第50話 そいつが間違いなもんかよ

『ファアファルさんッ!』


鋭い呼び声に、膝を抱えていたファアファルは背筋を強張らせた。

胸を締め付けられるような思いで見ていた戦場は、長大な龍殺しの剣によって幕引きされていた。心臓を穿たれたドラコベネが、遂にその膝を屈したのだ。


夢を見ているようだった。熱で浮かされたように、思考が覚束ない。

まさか本当にドラコベネを討ち滅ぼすとは、完全に意想外だった。

それが自分にとって吉夢なのか悪夢なのか、ファアファル自身でも判断が出来ないでいる。


世界最強の怪異が倒れ伏した瞬間、駆けだす影があった。


人族代表・周防虹子だ。この瞬間のために備えていたのだろう――既にアシハラのドームを後にして、ベアリングを埋め込んだ靴で滑るように戦場を疾駆していた。

田路彦あたりから情報を得ていたのか、真っ直ぐにこちらへと向かっている。


外部スピーカーを通じて、虹子は叫ぶ。


『あの時の約束はいま果たされました! だから、ファアファルさんッ!』


ファアファルの脳裏に、かつて交わした約束が反芻する。当時会長を務めていた周防破鐘が、技術提供会の際に持ち出してきた提言。


――人族と魔族とで同盟を組んでもらえないだろうか。


冗談を言っている様子はなかった。そもそもあの男は常に鉄面皮で、笑みの一つも見せた事はなかった。それでもあの時は、戯言の類としか思えなかった。

大真面目な表情で言うのが却っておかしくて、ファアファルは声を上げて笑い飛ばした。


――何を馬鹿な事言ってるのよ貴方は。組めるわけないでしょう?


だが彼は、一笑に付す魔女に対して続けざまにこう言ったのだ。


――無論、ただでとは言わない。魔族を頷かせるにはそれなりの条件が必要である事は承知しているつもりだ。

――へえ、お茶請けのつもりで聞くだけ聞いてあげましょう?


瞳を閉じながら軽口を投げつつ、ファアファルは提供されていた洋菓子を口にした。

次はどんな妄言が飛び出すのかと斜に構えていた彼女は、次の瞬間に吹き出した。


――ドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼを倒す。

――は、はあああ!? あ、貴方でもそんな冗談を言うのね!?

――至極本気だよ。その上で追加提言だ、ファアファル・ラオベン。ドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼ討伐を条件に、人族との同盟関係の構築、及び龍族との同盟破棄を約束してもらいたい。


対象を射抜くような破鐘の瞳は、少しも笑ってなどいなかった。対して、あまりにも突飛な約束を求められたファアファルは絶句していた。怯えるような怒るような、ともすれば笑うような、複雑な表情を浮かべながら、破鐘の言葉を聞いていた。


――魔族の諸君も龍族の横暴には辟易しているのだろう? ならばいっそ同盟を破棄し、龍族の交戦権を失効させてしまえばいい。だがそれでは、同時に交戦権を失う魔族は他種に対する抑止力をも失う事となる。だが、新たに同盟を組み直す相手がいればその限りではあるまい? 例えば――あの傍若無人な龍族に勝利した人族を選ぶのも妙案だろう。


破鐘が言い終えると、しばらく沈黙が場を支配した。破鐘が目を伏せて一息をついたところで、ようやく自分が回答する番なのだと思い至った。

我に返ったファアファルは、何を答えるべきかを苦笑しながら思案した。

出来るわけがない。ただの妄言だ、笑い飛ばしてしまえばいい。それでこの話題は片付くのだ。


だが、どういうわけかファアファルにはそれが出来なかった。

あれやこれやと言葉を濁し、目を逸らしながら誤魔化し笑いをしていたファアファルが、ふと破鐘を一瞥した瞬間、その笑みは凍りついた。

周防破鐘という男の曇りなき晴眼に、約束の裏に潜む覚悟を読み取ってしまったから。


思い返せば、あの時ファアファルは一縷の希望を抱いていたのかもしれない。

投げやりな口調で、ほんの気紛れで応じた、その瞬間に。


――ああもう分かったわ、はいはい分かりました、そんな事が出来ようものなら、同盟を組んであげようじゃないの。出来るものならね。

――感謝する。

――目、笑ってないんだけど。

――約束だ。


そう言って、破鐘は拳から小指を立てて差し出してきた。


――何それ。

――指切りという。人族が約束を交わす際の儀式だ。

――口約束という事? 契約書の方がいいのではないの?

――不要だ。これは約束であって契約ではない。武力にせよ法にせよ、強制的に魔族を従わせるのでは無意味なのだよ。あくまで合意のもとでなければね。


思い返せば、彼は逃げ道を用意してくれたのかもしれない。契約ではなく約束とする事で、魔族自らが考え、決断できるだけの余白を残したのかもしれない。

いっそ契約を交わして法的な拘束力を持たせてしまっていれば、こんな風に――


『ファアファルさん! この手を取って、一緒に新しい時代を築きましょうッ!』


虹子が必死に駆けてくる。がむしゃらに、たまにもつれそうになりながら、追い求めてきた夢を、悲願を、その小さな手に掴むために。

ファアファルは約束の事を、一切、他の魔族に話していない。叶えられるはずのない戯言の類を吹聴して、悪戯に反感を買う事もないだろうと思っていた。


だがこの局面に来て、彼女らも虹子の意図に気づいたのだろう。皆、一様に戸惑いの視線を虹子に向けるばかりで、その疾駆を止める者はいなかった。既に、歌誉の参戦で戦意を削がれた魔族も多い。


龍の暴虐に苦しんできたのは人族だけではない。魔族達もまた、公には平等と謳われながらも、その実態は横行する身勝手に悩まされてきた。

ファアファルはドラコベネを一瞥する。武力の頂点から失墜した龍は頽れて、やけに小さく見えた。貫通した胸部からは大量に出血して、傷口を押さえる手も弱々しい。


立ち上がる――が、足が止まる。


地面に縫い付けられたかのように、歩み寄るための一歩が出ない。

苦虫を噛み潰したような表情で、ファアファルは虹子を見る。戦場を見渡す。

多くの血が流れた。失われた命も一つや二つではない。

その戦争が終わろうとしている。

否、終わるのではない。終わらせるのだ。

そしてその終止符を打つのは、他ならぬ自分自身だ。


戦争の終結は、新たな時代の始まりでもある。

時代の転換点。それが――怖い。


本当にいいのか。

いままで散々虐げてきた人族と今更手を取り合って、それが本当に正しいのか。

魔族の繁栄に繋がるのか。

口約束など反故にして、人族の掃討に出てドラコベネを救出して、改めて万全の軍略で人族を殲滅するのが良いのではないのか。


見れば虹子は丸腰だし、ドラコベネと戦っていた戦士はもう動けないでいる。だったら、ファアファルがその気になれば、撤退戦も容易ではないのか。

多くの人の運命が己の手中にある。時代の担い手である事を実感すると、その重さにファアファルは唖然とする。戦慄する。肩を抱く両手は震えて、氷のように冷たい。

視線は足元を向いていて、何かを決断する事の恐怖に耐えきれず、涙がこぼれた。


正しさを探し求めて、だけどそんなものはどこにもなくて、ならいっそ何も変えないでいれば、少なくとも新たに傷つく人はいなくて――


『皆で幸せになるんじゃねーんですかッ!!』

「……ッ!」


弾かれたように顔を上げる。

兄からその役目を踏襲した小さな少女が、その重荷に潰される事なく、全力で足掻いている。その双肩に、いったい何人の運命を背負っているのだろう。


「どうして貴女は、そんなに真っ直ぐでいられるの……?」


とうとう、弱音が疑問というかたちでこぼれてくる。

震えてほとんど言葉の体を成していなかったその疑問に、応える声があった。


「やれやれ、昔から泣き虫なとこは変わんないねえ」


からかうような声と同時に、老いて細く骨ばった手がファアファルの頭を撫でた。背後を振り返らなくても、それが母の声であり手である事はすぐに分かる。

母に泣きついて温もりに包まれたかったが、それだけは堪えた。

差しのべられた手に背を向けるような事だけはしてはならない。魔族代表として、一人の魔女として、それだけは許されなかった。

だいたい、母に触れられた瞬間に滂沱の涙を流してしまって、とても見せられる顔ではなくなってしまった。


娘の気持ちを汲んだか、スクルドはそのまま言葉を続けた。


「優しくて頭の悪いアンタの事だ。どうせ色々と考え過ぎて、何も出来ずにいるんだろう」


返答は嗚咽に混じって言葉にならず、ファアファルは無言で頷いた。


「多角的に物事を考えるのは大事だけどね。だからって見失っちゃあいけないものがある」

「……?」

「自分自身がどうしたいのか。結局のところね、それが一番大事なんだよ」


母の言葉に、ファアファルは息を呑む。ごしごしと涙を拭って、しゃくりあげながらも、深呼吸をして自身を落ち着けようとする。

まだ少し震えていたが、ファアファルは母に疑問を返した。


「でも、それが間違いだったら……?」

「それこそ間違いだよこの馬鹿娘」

「……え?」

「いますべきなのは決断だよ。アンタがしたい事を決める時なんだ。正否を判断するのはいまじゃないだろ。ずっとずっと後の事だ。そんでその判断の時に、あの時の決断は間違ってなかったって言うために、これから頑張ってくんだろうが」


スクルドはからからと笑った。


「もう腹は決まってんだろう? 前から決めてたって顔してんじゃないか。なら何を躊躇う必要があるってんだ。自信持って答えてやりゃいいんだよ」


スクルドは娘の頭に乗せていた手で、腰のあたりを叩いた。

快音が鳴る程の強さで弾かれて、ファアファルの背筋が自然と、ぴしりと伸びる。


「アタシの娘の決断だ――そいつが間違いなもんかよ」


ああ――と、ファアファルは自らを嘆く。

どうしようもない子供だ、と思う。こうして母の言葉に背中を押されなければ、覚悟一つ固められない。そんな自分の未熟さを恥ずかしく思い、同時に、前を向くきっかけをくれた母へ、無上の感謝を捧げる。


深く、一息。


湿気の混じった冷たい空気が体内を巡り、葛藤のために凝っていた熱を外へと押し出していく。動悸が落ち着いてくる。凝り固まっていた全身がしなやかさを取り戻していく。

錫杖を握る手に、力が籠もる。

目尻に溜まっていた涙を拭う。かざした手を降ろす頃には、魔力を宿した緑瞳に、覚悟の熱が滾っていた。


ファアファルは水平に持ち替えた錫杖へ腰かけ、感謝の言葉を詠唱へと変えた。


「ありがとう、お母さんッ!」


魔力によって集められた風が、次の刹那に突風となる。魔法によって浮かび上がった錫杖は風に乗り、ファアファルを再び戦場へと飛び込ませた。


人族代表の手を握り返すために。

全ての因縁に決着をつけ、新たな時代を創るために。


見る間に小さくなっていく娘の雄姿を見送って、スクルドは苦笑した。


「そこでおおきにって言えないとこが、キャラの作り込みの甘さを感じるねえ」


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