未題のダイジェスト:______
辻野深由
忠犬ダイヤモンド
世界に愛されながら生まれてきたはずなのに、ちっぽけな僕の存在は、この広大な世界の中で歯車にも潤滑油にもなれず、路傍の小石のようにひっそりと息を潜めていることでしか輝くことができない。
誰も僕の価値を認めてくれなくたっていい。どうせ、僕の真価を分かってくれるのはマスターだけなのだ。
そうやって長年掛けて拉げた感情は、風化して丸みを帯びた僕の身体とは対照的なまでにヤマアラシのジレンマを抱えてしまっている。
どうやら今日も僕は選ばれなかったらしく、気付けば近頃親しくしていた隣人の姿が消えていた。きっと、彼が選ばれたのだろう。気さくな内面にエッジのかかった外見は前々から女性に人気だったし、売れ残ることはないだろうとは思っていたけど、そうか。先輩である僕はあっという間に越されてしまったか。
売れ残った僕はこうやって新参者を迎えては、見送る。幾度となく出会いと別れを繰り返して、今ではマスターから「忠犬」と呼ばれている。尤も、そんなあだ名は不本意でしかないし、そもそも忠犬なのだとしたら、僕は永遠にここにいることになるだろう。まるで呪いだ。みんなにはトパーズだのベルベットだのサファイアだのと格好いい名札で装飾するくせに、どうしてみんなのように気品溢れる名前にしてくれないのだろう。
硝子を一枚隔てた向こう側に、見慣れた顔があった。
ああ、そういえばこの人は僕の友人を連れて行った女性だったっけな。息を飲むような漆黒の瞳が印象的だったから良く覚えている。
以前はよく二重で彫りの深い男性を隣に連れていたのに、今は金髪で色白、顔も薄味な優男と腕を組んでいる。あの時は嬉しそうに僕の友人を選んだというのに、彼女の指先にはその姿も見えない。きっと彼女の家で留守番でもしているのだろう。
そんなことをぼうっと考えていたら、ふと、数か月前まで仲良くアフリカの話をした若造のことを思い出す。
あいつはここへ来た当初、かなり紆余曲折というか、波瀾万丈な人生を歩みながらマスターの元へとやってきた、と苦労を滲ませるような渋い声で語ってくれたのだ。長年この場所から出たことのない僕は、あいつの話にそこそこに興味を惹かれたのを覚えている。それに、若いくせに含蓄に富み、年端もいかないくせにどこか人生を達観するような面構えをしていたことも相俟って、中々好感ももてた。つい数日前、マスターが良く談笑する親父の手元に渡っていったが、今頃どうしているだろうか。新しい人生を楽しく過ごせているといいのだが。
目の前を通り過ぎる幾人もの美人を眺めながら、友人たちのことを思う。
硝子越しに僕や知人をじぃっと眺める視線は、ときにはしゃぎ、幸せに満ち、あるいは深い闇や憂いを抱えていたりもする。人間観察というと烏滸がましい響きだが、僕はその目を見るだけでその人の人生観がなんとなく分かってしまうのだ。それがどう活きるかは別として、単純に趣味として、人間観察を楽しんでいたりする。
真面目に輝いてみせろ、とマスターに小言を言われることもままあるが、それはお互い様。僕に人気がでない理由は明白。忠犬、なんて名前を付けるからいけないのだ。売約済みみたいに見えるのだから、どれだけ輝こうが、女性たちは僕に見向きもしない。だから、こうして趣味に生きていくしかないわけで。
と、まぁ、こんなどうでも良い小言を呟いているうちに、女性たちは次々と店を出て行く。どうやら陽が暮れてきたらしい。
夕暮れの時刻を告げる牧歌的な鐘が響き始めると、マスターが立ち上がり、店仕舞いを始めた。
「今日もお前は売れ残ったねぇ」
嬉しそうにも悲しそうにも聞こえる声音がぽつりと響く。マスターの口癖はもう聞き飽きたが、耳にすることでどことなく安堵してしまう自分がいて、苦笑いを浮かべてしまった。
あと、何十年、こんな日々が続くだろうか。
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