夏の名残

 アスファルトに陽炎が揺らいでいる。俺は目を細めて、汗にまみれた額を拭った。

 夏休みだというのに制服を着て学校へ向かっているが、歩いているだけで息が切れそうだ。蝉の声が耳障りで、余計暑苦しく感じる。スケッチブックを抱える手がすっかり湿っていた。

 ふと、携帯電話が高らかに鳴った。苦い思いで電話を取り出すと、画面には『松中澪まつなかみお』の名前が表示されている。女みたいな名前だが、こいつはれっきとした男だ。俺と同じく、美術部の幽霊部員だった。


「もしもし」


 だるそうに電話に出ると、みおは寝起きの声だった。


「おはよう。千尋ちひろ、今日は美術室に行く?」


「何が『おはよう』だ。もう昼だよ、昼」と、思わず苦笑した。


「今まさに向かってるところ。どうでもいいけど、お前、清々しさゼロだな」


「お前もな」


「今日は猛暑日なんだとさ。こんな暑い中、元気にしてられるかよ」


「今、どこ?」


「えっと、神社のそば」


 俺は辺りを見回して答える。すぐ向こうに鎮守の杜の梢がこんもり見えた。


「了解。俺もこれから支度して行くから」


「んじゃ、あとで」


 俺と澪が何故、学校に向かっているかというと、夏休み明けの文化祭に出す絵をまだ描いていないからだ。

 本当はどこにも入部なんかしたくなかった。けれど、うちの学校には帰宅部がない。『どれか一つは部活動をしろ』だなんて、とんだ時代錯誤な校風だ。何もしなくてよさそうだと入った美術部だけど、そういう訳にはいかなかった。

 澪はどんな絵を描くんだろうと首を傾げ、俺は真っ白なスケッチブックを持つ手に力をこめた。澪と俺が幽霊部員の中でも気が合うのは、似ているからだと思う。名前が女っぽい同士だってだけじゃなく、俺たちは夢中になれる何かを探してるんだ。

 そんなことを考えながら、神社の境内に足を踏み入れた。ここを抜ければ学校までの近道だ。

 日陰のひんやりした空気が熱気を冷ましてくれる。枝の隙間からの木漏れ日が、薄暗い境内を点々と照らしていた。境内の向こうに神社の社殿と手水舎が見えた。

 涼しさに和みながら歩いていると、拝殿の階段に誰かが座っているのを見つけた。

 一人の女性が階段に腰を下ろし、ぼうっとしていた。その足元の参道には黒いギターケースとバッグが置かれている。

 その横顔を見た瞬間、心臓が高鳴った。長い髪を垂らした彼女は、俺よりも年上のようだ。ちょっと伏し目で、とびきりの美人って訳じゃないのに何故かすごく綺麗に見えた。まるで『モナ・リザ』みたいに、目が離せなくなったんだ。どうしてそんな顔してるんだろう。切なそうな、泣き出しそうな目だ。そのくせ、ちょっと口許が微笑んでいる。

 俺は彼女に近づくたび、次第に緊張が高まっていった。かといって、彼女を避けて通れない。拝殿から伸びる参道に出て、出口へ向かわなければならなかった。

 ふと、彼女が俺に気づいた。彼女は腰を下ろしたまま、視線がかち合う。先に視線を外したのは、俺のほうだった。さっきよりはっきり見えた彼女の顔が眩しかった。この人、確かにとびきりの美人じゃない。でも、とびきり可愛い。

 なんだか気恥ずかしくて足早に去ろうとする俺に、こんな一声が飛んできた。


「人助けする気はない?」


 驚いて振り返ると、彼女は頬杖をついていた。


「携帯電話、持ってるでしょ? 鳴らしてくれないかな? 落としちゃって困ってるの」


「俺ですか?」


 思わず自分を指差した俺に、彼女がにっこり微笑む。


「そう。ここで落としたはずなんだけど、見つからないの」


「はぁ、まぁ、いいですよ」


 俺は戸惑いながら、彼女に歩み寄った。立ち上がった彼女は思ったより背が高かった。


「何番ですか?」


 携帯電話を取り出した俺に、彼女は自分の番号を言った。回線が繋がった音がした直後、後ろのほうから着信音が聞こえてきた。


「あ! やっぱり、この辺にあるんだ」


 彼女は顔を輝かせ、俺を拝むように手を合わせた。


「ごめん、もうちょっと鳴らしてて」


 なんてことはない。彼女の携帯電話は拝殿の階段の陰に落ちていた。


「助かったぁ。ありがとう!」


 携帯電話についた土埃を拭い、彼女が満面の笑みを浮かべた。


「いえ、よかったですね」


 何故か、さっと顔が赤くなった。別に女の子の笑顔なんて学校に行けばいくらでも見られる。でも彼女の笑顔は、クラスの女子とはどこか違っていた。

 俺が見蕩れていると、彼女は人なつこく言った。


「お礼になんか御馳走するよ。何がいい?」


「そんなのいいです。それに、俺、これから学校行かなきゃ」


 慌てて言ってしまってから『しまった』と思った。この人と仲良くなれるチャンスかもしれなかったのに。


「じゃあ、学校まで送ろうか?」


 そう言って車のキーを掲げる彼女に、俺はちょっと呆れながら言ってやった。


「お姉さん、無防備ですよ。俺だって男なんだから、そんな気軽に知らない人を乗せるもんじゃないです」


 すると、彼女は大口を開けて笑い出す。呆気にとられつつ、俺はまた顔を赤らめた。大口開けて笑っても可愛いとか、どれだけズルいんだ。


「そうか、そうよね。君って大人ね」


「もしかして、馬鹿にしてます?」


「とんでもない。高校生なのに大人びてるなって感心したの」


「どうして俺が高校生だってわかったんですか?」


「私の母校の制服だから」


 それを聞いて間抜けな質問をしたと悔いた。俺、そういや制服を着ていたんだよな。彼女は笑みを引っ込めると、今度は小首を傾げる。


「ねぇ、何かお礼したいんだけど、本当にいいの?」


 俺は迷った末に、こう切り出した。


「それじゃ、あなたの絵を描かせてください」


「私の絵を何に使うの?」


「高校の文化祭に出そうかなと思って。今日のデッサンを油絵に描き直すんです」


「ふぅん、面白そうだね。いいよ。ポーズはどうしようか?」


 少し照れながら、彼女は階段にまた腰を下ろした。俺は参道に座り込み、バッグから画用木炭を取り出す。


「お好きなポーズでどうぞ」


「じゃあ、コレでも持とうかな。なんか手持ち無沙汰だし」


 彼女は黒いケースを開けた。中から取り出したのは、よく手入れされたギターだった。


「お姉さん、バンドでもやってるんですか?」


「少年よ、これはクラシック・ギターなの」


 そう言って、彼女はギターを抱える。弦をつま弾くポーズをとり、まるで我が子を見るような目でギターを見た。


「春から習い始めたんだ」


 彼女は苦いものを唇に浮かべて、呟いた。


「……気分転換に」


 俺の眉が上がる。彼女は何か言いたげでもあり、どこか言いにくそうな顔でもあった。でも、気のきいた返事なんてできなかった。スケッチブックを開いた俺は「ふぅん」と相づちを打って、木炭を走らせ始めた。


「何も訊かないのね」


 ふと、彼女が眉を下げた。


「聞いて欲しいなら、いくらでも聞きますよ」


「今時の高校生って大人びてるのね」


 彼女はふっと笑う。


「あんまり動かないでください。口ならいくらでも動かしていいですから」


「じゃあ、お互いに質問し合おうよ。私だけ自分のこと話すのってフェアじゃないし、どんな人が私の絵を描きたいのか知りたいな」


 こうして、俺たちの対話が始まった。

 まず、彼女がこう切り出した。


「絵、好きなの?」


「別に。他に入りたい部活がなかったんで、仕方なくです」


 彼女の体の線は細かった。でも、肌は柔らかそうだった。この夏に不似合いなほど白い。


「次は俺の番ですね。なんで、神社でギター持ってぼうっとしてるんですか?」


 彼女の口許がつり上がる。少しの間、視線が泳ぎ、またギターに戻った。ふっくら厚い唇が不満そうに尖る。


「同棲してた彼氏と別れたんだけど、引越し業者が間違って私のギターまで運んじゃったのよ。今日はここで待ち合わせして、返してもらったの」


 『同棲』という響きに、思わず手の動きが止まってしまった。彼女がまるで、高校生の自分とはほど遠い世界の住人みたいに思えた。


「まぁ、同棲っていっても、ほんの一ヶ月よ」


 その微笑みには、少し自嘲がこもっていた。


「さぁ、今度は私。少年はどうして私を描こうと思ったの?」


 ちょっと考えて、俺は「さぁ」と首を傾げた。彼女の細い手を描きながら、ぼそりと答える。


「描きたいものが何もなくて困ってたんです。夢中になれるものがないんですよ」


 彼女の右手は爪が長い。けれど、弦を押さえる左手の爪は短かった。無気力な俺とは裏腹に、彼女はギターに夢中な毎日を送ってるんだろう。


「でも、さっき顔を見たとき、興味がわきました。ちょっと哀しそうな顔をしてるくせに、口許だけ微笑んでて。何を考えてたんですか?」


「自分を馬鹿みたいだと思ってたのよ」


 彼女の髪が風に揺れた。


「私、高校生のときから彼氏と付き合ってたの。この神社で学校帰りに告白してね」


 少し伏し目になる。長く、くっきりしたまつ毛だ。瞼に重ねられたパープルのアイシャドウが煌めいて綺麗だった。


「六年間、ずっと片思いだったの。卒業間近に告白して、大学に入学してすぐ同棲して、一ヶ月で破局」


 そして、ぽつりとこう言った。


「まるで蝉みたいな恋だったわ。少年は好きな人いるの?」


 俺は考えるまでもなく頭を横に振った。ギターのラインを描きながら、鼻で笑う。


「いませんよ。俺には夢中になれるものってないんですよね。ギター弾いてるお姉さんが羨ましいです」


「あら、言ったでしょ。これは気晴らし。たまたま、大学の友達のお兄さんがギター教師でね。誘われたからやってみただけ。これを弾いてると何も考えなくて済むから」


 彼女は苦笑する。


「その彼氏ってのがギャンブル狂いでね。同棲して初めてわかったんだけど」


 ため息を漏らす彼女の胸元が大きく上下した。露になっている鎖骨に見蕩れそうになる。


「なんとかしたくても、どうにもならなくて。でも、いつかはちゃんとした生活を送ってくれるかな、なんて期待して裏切られる繰り返し。そういうときに、ギターを弾くと嫌な事は忘れられた」


「でも、別れたんですね」


「そういうこと。最初は泣いてばっかりだった。たった一ヶ月だったのに、ガランとした部屋を見てると、世界にたった独りで取り残された気分で」


 俺は彼女の二重まぶたを描きながら、言葉を探す。でも、なんて言っていいかわからなかった。この瞼を腫らしていた彼女を想像するだけで、見た事もない彼氏に腹が立ってきた。


「でも、さっき久しぶりに会ったとき、もう遠い存在になったんだなって思えたの。よりを戻そうって言われたけど、いいよって言えなかった」


 泣きそうな笑みだ。こんな笑顔、見た事ない。


「また自分が傷つくのが嫌だったの。私、彼より自分が大事になってた。腕を掴まれてバッグの中身ぶちまけちゃって、携帯なくして、いい事ないって思ってたら少年が現れたってわけ」


 俺は手を止めて、彼女の目を見据えた。俺たちの視線が互いを探るように絡まっている。


「お姉さんが蝉だとしたら、きっと留まる木を間違えただけですよ。六年間ずっと好きだったことは馬鹿みたいなんかじゃないと思います。俺には、そこまで誰かに夢中になれることが羨ましいです」


 俺は弦をなぞるようにしている白い指を見つめた。


「そんな風に好かれて、嬉しくない男なんて、いないと思いますよ」


 少なくとも、俺ならその手を離したりはしない。ギャンブルなんてしたこともないけど、こんな人を見捨てるなんて、その男は馬鹿だ。

 お姉さんの頬が少し染まった気がした。


「私、少年ともっと早く出逢えてたら、もっと早く楽になったのかもね」


「次は俺の質問です」


 俺はスケッチブックに視線を落として呟くように言った。デッサンはもう殆ど描き終わっている。


「この絵、文化祭に観にきてくれますか? 俺、お姉さんとまた会いたいです」


 思い切って顔を上げると、彼女の顔が真っ赤になっていた。途端に、自分の顔も赤くなるのがわかった。けれど、何故か言葉はとめどなく唇から漏れる。


「もっと、あなたのこと知りたいです。こんなデッサン一枚描き上げる間だけじゃ、足りないです」


「本当、もっと早く出逢ってたら変わってたのかな」


 そう言うと、彼女は髪をかきあげ、ギターをケースの中に入れた。俺のデッサンを見下ろし、ふっと笑う。


「寂しそうな目」


 つられてデッサンの彼女を観ると、確かに少し伏し目に憂いを帯びている。


「六年の片思いと一ヶ月の同棲のせいでね、私には彼の匂いが染み付いてるの」


 きょとんとしていると、彼女が両手を組み合わせる。


「多分、これからも消えないかもしれないけど、あの人を好きだった自分がまだ色濃く残ってて、嫌になる。ジーンズよりスカート。髪はショートよりロング。サッカーより野球。一生懸命あの人の匂いを体に染み付けたの」


 指折り数える彼女は、小さく肩をすくめる。


「そういう匂いが名残になるまでは、私は怖くて動けない」


 彼女の目から涙がこぼれた。俺はそっと立ち上がり、彼女の隣に座った。

 言葉は見つからない。けれど、だからこそ触れたかった。傷だらけのくせに、笑おうとする彼女に。

 彼の残したものを自分の一部分に消化しようともがく姿が、俺には痛々しくもあり、とても胸が締め付けられたんだ。こんなこと初めてだった。

 多分、これが愛おしいって気持ちなんだろうと思いながら、手を伸ばした。そっと指先で頬を伝う涙を拭う。彼女の瞳に俺が映っている。それだけで体の芯が熱を持った。夏の暑さなんかより、ずっと激しい熱だった。

 されるがままになっている彼女を見つめ、今度は唇で濡れたまつ毛に触れた。鼻先をくすぐる気配に目眩がする。どちらからともなく、唇が重なった。ゆっくりと、啄むように繰り返されるキス。蝉の鳴き声が消えた気がした。

 彼女の細い二の腕を掴み、体を引き寄せる。触れ合う足と足。俺は居ても立ってもいられなくなって、彼女を強く抱きしめた。髪の匂いがため息を誘う。


「お姉さんが笑ってくれるなら、俺、何でもするよ。それじゃ駄目なの?」


 耳元でふっと笑みが漏れた。じんと体が痺れる。次いで漏れ出た声が、俺の心まで痺れさせた。


「じゃあ、証明してよ。一時の勢いじゃないって。来年まで待って、それでも私を欲しいと思うなら、ここに来て」


「お姉さんは、ここで待っててくれるの?」


「さぁ。保証はないわ。私も少年を欲しいと思ったら、ここに来るけど」


「なんだ、ギャンブル好きなのは彼氏だけじゃないみたいだね」


 苦笑した俺に、彼女が笑う。


「そうかもしれない。けど、いつか私を手に入れるなら、彼氏の名残がある私なのよ。それでもいいの?」


 俺はそっと体を離し、彼女の顔を見つめた。


「いいよ。俺の匂いで上塗りするから」


 彼女の狭い額にキスを落としながら、俺は笑う。チャンスをくれた彼女に感謝をこめて。


「俺の名残は死ぬまで消えないよ」


「それまでに、もっと夢中になれるものを見つけたりするんじゃない?」


 眉をしかめて見せる彼女に、俺は笑う。


「もう、これ以上ないくらい夢中になりそうなもの見つけたから」


 俺たちは何度もキスを繰り返した。その合間に俺はやっとこう訊いた。


「お姉さん、名前は?」


香澄かすみ


「いい名前だね」


「少年は?」


千尋ちひろ。ねぇ、街で見かけたら声かけていいの?」


「見つけられたらね」


「電話してもいい?」


「駄目。夏が来る前に会いたくなる」


 その言葉だけで、充分報われた気がした。明日も明後日も毎日同じでつまらないと思っていた俺が、初めて未来を待ち遠しく思った瞬間だった。


 俺と彼女は参道を一緒に歩き、神社の鳥居をくぐった。その先の道路に一台の車が停められている。彼女がロックを外し、俺に向き直る。言葉もなく、惜しむようなキスをして、彼女は車に乗り込んだ。

 それが走り去るのを見つめ、俺は突っ立っていた。車が消えた先に、また陽炎が見えた。

 いつの間にか蝉の声が戻ってきた。気がつけば背中にびっしり汗をかいている。俺はそっと唇を撫でて、あの感触を思い出そうとした。ふっと目を閉じると、彼女の眼差しがそこにあるかのように感じる。

 足を踏み出すと、アスファルトの熱がスニーカーを通して伝わってくる。まるで俺に今までのやりとりが夢じゃないんだって訴えているように感じた。でも、夢みたいだ。

 澪と電話してから一時間も経っていた。けど、俺にはほんの数分の出来事に思えた。

 学校に着くと、部活動のために登校している生徒たちがいた。通り過ぎる女子たちを見て、俺はため息を漏らす。

 俺はとんでもないものを見つけてしまったのかもしれない。誰を見ても『俺が欲しいのはこの人じゃない』としか思えなくなっていた。

 俺の心にはすっかり香澄さんが住み着いた。皮膚の下ギリギリまで彼女の匂いが染み付いたような気がする。

 美術室では、澪がもうキャンバスに下書きをしていた。俺を見て彼は目を細める。


「遅かったな」


「あぁ、すまん」


 澪は女みたいに綺麗な顔をふっと綻ばせた。


「お前、何かあった?」


「なんで?」


 ギクリとした俺に、彼は唇をつり上げた。


「なんか、夢見心地って顔してる」


 こいつ、鋭い。俺は苦笑して、スケッチブックとバッグをテーブルに上げた。


「そうかもな。短い夏の夢だ」


 文化祭の日、俺と澪は美術部の絵が並ぶ廊下にいた。

 澪が描いたのは一人の老婆だった。皺の刻まれた手を前に組み、目を細めて微笑んでいる。どうやら、彼のバイオリンの師匠らしい。


「俺、彼女の手が好きなんだ。どんな生き方をしてきたのかよくわかるから」


 澪は目を細めて、絵の老婆を見つめている。皺の数だけ、痛みと優しさが刻まれているような絵だった。澪の慕情が嫌というほど伝わってくる。

 そして、隣にあるのは俺が描いた香澄さんの絵だった。ギターを抱え、その目をネックに落としている。何度も真正面を向いた顔を描こうとしたけれど、描けなかった。彼女が真っ直ぐ見つめるのは、俺だけでありたい。そう思ったから。

 澪は俺の絵のモデルについては何も触れなかった。ただ一言、「お前、噂になるぞ」と呟いてニヤニヤしただけだった。

 俺は澪のこういうところが好きなんだ。誰にも触れないで欲しいところを敏感に感じ取って、黙って隣で見守ってくれる。それがなんだか、俺を楽にさせた。だから、俺も澪の絵のモデルについては深く追求しなかった。でも、それでいいじゃないか。お互い、大事な人がいるというだけだ。

 文化祭で賑わう校内を澪と歩きながら、俺は少し大人になったような気がしていた。


 文化祭が終わり、吹く風から熱気が日々失われていく。神社の銀杏は黄色く染まり、いつしか扇のように舞い降りる。

 俺はあの日以来、毎日神社の境内を抜けて学校へ通っている。あの拝殿が見える瞬間、いつも願うんだ。彼女の姿がないかなって。でも、いつも誰もいない。

 それでも、俺は願う。またあの声を聞きたいって。

 あんなに響いていた蝉の声がもうどこにもない。薄暗い鎮守の杜を歩きながら、ため息を漏らした。

 盛り上がる木々の根を越え、俺は思う。蝉の声が嫌いだ。蝉のようだと言った彼女の恋を思い出す。ギターの音が嫌いだ。ギターを包んでいた彼女の手を掴んで離さなければ良かったと悔いてしまう。陽炎が嫌いだ。目の前で揺らいでいるのに、手が届かないそれは、彼女のようだから。

 俺は死ぬまで、この想いを忘れられないと確信した。夏が来るたび、俺はきっと彼女を思い出す。俺の中で、彼女との記憶が熱を帯びるだろう。それはきっと、季節をいくら繰り返しても、まるで昨日のことのように。

 ふと、木の幹に蝉の抜け殻がくっついているのを見つけた。思わず微笑み、それを優しく手に取る。壊さないように、そっと両手で包んで口の端をつり上げた。

 今度会えたら、壊しそうなくらい抱きしめたい。けれど、この抜け殻にそうするように、壊さないように包んでもやりたい。

 彼女はまたあの時のように「少年」と俺を呼ぶだろうか。それとも「千尋」と呼んでくれるだろうか。俺は名前を呼びたくて仕方ないよ。

 悪くないじゃないか。夏が楽しみだなんて、今までの人生で一度だってなかった。彼女は俺の日々に熱をくれたんだ。

 夏の名残をね。

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