おどる

トガワ ユーコ

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男は黒いマフラーと背中に金の龍が刺繍された黒いスカジャンを身にまとい、黒く染色されたジーパンを履いていた。茶色の巻き毛は肩まで伸びきり、冬の空気を含んでぼさぼさに膨らんでいた。その襟足を抑えるように巻き付けられているマフラーが、彼の口元をも隠している。都会の駅から程近い歩道を歩く彼は、ひどく苛立っているような様子だった。その目つきは殺気をはらんで据わっており、時折携帯電話の通知欄を見ては、なんの知らせも来ていない事を確認して上着のポケットへしまう。電話をポケットの中で持ったまま、先に見える四車線と二車線の交差点へ向かって歩く。男が数歩歩いた所で、その手中にある電話が震えた。彼は二度震えた後も鳴り止まない電話を取り出して、口元のマフラーをずり下げ受話する。

「もしもし?」

地図の看板の前に立ち止まり、電話の相手と話し込む。「決まったのか?」、「どうするんだ、この先。」、「俺たちは続けるだけだ。」…。ひと言ひと言を、相手へ差し向けたトゲを悟られないように、慎重に発しているようだった。彼の周囲には、抱えていた殺気が滲み出ている。

「わかった。…ああ、来月のライブが最後だ。また、来週の練習で会おう。」

左の耳元から電話を下ろし、通話を切る。彼の目には、失望の色がたたえられていた。

「…クソッタレが。」

ダン!…と、男の右手側にあった看板から大きな音がした。彼は正面を向いたまま、小さく呟いたその言葉で抑えられなかった感情を全て右手にのせて、看板を一発殴りつけていた。頭の高さにある拳を看板に押し付けながら、ゆっくりと下ろす。

男の目には、最早ひとつの感情では表せないほどの色が渦巻いていた。後悔、殺気、失望、不安、悔恨。どれもが彼の夢と心を蝕むように、閉塞感の中へ引きずり込む為に手を伸ばす。

「クソッタレ…。」

どうにもならない。

そんな言葉が脳裏をよぎってか、今度は彼自身に言い聞かせるように呟く。しばらく看板の前に立ち尽くしていたが、殴りつけた音により周囲の視線を集めている事に気づいて、ゆるやかに、また歩き出した。


男は交差点にたどり着いたが、ぼんやりと立ち尽くしていた。信号は青を灯しているにも関わらず、男は道路へ踏み出そうとしない。ただただ立っていた。目を閉じて、周囲の喧騒に耳を立てているようだった。背後から男を追い越す女が、不思議そうに彼をちらりと見て、そのまま向こう側へと去っていく。向かい側から来た3〜4人のグループが、訝しげに話題にして彼を追い越して行った。青信号が点滅し始めたところで、男の目が開く。心ここに在らずといった様子か、その目からは感情の色が消えただただ黒く光っていた。両脇で人々が信号待ちの為に立ち止まり出す気配を、彼は漠然と感じていた。


赤信号に切り替わり、信号待ちの車が走り出した瞬間。

男の隣に並んでいた男性が、薄気味悪い笑顔を浮かべて彼の視界の正面に回り込む。

その笑顔が、彼の心を一瞬にしてざらつかせた。頬はひどく痩せこけて、目はぎょろりと見開かれ、口の両端を思い切り左右に引っ張り上げにやりとさせた、笑顔だった。男性と目が合い、ひどい嫌悪感を覚えた男は、反射的に半歩後ろへとのけぞった。

次の瞬間。

男性は交差点の反対側へ向けて走り出した。

けたたましいクラクションが鳴り響く。

1車線目の車は距離があった為か急ブレーキが間に合い、つんざくような音を鳴らしながら止まった。が、二車線目のトラックは、間に合わなかった。ばん、と音がして、男性の身体が空中へ舞い踊った。最期にアクロバティックに踊る為にそうしたのかと思えるような、見事なダンスだった。

あちこちからブレーキを踏み込んだ音が鳴る。がしゃん、と、車同士がぶつかる音がした。


男は一部始終を見ていた。女性の悲鳴があちこちから男の耳に聞こえた。彼の背後にいる男性が「うわっ…」と呟く。

男は目を見開き、口の両端を思い切り左右に引き上げて、にやりと笑っていた。その場の状況には似つかわしい表情だと気付いたのか、右手で口元を隠すように覆った。


男はかの男性を自分の妄想だと思っていた。

仕事と生活、夢とのハザマで、粉になっていく心に耐えられなくなっていた。離脱していく仲間たちと、少しずつ距離を詰めてくる現実が、許せなかった。

青信号を渡ることすら、今の自分には許されていないんじゃないかと思えるぐらいに、彼は自らの人生を肯定する事ができなくなっていた。

そう、例えば。あえて邪道を行くことで、その先に成功があるのを期待して。赤信号という邪道を越えたところに、命が残るという成功があるような。

自らの妄想が、男性を生み出してその挑戦をしているのだと思っていた。

しかし、全くの現実が、今、目の前に広がっていた。彼は自分の視界が、赤いフィルターをかけたように赤く染まっていくような気がしていた。


「…は、はは。」

男の口から笑いが溢れた。視界を染めていく赤が、自身の意識を奪っていくような錯覚へ陥りそうになって、夜の空を見上げる。


ーーーいいや、俺は、「俺」は、そうはならないぞ。


後ろへ仰け反り倒れてしまいそうな身体を、踏ん張って立たせていた。

「ははは。」

彼の内に湧く整理されていない感情が、無味乾燥の笑い声にのった。指で前髪を掻き上げるように、左手の平を額に当てた。

「ははっ、は、ははは。」

口元は歪に引き上げられたまま。男は空を仰いで笑い続けた。


俺は、そこへ行かない。…行けない。

まだ、まだだ。

音を奏で、叫ぶ術を知っている。

この俺の役目は、この心に溜め込んだ哀しさをヒトへと与える事だ。


一連の流れからそう思い知らされた男は、周囲の喧騒が続く中、ただただヒトリで夜空を仰ぎ見ていた。

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