第41話 歯ぁ食いしばってきたんだよ

「うぉっ、熱ッ! 何だよこれ!?」


巳継が悲鳴じみた声を上げる。左右の足を交互に浮かせるが、岩盤から覗く炎の熱は少しも緩和しなかった。

ファアファルの足止めにすっかり夢中に――もとい、任務を全うしていたはずが、いつの間にか周囲の様相が一変している。

それこそ、まるでフィルムを切り替えたかのような唐突さで大地は割れた。炎に囲まれたところを見るに、龍族の仕業である事は間違いないだろう。


だが、原因が分かったところで対処のしようがない。炎の流れで揺らめく岩盤上では、満足に立つ事も出来ない。足を滑らせて岩盤の間に落下しようものなら、間もなく焼死体の一丁上がりだ。


「こいつぁ、やべえな……ッ!」


周囲の生徒達も皆、一様に苦戦を強いられ始めている。

足場の確保にもたつく人族が攻勢に転じられないと見るや、銃撃を警戒していた龍魔が攻撃に集中し始めた。人族はその回避にも思考を割かねばならず、余計に手が出せなくなっている。

趨勢は龍魔に傾きつつある。


巳継は大きく舌打ちし、回線を繋いだ。


「おい虹っ子! やべえぞ何とかなんねえのか!」

『分かってます! いま応援を――』

「ああ!? 応援!? ふれ・ふれ・みつぐぅってアホか! 状況考えろッ!」

『ああもう話すのやめていいですか!?』

「んだとテメ――っとッ」


バランスを保つのに苦慮する巳継は、ここで致命的な失敗を犯した。

足元に集中するあまり、うっかりピンク・チャフ――即ちAV再生中のタブレットを落としてしまったのである。


「あ」


と、間抜けな声に見送られて、タブレットは岩盤に角をぶつけて跳ね返り、カラカラと盤上を回りながら、ポチャンと炎の中へと、静かに消えていった。


音もなく深く潜っていき、そしてもう、二度とは浮かんでこない。

男の夢が、炎の中で溶けていく。

その様子を見送りながら思う――ちょっと、否、かなり惜しい事をした。


巳継は惜別の視線をタブレットの落水地点へと注ぐ。短い間だが、ともに戦火を潜り抜けてきた相棒だった。巳継の意志に従順に応え、その威力を存分に発揮してくれた。これで愛着が湧かなければ嘘というものだ。


愛称は抜群だった。何ていうか、自分にとっての神器だったと思う。出会いは唐突で、戸惑ったりもしたけれど、それは間違いなく最高で最強のパートナーだった。

いまでは、その存在なくしていまの自分は有り得なかった――そんなふうにさえ思う。


「今まで、ありがとうよ……」


万感の想いを言葉に代える巳継の目尻には、僅かに光るものが浮かんでいた。


そんな些事に陶酔しているものだからこの馬鹿は、背後に膨れ上がる殺気にも気づかないのだ。


「慄き、贖え、原風景に描かれぬもの……!」

「やべ……っ!」


詠唱を耳にしてから振り返ったのではもう遅い。錫杖を構えた魔女を視界に捉えた瞬間、巳継の全身を貫くように、無数の風刃が迸っていた。圧倒的な力の奔流。強化セラミックスの防具を切り刻みながら、巳継は大きく吹き飛ばされた。


ファアファル・ラオベン。

怒りと羞恥に顔を染めた四愚会の魔女が、完全復活していた。

荒く肩で息をしているのは、羞恥の名残か魔法による消耗か。

恐らく前者だろう。四愚会の魔女にとって、人族を蹴散らす程度の魔法など消耗するには値しない、些細な労だ。


「よ、よくもやってくれはったなあっ。まさかこんな姑息な手段で足止めされるなんて」

「俺もまさか、ここまで楽し――じゃねえ効果的だとは思わなかったぜ」


答えながら、巳継は膝に手を突きながら立ち上がった。

口元に不敵な笑みを浮かべながら、大きく裂けた額から流れる血を拭う。


先の一撃による負傷は深刻だった。

防具は罅割れ、内臓へ波及した衝撃のせいで眩暈と吐き気が凄まじい。全身から血を流している。特に左腕を深く切られたようで、脈打つように出血していた。

巳継は舌打ちしながら裾を破り、器用に右手と口で傷口をきつく縛った。

骨や靭帯の損傷がなさそうな事が不幸中の幸いか。

満身創痍の体である巳継へ、ファアファルは肩をすくめた。


「あんさん、もう戦える身体やおまへんやないどすか。リタイヤした方が身のためどすえ」

「あの程度の攻撃でか? ハンッ、破鐘のクソ眼鏡に殴られた時と比べりゃあ、こんなもん虫刺されだっつの」

「ふぅん。血ぃ足りんくて顔真っ青になっとるけどなあ」

「意外と色白なんだ」

「どうでもええなあ」


軽口を叩く巳継は、しかし全身に冷や汗をかいている。呼吸も乱れている。眼球は小刻みに動き、焦点が合わなくなってきている。

痛みは耐えられるが、血を流し過ぎていた。傷口に縛り付けた裾は赤黒く染まり、既に吸い切れなくなった血液を滴らせていた。

それでも巳継は、弱さを見せない。

なぜなら――


「テメエに主人公の法則を教えてやる……ッ!」

「主人公は傷つく程強くなる。そんなセオリーここで持ち出す気ぃやおまへんよね?」


まさかのファアファルの回答に、巳継は面食らったような表情を見せた。


「お前、良く知ってんな」

「技術提供会のついでに言うて、いくつかアニメっちゅうもんを見せられたんよ」


つまらなそうに、ファアファルは錫杖で肩を叩く。

巳継は感心しながら、再度表情を引き締めた。


「なら話は早え。つまりはそういう事だ。後悔するぜ? 俺を一撃で仕留めなかった――己の愚かさをなッ!」


叫び、大地を強く蹴りだす。不安定な足場にもかかわらず十分な速度を得られたのは、一重に彼の身体能力の高さによるものだ。

一足飛びに距離を詰めながら、腰帯から抜き出した伸縮式警棒で斬りかかった。巳継特製、二百センチ超を誇る大ぶりの警棒が魔女を襲う。

ファアファルはそれを、表情一つ変えずに錫杖で受け止めた。


「後悔する、ねえ?」

「これからたっぷりとなあ!」


鍔迫り合いに持ち込むつもりはない。巳継は更に距離を詰めながら警棒を引き寄せ、中心部を左手で握り込む。流れるように返す刀を繰り出すが、ファアファルは跳ねるように数歩を退いてそれを躱した。


「そもそもあんさん、主人公てツラしてまへんえ?」

「ぅるっせええッ!」


薙刀のように構えた警棒を、今度は鋭く突き出す。

ファアファルがそれを半身に構えて躱すと、左手を軸に、てこの原理で追撃を放つ。が、魔女はそれさえもひらりと身をひねって躱してしまう。

前のめりになる身体を、右足を強く踏み出す事で支える。


攻撃の軌道には血が飛び散り、いくつもの血痕が出来上がっていた。

頭が割れそうに痛い。平衡感覚が曖昧で倒れそうになる。今すぐに胃の中のものをぶちまけたい。眠い。眠ってしまえば楽になるだろう。解放されたい。この不快から。怠さから。痛みから。寒さから。


それでも鼓舞する。巳継は己を叱咤激励する。


一撃を放ち、連撃に繋げ、剣舞へと昇華させる。


何度も、何度も。


血を振り撒こうとも。手足の感覚が失われようとも。


何度も、何度も。何度も何度も何度も。


その一閃が届くまで。その敵を倒すまで。その先に勝利を掴むまで。


なぜなら――


「歯ぁ食いしばってきたんだよ……」


薙刀を繰り出す。


「馬鹿な俺はともかくよ。けど、あいつらは……ッ」


鋭い一閃を。


「ここで人が強くならなきゃよぉ……!」


人の意地を。


「人が勝たなきゃあよぉ……!」


だがそれは――


「嘘ってもんじゃねえか……ッ!!」


不安定な足場に勢いを殺された、稚拙な一撃に過ぎず。

跳躍したファアファルを見上げる。太陽を背に眩しく、その姿は判然としない。そもそもが、彼の視界は霞んでろくに見えていなかったが。

彼女が何かを言った。叫んだかもしれない。上手く聞き取れなかった。


全身を衝撃が襲う。押し潰される。膝を屈する。仰向けに倒れ込む。

焼けるように熱い、否、凍えるように寒い。それさえも分からないまま、ただ分かったのは自分が勝てなかったという事くらいで、やっぱり自分は主人公ではないのかと結論し、それが何より悔しくて、せめて、勝てなかったという事実は敗北と同義などではないのだと、誰かに言ってほしいと願った。


「やれやれ。このままでは犬死だぞ副会長殿」


だから、その声を聞き取れた事は巳継にとって幸運だったし、救いだった。

アシハラ学園屈指の喧嘩屋としての面目を保つための、つまらない男の意地を通すための一言を、彼が放ってくれたのは。


「が、男でありながら、アビス・タンクもなく――四愚会の魔女を相手にここまで善戦するとは、流石は副会長殿と評価しても良いのかもしれんな」


その言葉を最後に、友原巳継は気を失った。

昏倒した巳継を庇うように立ち、少年は代わりを務めるように魔女に対峙する。


「酷い戦況なのだ。最悪ではないが」


淡白な口調に似合わぬ小柄な上背に華奢な身体。表情に焦燥や怒りはなく、冷静さを張りつかせたような鉄面皮で淡々と言葉を紡ぐ。

浮遊していたファアファル・ラオベンは、悠然と、音もなく着地する。


「田路彦はんまで前線に出て来はるっちゅうことは、いよいよ打ち止めどすか?」


巳継と同じ装備に包まれた身体は、戦士と呼ぶにはあまりにも頼りない。

挑戦したところで結果は見えている。

そもそも戦闘のための武装はほとんど備えていない。彼がファアファル・ラオベンを倒しに来たのでない事は、火を見るより明らかだった。


田路彦は腕を組み、周囲をぐるりと見渡す。男女族に別れて交戦権を得た者達が、懸命に戦っている。だが、戦況は大きく傾いていた。

それもこれも、ドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼによる炎脈による功績が大きい。足場を崩された事で満足な戦いが出来ない自分達に対して、龍魔は空から自在に攻撃を放つ。

回避の間に合わない者。回避した先で足を取られ、追撃に見舞われる者。炎脈に落下して重傷を負う者。戦意を失った者。絶望に暮れる者。そんな姿が戦場に満ちている。


敗色濃厚。このままでは、敗戦は時間の問題だろう。

このままでは、の話だが。


それらを観察して尚、田路彦は最強の魔女に言い放つのだ。


「最悪ではないと言ったろう。打ち止めである事は認めざるを得ないが。これから我々は最後の手段に打って出る。手段というよりも――大穴一点賭けといった方が克明か」


ファアファルは怪訝そうな表情で彼を見返していた。


その、少し自嘲的で、しかしまだ、希望を失っていない目をする彼を。


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