唯一無二の存在であると彼と彼女は認め合う。
ふと、かつての日本映画界で静かにその存在感の稀有さと普遍的な優しさを放っていた大林宣彦作品を思い出した。高校生男女の心身が入れ替わる、という題材はその尾道三部作の一作目「転校生」からの古典的波及であると思うし、同様に同二作目「時をかける少女」のようなSFジュブナイル的要素も「君の名は。」の作品イメージはふんだんに持っている。過去と未来が入り乱れ、意識と深層意識とが混ざり合う、後半のイリュージョン的なイメージシーンは、彗星の落下という壮大な天体現象やヒロイン三葉の家に代々伝わる組み紐の糸がつなぐ“結び”のイメージとも重なって、記憶や命のつながりを含めた悠久の時間の流れを連想させ幻惑させられる。
ひたすらに「君」を想うバンド系アーティストによる主題歌を含む挿入歌なども切なくドラマティックに劇中で響き渡り、その映像音楽の彩りとともに、テンポよく展開するポップでメリハリの効いた作品表現も、かえって静謐で美しい新海表現をイマジネーション豊かに切り取り魅せる演出となっている。それはおそらく誰もが心の奥底に持っている、純粋な魂のかけら。あるいはその憧れ。それがそうであることを裏打ちするかのように老若男女多くの人の心を捕らえたのか、本作「君の名は。」は名実ともに興行収益100億円突破の大ヒットを打ち立てた。
――が、大事なことはそこではない気がしている。何より本作を観劇していく中で、瞬間何とも言えない感覚に捕らえられたこと。まるで自分自身が物語の世界に入り込み、実際に同じ時間軸を体感しているかのような錯覚まで起こり、そのかけがえのないようなリアル感が三葉や瀧など作中人物への共感を呼んで劇中キャラのすべての体験が、まるで我が身に起こったことのように感じられた。そのどこか奇跡的な肌感覚を、おそらく誰もが一つの体験として共有しているのではないだろうか。
どこまでも緻密で繊細で、同時にかつ大胆な手法で稀有な映像美を見せる、新海作品の醍醐味は、その徹底したリアルさにある。そう、人が実際に目で見て感じる、世界や風景の美しさ。どこか酔うようなその映像美や独特のアングルの斬新なカメラワークの妙に、映画を観る人の視点がそのまま画面の視点と重なり合う。三葉や瀧が見ている風景と同じものを見ることができる。それは年代関係なく、ありし日の青春の輝きを時間を越えてそこここに描き出してみせる。
それは不可思議な既視感。時間と空間を超越した、過去と未来が重なり合うイメージ表現によって、さらにその感覚は増していく。そう錯覚......主人公、三葉と瀧に成り代わって物語を体感しているような感覚。それは視聴者、観劇者の画面への感情移入を容易に加速させる。どこか懐かしく心に思い描いたままの記憶と視界が覚えていた、その一瞬だけ目に焼き付いた唯一無二の風景の綺麗さ鮮烈さとともに。それは本当に“ただの錯覚”なのだろうか。
作品テーマ的には、フジテレビ深夜アニメ枠ノイタミナのヒット作『あの花(あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。)』」と、どことなく似ていると思った。もう逢えない人、逢うことのできない人、だからこそ強く逢いたいと願う人......その唯一無二の切なさは、常に携帯やネットで日常的にすぐに繋がることのできる今という時代だからこそ新鮮に映り、その稀有な恋愛体験への純粋な憧れが爆発的なヒットという形に表れているのかもしれない。「あの花」の長井龍雪(ながいたつゆき)監督も新海監督も、私自身より若干下の世代だけれど、こうした純粋な作品感覚を持ち合わせているという点で、同世代的な時代の空気感を両者とも如実に感じ取っているのかもしれない。
かくして「君の名は。」は数多くの人々を魅了する作品となることに成功した。たぶん最初に「ほしのこえ」に出会い、自主制作アニメとしては衝撃的なクオリティに感動と驚愕をもってして瞠目したあの日、おそらくこういう日が来ることを私自身どこかで予見していたのかもしれない。時代の寵児と言っても言い過ぎではないほどに、不可能を可能にしてしまう、その稀有な才能に誰もが恋してしまうのは必然のこと。そう、いつかジブリ映画を越えた新海作品の時代が来ると。事実、今というのは日本アニメーション映画界を牽引する、そのスタジオジブリの動向も含め、実は大きな過渡期にあるのかもしれない。そのさなかでのこの「君の名は。」の大ヒット。
本作は、ただの恋愛テーマに留まらず、もっと多くの情報量を巧みに携え、かつシンプルなストーリーの中に複雑に仕込んだ時間軸の妙もあり、この世のものとは思えぬ美しさの彗星の落下という一大スペクタクルとその悲劇性を背景に、古きよき日本の信仰風土に根付いた神話や伝承的なスピリチュアル要素を内包し、連綿と続く
が、主役はやはり互いに切なく思い馳せる瀧と三葉の二人の主人公にほかならない。ただ「逢いたい」という想いだけが心を
特に新海作品の醍醐味とも言える、その後半の物語が過去を振り返る二人の関係性の空白部分がよかった。単なる主題歌アーティストに留まらず幾つかの胸に迫る楽曲で作品を幾重にも彩ったRADWIMPSの、
「――嬉しくて泣くのは 悲しくて笑うのは 僕の心が 僕を追い越したんだよ......」(「なんでもないや」)
と、歌うラストの幕引きの詞(ことば)が、最後にいつまでも胸の中に、まるで波紋を広げるように木霊して離れなかった。
※補足
あとで(パンフレットを見て)知ったのだが、まんまキャラクターデザインを手掛けていたのは「あの花」の田中将賀氏だった。なるほど、全く違和感なし(笑)作画監督は「千と千尋」などのジブリ作品でお馴染みの安藤雅司氏だし、さすが「君の名は。」豪華スタッフ。ある意味、今ある各界の精鋭アニメスタッフが俊才・新海誠の名のもとに集結したという感じでしょうか。ただただ納得。
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