ハル
田辺屋敷
第1話
昼過ぎ。
少女はお金を握り締め、夕食のために肉屋へと向かっていた。一応、よれよれの服にはポケットが付いているのだが、先日、銅貨を落としてしまうという失態の際に穴を見つけたため、今は手にしっかりと持っていくことにしていたのである。
肉屋は青空市場にあり、少女の住む孤児院からは徒歩で二〇分の距離。砂利道をただひたすらにまっすぐ進んでいけば到着する。しかし、その道程は少女にとって居心地の悪いものだった。すれ違う人々は少女に気付くや、冷ややかな目を向けてくるのだ。それは小汚い格好をしているからではなく、彼女の存在そのものに対する軽蔑の眼差し。まるで町すべてが敵に回ったような感覚。いや、それが事実なのだろう。町はおろか、人類すべてから敵として見られているに違いない。
そんな視線に晒されながら市場に着くと、少女は立ち籠める熱気と人込みを掻き分けて進んだ。そしてようやく目的地を視界に収める。急ごしらえの布の屋根に、これまた木箱の上に布を敷いただけの簡易的な棚。そんな店構えながらも新鮮な肉はちゃんと並んでいた。少女が肉屋に着くと、女性店員の見下す目が出迎える。先ほどまで他の客と接していた仏の顔は、少女を視界に収めた途端、鬼に代わったのだ。
「なんだい、また来たのかい。……っで、どれが欲しいんだい」
吐き捨てるような物言いながら、ちゃんと商品を売ってくれるのはありがたい。少女は棚に並んだ中で一番やすい肉を指差し、手元のお金をすべて差し出した。
「これで買えるだけ寄越せってことかい?」
首肯すると、店員はふんと鼻を鳴らして作業を始めた。
少女は釣り銭が出ないように心掛けていた。それは先日、他の店で釣り銭が足りないと抗議したが取り合ってもらえなかったと、お金を預けてくれた孤児院の施設長に伝えるも、銅貨を落とした過去を持ちだし、足りない差額分を盗んだのだろうと嫌疑を掛けられたことがあったからだった。
「ほら。受け取ったらさっさと消えな」
店員から商品を投げ渡された少女は、黙したまま一礼し、去っていく。その様子を見ていた別の客が「さっきのは酷いんじゃないかい」と店員をたしなめるが、返ってきた答えに思わず納得の声を漏らす。
「あの子は、孤児院の“口なし”なんだよ」
「口なしって……。じゃああの子って、りゅ――」
「こらっ」
店員の怒鳴りに、客はハッとして口を押さえた。そして周囲を見回す。どうやら誰も聞いていなかったようだと確認し、ホッと胸を撫で下ろした。
「それにしても、そうか。綺麗な顔だけど、あの子、口なしなんだね」
駆けていく少女の背中を見る客の目からは、すっかり温かみが失せていた。
◇
遥か昔のことである。
地上に人、空に竜。互いに干渉することなく平和に暮らしていたのだが、いつ頃からか互いに牙を向き合うようになり、何百年という長い年月の末、十数年前にその戦争は人間の勝利を以て終結。竜は遠い山奥に追いやられた。しかし逃げ遅れた竜は、炎が吹けぬように舌を引き抜かれ、その弊害として声をも失った。この事から、それらの竜は人々から“口なし”と軽蔑されながら人間の社会で生きることになったのである。
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