第3話「霞の向こうの記憶」6—2(完)

「ちょっと、ティン! どこに行くの!?」

 その質問に返答はなく、ティンは一心にある場所へ向けて駆けている。意外に早い彼女の足になかなか追いつけず、カレンは息を切らせていた。

 サザンストリートを駆けて広大な中央公園を抜ける。そして北区へ出ると、ティンは魔法学園へ向かい始めた。学園に何かあるのだろうか。もしかしたら、シェリーの病に関する物があるのかもしれない。ずっと先を走る彼女を見失わないように、その後を必死に追い続ける。

「はぁ、はぁ……何だか、もの凄く久しぶりに……走った気がするわ」

「い、いや、その通りだと、思うよ……」

 互い大きく肩で息をしながら、学園の昇降口でへたばり込む。カレンもこんな長い距離を、全速力に近い状態で走ったことなんて今までない。軽い酸素欠乏でめまいがする上、少々気分が悪かった。ティンも似たような感じで、息苦しそうだ。

 ある程度落ち着きを取り戻したところで、ティンは立ち上がり、そのまま奥へと歩き出した。

「あ、ちょっと待ってよ。ねぇ、どこに行くの?」

「ついて来て。私の記憶が正しかったら、良い物を見せてあげるわ」

 そう言うなり、ティンは真剣な表情を見せていた。なんというか緊張しているような、不安を感じているような表情。そんな横顔を見て、何気なくカレンは口を開いた。

「こうやって、この廊下を並んで歩くのって、初めてだね」

「……そういえばそうね」

 その言葉にティンは表情を和らげた。確かに、いつもならカレンのすぐ隣でふわふわと飛んでいたのだ、同じ廊下を踏むのはこれが初めてだ。

「それにしても久しぶりだわ。思いっ切り走ったり、こうやってこの廊下を歩いたりするのって」

「どれくらい?」

「はっきり言えないけど、十数年振りよ。そういえば、あのころはよくルフィーとケンカしてたわね」

「え!? ル、ルフィー先生とケンカって……」

 飛び級を経て中等部から高等部へとクラスに上がった際、ルフィーと同じクラスに入ったのだ。年下なのに自分より成績が良いことが気に入らなかったようで、出会った当初から互いにケンカが絶えなかったという。

「そうよ、今のルフィーを見たら信じられないでしょ? 昔はね、結構落ち着かない性格だったのよ。そうね、今のシエルと同じね」

 カレンは苦笑してしまった。シエルの負けず嫌いな性格は、実は母親譲りだったということだ。今は優しくて生徒にも親しまれているルフィーが、昔はシエルの様な性格だったとは、にわかに信じ難い事実だ。

「でも、ルフィーはいいだったわ。……シェリーのことになると、いつも真剣になってた」

 ルフィーとシェリーは幼なじみ同士であり、初等部のころまでは、シェリーも学園に通っていたという。でも、やはり病のせいから彼女は休みがちで、ついには登校できなくなるほどにまで、体調が悪くなってしまった。

「シェリーのためにって個人で工房を構えて、魔法薬を作ろうと必死になって勉強していたわ。今の彼女があるのは、シェリーのおかげってところもあるわね」

「え? も、もしかして、アトリエリストって、ルフィー先生が作ったってこと?」

 そう、彼女はアトリエを構え、様々な研究を重ね、錬金術の資格を取ったのだ。無論、それなりに大変な苦労を強いられたことは言うまでもない。でも彼女は、現に魔法薬を完成させてはいない。

「でもルフィーは、その過程の中で、調合に失敗したのよ。……カレン、あんたは気づいてた?」

「え?」

「ルフィー、目が見えてないのよ」

「えっ!? 目が見えてないの!? ……そ、そんな」

 ルフィーが、病を治す薬ができなかったとしても、症状を和らげる薬のレシピができ上がり、いざ制作に乗り出すが、その過程で失敗してしまい、その時の影響で視力を失ってしまったという。

「でも、先生、いつも目が見えてるように感じるけど……」

「ルフィーは魔法で視力を持っているのよ。でも実際は目に見えてないの。……この教室に入るわよ」

 平然とした口調で、ティンが入り口のドアを開いたのは、現在シエルとルミが使っている高等部の教室だ。カレンも所属の上ではこのクラスの生徒である。でも、カレンにとっては、初めて入る教室だ。一体この教室がどうしたのだろうか。

「ここって確か、私の教室だよ?」

「私の教室でもあるのよ。高等部はここで授業を受けてたの。カレンの先輩ね」

 嬉しそうにそう言うなり、ティンはかつて自分が座っていたのだろう、机に着くと木製の机に頬をつけた。昔のことを思い出すように、ことを紡いでいく。

「変わらないわね、この教室、この机。まぁ、私の身体が変わらないのもあるのかもしれないけど。……ルフィーはその失敗を期に、鎮静薬を作り出したの」

 その鎮静薬のおかげで、シェリーが辛うじて生き延びているのは言うまでもない。しかし、いつ症状が悪化するかは分からないので、それが改善の一歩を踏んでいるとは、決して言えなかった。

 結果、ルフィーはこれ以上、魔力を大量に要する調合はできなくなったという。それ故に、その魔法薬を作ることを断念せざるを得なかった。

「先生の魔法薬は、結局失敗に転んでしまって……私は精霊としてシェリーの元へ行くことになった。……でもね、一つ思い出したのよ。大切なことをね」

 ティンはカレンの手を引いて、教室を後にした。そしてそのまま、再び目的の場所へと向かい出す。

 静まり返る廊下に、二人の足音だけが響き渡る。普段、あれほど活気に満ちた空間が、無人の広場と化せば、少々不気味に感じてしまう。

 そして、その末にたどり着いた場所は、中庭にそびえ立つ、チャイムを知らせる塔だった。遊歩道や花壇、芝生やベンチがある、公園のように整えられた学園の中庭。

 広場の中央に居座るのは、チャイムの塔である。エリス時計塔を小さくした形で、普段は授業の時間を知らせる為に使われている。

 塔には扉がある。その奥には、現在は使われていない調合室があるのだ。それはカレンも知っていたが、使われなくなった理由は分からない。それにこの扉は、魔法で封印がなされている為に、開くことができないとも聞いている。

「チャイムの、塔?」

「そう、この中は調合室として使われてたのよ」

「う、うん、それは知ってるけど、封印されてて入れないんじゃ……」

「ふっふ~ん。私に任せなさいよ」

「え?」

 ティンは意味あり気に笑みを見せてウインクすると、両手を扉にかざした。目を閉じ、静かに呪文をそらんじる。その消え入りそうな声が、緩やかに舞い起こり始めた風に乗って、不思議なくらいに辺りに響き渡る。

 カレンはその場に満ちていく魔力を、肌で感じていた。今までこんな凄い魔力を感じたことはない。そのせいか、鳥肌が立ってしまう。ただただ驚くばかりだ。

「……さて、開いたわよ。あぁ、ちょっとしんどいわね。誰が封印したのかしら」

 この扉に封印を施したのは、今の学園長という話だ。未だかつて誰も解放したことがないという一説があるほど、その封印は強い物のはず。しかし、学園長も簡単にあけられてしまうとは思わなかったろう。

 ――この調合室は、例の魔法薬失敗の件以来、それと入れ代わりに学園長となった当時の教頭が、使用を禁じたという。未だこの中には、開放し切れていない魔力が渦巻いている。あらゆる魔力の影響で、室内での魔法による行動は取れないのだそうだ。

「ど、どうするの?」

「この中に、多分だけど、先生が書き残した書類があるはずなのよ。もしかしたら、魔法薬に関するものがあるはずよ」

 ティンは意気込んで塔の中へと入っていった。それに続いて、カレンも少々不安を感じながら塔へと足を踏み込む。その瞬間、室内に充満する魔力が体に絡みついてきた。身に感じる強烈な魔力に、増々不安を膨らませた。震え上がってしまう。

 シャルロットがカンヅメになってまで研究し続けた魔法薬。それ故、失敗によって放出された魔力は相当のものだったようだ。そこには未だに、当時の緊張感が張り詰めている。

「ねぇ、ティン……この中、何だか凄い魔力を感じるよ?」

「失敗で放出された魔力が残ってるのよ。大丈夫よ、変な影響は受けないから」

 平然と言ってのけるティンに不安を抱きながら、カレンは手身近な書棚を見始める。書棚の数は少ないが、そこに並べられている書物の質はかなり高い物だと分かった。エリス図書館の一般貸し出しには、取り扱われることのない重要な本が置いてある。まるで地下の図書室であるかのようだ。

「ねぇ、どういう本なの?」

「確か焦げ茶色でハードカバーのノートよ。背表紙には何も書かれてはいないわ」

 しかし、該当する書物は何冊もある。一体どれがそうなのか見当もつかない。またもや一冊ずつ見ていくしかないだろう。

「本の中身を、読まなくても分かる魔法ってないのかなぁ」

「そんなのないわよ。というか、今までそんな考えたこともなかったわ。本は読むからいいんじゃないの」

「それは分かるけど、いつもいつも本と睨めっこしてると、それだけで疲れてきちゃうよ」

「まぁ、それは分からないでもないけど」

 何はともあれ、方法がなければ地道に探していくのが的確だろう。

 そこにある本は察して分かった通りに、とても難しい本がずらりと並んでいた。試しに一冊手にして中身を見てみるも、カレンの調合や知識レベルで理解できるものではない。それこそ一流の錬金術師が手元に置く様な代物だ。

 その中に混じって、小綺麗な字でレシピや材料、調合の理論が書き綴られた、ハードカバーのノートもあった。その本の最終ページには、使用期間と使用者の物らしい名が書き記されていた。

『1533 4th~8th  Tin・Fiebelly』

 1533年4月~8月ティン・フィーベリー――ティンの書き記した物ということだ。それにしても、この書き込まれた内容も理解に幾年かかるものか。頭の回りに星が舞いそうなほど、さっぱりだった。まぁ、これではないだろう。ただ、ティンの記憶に信憑性が高くなった。

「それって、私でも読める本なのかな?」

「あ、あぁ、ある意味読めないかも……。まぁ、探していくと分かると思うわ」

 何か曖昧な返事をしながら、ティンはまるで荒らすかのように、書棚から本を取り出しては床に積み上げていた。大切な書物ということを忘れてはいないだろうか。

 これらの本は、実際にシャルロットが使っていた物なのだろう。自分はこの本を読めるようになれるのだろうか……カレンは不意にそんなことを思った。今はまだ覚えることが沢山ある。その過程の中で、これらの本を読めるにようになろうと決心した。

「あっ! ね、ねぇ、もしかして、これかな?」

 書棚の整理をするように本をチェックしていくと、明らかに変わった書物を見つけ出した。早速ティンに書物を見せてみる。彼女もそれを見るなり、真剣な表情を見せて中身を確認していた。

「これよ、これ! やっぱりここにあったのよ。良かった、もうとっくに処分されちゃってるかと思ったわ」

「ねぇ、これにその魔法薬のレシピが書いてあるの?」

「いや、それは分からないけど、それに関する記述があるかもしれないのよ」

「で、でも、読めるかな?」

 見つかったとしても、問題は読めるかどうかだ。本の内容は、ルフィーかティンに解読してもらえばいいのだが、それ以前に問題点がある。

「あ、相変わらず読めない字ね……」

 そう、もはや解読困難なほど、記述された文字が汚いのである。さながら象形文字やら、独特の文化を持った文明の文字のようだ。二人は、手の施しようがない文字に苦笑してしまった。

 とりあえず、本を塔から持ち出し、再び扉に封印を掛けてからそこを後にする(容易に封印が掛けられるティンも凄いが)。

 店へと戻り調合部屋へ入ると、早速本の内容を見てみることにした。

 手書きで記された字は読むに困難だが、さすがシャルロットの弟子であったティンは、何とかそれの読解に成功した。辛うじて読める字を何とか解読していく。

「こ、これって……」

「え? どうしたの?」

 それらの文を一通り読み終えるなり、彼女は信じられないといった様子でそう言を零した。カレンも本を覗き込むが、何分この文字を解読することはできるはずもなかった。

 そんな文字を再びなぞりながら、ティンは徐に口を開く。そこに記されたことは、シェリーの病に関する事柄だった。

「シェリーを蝕む病は、インサルト湖の呪縛が大きく関係している……」

「え? イ、インサルト湖の呪縛?」

 街の南に広がるインサルトの森。そのやや中央に抱かれた湖には、いかなる病をも治してしまう万薬の湧き水が出ているという。しかし、その実物を見た者は今までに居なかった。

 それは、インサルト――帰らずの森などという、異名を持っていることに由来する。

 実際何人もの人間が湧き水を求めて、森に飲み込まれてしまっている。

 しかしそれは知っていても、湖に呪縛が掛けられているとは知らなかった。一体何の為に掛けられた呪縛なのだろうか。

「詳しいことは書いてないけど、シェリーは病気なんかじゃ、なかったんだわ」

「……そ、その湖の呪縛って、何のことなのかな?」

「それは私も分からないわ。……でも、その呪縛っていうのにシェリーがかかってるなら、呪縛を取り除く必要があるわね」

「あ、で、でも、お母さんの飲んでる薬って、ルフィー先生が作ったんだよね? それじゃ、先生なら何か知ってるかもしれないよ?」

「そうね。それに今ごろ、プリースティーの効能も切れてると思うし、早速行くわよ」

 そういうなりティンは本を持って調合部屋を飛び出す。それを追ってカレンも部屋を後にするが、もはや店の経営など気に留めている余裕はないようだ。二人は一目散にアトリエリストへと駆け出していった。

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