モクレンの咲くころに

七時三分

モクレンの咲くころに

引っかけたサンダルに白い花びらが落ち、足を止めて空を仰ぎ見た。

気まぐれにひらりひらりと舞う数枚のずっと向こうには高く青い空がある。

蘇るのは幾つかの記憶の断片だ。


「綺麗だろう」

呼びかけたのは年配の男性だった。すこし薄汚れた白い壁のマンションの近くで。

あのころ私は大学生だった。おもちゃのようなフイルムカメラを持ってよく写真を撮っていた。

さらさらと川の音がする陽の当たらないワンルームマンションに住んでいて、太陽を求めてよく外へ繰り出していた。


もしくは暗闇にうかぶ花。

陶器のようなかたちで街路灯に照らされた白いかたまり。

社会人になった私はしばらく帰りの遅い仕事をしていた。帰り道の足は重く、特に急いで帰らなければならない理由もなかったから、闇に浮かぶ白いものを足を止めぼんやりとながめた。


または黒いパンプスで踏んづけてしまった白い花びら。茶色の土の上は歩きにくく、春の土埃のにおいがした。

着慣れない喪服と真珠のネックレスをしていた。長らく帰っていない田舎での祖母の葬式の最中だった。集まった親戚たちのがやがやした声が離れず、こっそり場を離れたのだった。寺の敷地の一角にその花はあった。


「おかあさーん」

小さな息子が駆け寄ってくる姿を抱きとめようと腕を広げる。顔が自然とほころぶ。

結婚をして子どもを産んでからは一日がとても速い。

毎日くたくたになるのに、全身で愛され求められるというのは重く、幸せだった。

抱きとめた息子のしましまのパーカーについている一枚の白い花びら。


舞い落ちる、白い花びらがみずみずしいことを知っている。いつだか私はそれを手に取って確かめたのだ。

それがいつだったのか、何度だったのかは思い出せない。

子どもが巣立って広くなった家を出て、小さな中古の一軒家を買った。

老後を過ごすにはいいだろう、と夫と話し合ったのだった。

二人の生活はあまりになつかしい。

狭い家はすこし不便で、結婚する前に一緒に棲んだワンルームの部屋を思い起こさせる。

この家の庭にモクレンが咲くとは知らなかったから、初めて花が咲いたとき、驚いて夫に報告した。

「うれしい。白木蓮、好きなの」

知っている、と夫は答えた。

「だからここにした」と彼はつぶやいた。


それから、どれくらいの月日が流れたのだろう。

ひとりになって、家の中は風がよく抜けるようになった。

歳のせいかストーブを焚いてばかりだ。

今の私のともだちは、時折エサをねだりにくる三毛猫くらい。

毎日はただただ静かだ。

本当は外に出るのはおっくうだけれど、落ちてくる花びらを見るためだけにサンダルをつっかける。

ひらひらと舞う、いくつかの記憶たち。


今日私は誰に会えるのかしら。

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モクレンの咲くころに 七時三分 @iani

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