最後の艦のものがたり
米田淳一
第1話 天秤
自分の生きてきたことについて書くというのは、作家にとってほぼ最後の仕事であり、才能の枯渇を意味し、もう負けであることはまちがいない。
私が作家といえるかはともかく、私は、結局、ろくにまともなものも書けもしないのに、一人前に枯渇だけはしたのだ。
そのころ、物語とか、全然面白いと思えなくなってきていた。
そもそも物語るって何?な感じだった。
アニメも小説もドラマも見る気がしない。
空想とか架空とか、もうどうでもいいという感じ。
ひたすら閉じこもりたい。食事もどうでもいい。
生きればどうせ迷惑をかける。どっちみち関係者は少ないほうがいい。
何を作っても駄目だし。役に立たないし、だいいち、少しも美しくない。
所詮はすべて、無駄遣い。
これも多分、結局は根っこは全部嫉妬なんだろう、と自嘲が頭の中で続く。
売れなくてもいいけど、誰かにちょっと喜んでほしかった。でもそれも無理だった。
自分が楽しい、と思ってたことも楽しくなくなった。
そして、ふっと何もなくなると、生きる迷惑と死ぬ迷惑を天秤にかけている。
私がなにかに承認もされるわけもない。
下手だし、感性もないし、売れもしない。読まれもしない。話にもならない。結果も出ない。
せっかく人と機会に恵まれても、ことごとく台無しにしてきたのだ。
だから、それでいいんだ。
もうとっとと終わらせてくれ。ただただ苦痛だ。
そんな2014年の夏の始まりだった。
ぼくは離婚し、かといって再婚することも、そのあてすらもなく、ただ2匹の猫とともに、僅かな勤めと、僅かな手間仕事でなんとか、嫁のいなくなったあとの、コンクリートの洞穴のようなマンションで暮らしていた。
別れたのが2012年。離婚からようやく2年たった。
そのお勤めの時に、突然、今夜はそうめんを食べようと思った。結婚していた頃に嫁の買っていたそうめんが、家にいっぱいあったのを思い出したのだった。
生きていくのも死んでしまうのも、私にとってはただ「どちらが迷惑か」という天秤でしかなかった。
そんな悲しみの中でも、お腹はすく。死にたいのに、つい食べてしまう。そしてつい美味しいものを食べたいと思ってしまう。
それがとても滑稽に思えた。毎日自分を罵る。罵りながら、食べ、トイレにも行く。
一向に前向きに生きる希望はなかったし、気持ちもなかった。
勤めの帰りに寄ったスーパーで1本38円のきゅうりと、10年間の結婚が終わってようやく使い終わった1瓶のタバスコの替えと、お惣菜のかき揚げを買った。
ついでにレトルトカレーを買った。値段を見た。美味しいと思ってしまった「銀座カレー」が大して高くないことに驚き、それ以上にハウスの「カリー屋カレー」が安かったのに驚き、さらにもう値段がわからないほど安い4袋ひとまとめのプライベートブランドのレトルトカレーまであることに驚いた。
いつも実家の母が、そんな私を哀れんで買ってくるカレーの値段を初めて見たのだ。
結局、買った。カレーは辛くないと美味しくない。そしてカレーはあとはご飯があれば食べれる。流動食だし、最低限の食事には一番だった。
なにかまともな料理をする気もなかった。
独身生活もとい離婚生活で、もう生きる気力もないのに料理をつくる気力など残るわけもない。
そして唯一の楽しみの炭酸飲料で、安さにひかれたペットボトルの三ツ矢サイダー150円と、朝の気付けに飲むための紙パックのアイスコーヒーをかごに入れ、レジに行った。仕事で遅刻して迷惑をかける訳にはいかないからだ。十分迷惑をかけてきた。これ以上人様に迷惑をかける訳にはいかない。
レジはこの日曜で混んでいた。店員が2人でレジに入っていた。
そういや、元嫁が結婚生活最後の仕事は、レジ打ちだったな。
一生懸命、レジ打ちの仕事を覚えようと、寝言でまでレジを打っていたな。
いい嫁だった。真面目で、明るくて、快活で。
ただ、私と同じ病の上に、さらに2つの病を背負っていた。
そして、彼女の実家と私の実家は、酷く仲たがいをしていた。実の娘と実の息子の相手を信じても、その親までは信じられないという。そういったところで娘と息子が苦しむだけなのだが、その苦しみには思い至らないらしい。理解不能だが、どっちみち、もともと世の中は理解不能だ。肉親がその理解不能だと気が狂いそうになる程苦しいものだが、今更だからといってどうなるものでもない。
そう思っている時に、レジの女の子が、会計の時に「ポイントカードはありますか」と快活な仕草で、いつものように聞いた。
そのとき、私はどうかしていた。
「あの、ポイントカード、作れます?」
そして、私はそうめんの具などのつつみを片手に、サービスカウンターでスーパーのポイントカードをつくった。
また迷惑の天秤の生きる迷惑の方に、カード1枚分が載った。
なんという冗談だろう。
その結果、揺れた天秤は、戻るために、死ぬ迷惑のほうに錘を要求した。
家に帰ってそうめんをゆでた。思いの外かんたんだった。きゅうりを切り、そうめんを深めのフライパンで茹でる。大きな鍋に沸かしたお湯は実はいらないのだ。元嫁の残していったキッチンタイマで数えて2分ゆで、ざるに開けて氷を混ぜて一気に冷やしながら水洗いした。その途中で2匹の猫にご飯とかつお節の夕食をあげた。
そして濃縮めんつゆをすこし薄め、天ぷらときゅうりのスライスとともに、苦しさを紛らすための作りかけの模型工作に使ったままのちゃぶ台にそうめんのざるを置き、食事にした。
そうめんがやや多かったが、それでも美味しかった。
すこし埃っぽい感じは先入観だろう。小麦の感じのする麺は、近づいてきた季節に合わせ、美味しかった。
美味しいのか。
私が、何かを美味しいなんて思うことが、許されるのだろうか。
その重ねた病の嫁を、たとえ彼女がいろいろあったとしても、別れを切り出した私は許されてはいけない。
糾弾されるべきだ。
私は彼女を捨てたのだ。10年に少し足りない間、結婚しながら、そこで私は、彼女を捨てたのだ。
添い遂げると誓い、幾つもの、人を愛するということの美しく幸せな思い出があったのに、その苦しさのあまり、逃げ帰る彼女。
私が、その帰る旅路のお弁当代として、駅で千円札を渡そうとしながらも、それを断る彼女の手を、私は事実として離したのだ。
彼女を救おうとして、結局彼女を苦しめていたのは、私だった。
私は糾弾されるべきだ。
それが終わることはないのだ。私は彼女の幸せを願っていたし、彼女の他にさらに不幸な女性を作ることもありえなかった。私は40歳、もうすぐ41歳になる。もう未来などない。
あるのかもしれないが、そこに希望などあるはずもない。許されるべきでない罪を自分で糾弾し続け、楽しむこと、喜ぶことにすべて後ろめたさを感じ、それを忘れるために模型工作をしている私にとって、未来などただの苦痛でしかない。かといって自殺もまた迷惑の天秤が崩れるだけだ。
彼女に選択肢がないのも自明だった。私が彼女を実の親と切り離すなんて酷なことは出来ない。それは私も自分の親との縁でよくわかっていた。彼女との交際を、彼女の実家との考えの違いで反対した私の親との言い合いで、私は頭がおかしくなった。なぜ私の親が私を理解してくれないのか、それは言葉にできる「苦しい」なんてものではなかった。
それで私は彼女の実家に駆け落ちし、結婚した。
でも、優しくしてくれた彼女の実家もまた、私と彼女には狭すぎた。
そして戻ってきて、私の実家はなんだかんだいいながら、優しく私たち夫婦を助けてくれた。
それでも、彼女は苦しかったのだろう。
彼女は、帰っていった。
彼女と私の実家の板挟みで、私は苦しかった。多分彼女もそうだったのだろう。彼女もよく彼女の実家との電話で泣いていた。
それで、彼女は自身の実家を選んだ。
私は、頭がねじ切れそうな痛みにのたうちまわった。のたうちまわるとはこのことかと思うほど、フローリングの上で身体を捩ってころがった。
その苦しみから逃れようと、私は、電話で彼女の実家に、離婚の意志を告げた。やはり、頭がまたおかしくなったのだ。
その日のことを、今でもはっきりと覚えている。
だからどうなるわけでもない。私は彼女を愛している。彼女も私を愛してくれていた。
そして、私はそこに戻りたいとすら、まだ少し思っている。
だが、絶対にそんなことができるわけもない。
ただ、二人がそれぞれに苦しいだけだ。
かき揚げそうめんの美味しさに釣り合う程度に、迷惑の天秤に死にたい気持ちの重さが載った。
これで天秤は釣り合った。
これが、続くのだと思うと、絶望しかない。
積極的に生きる気持ちには、なれない。
誰かのために生きることはできても、自分のためだけに生きるなんて、とてもじゃないけどまっぴらだ。
私は罰せられるべきなのだ。滅びるべきなのだ。
ただ、誰かにさらに大きな迷惑をかけないためだけに、私は生きている。
ちなみに、『そう言いつつ、生きたいんじゃないのか』と言われたことがある。
自分のために、ただ無責任に、迷惑をかけても構わないならそれでいいだろう。
しかし、私には、幸福追求権はないし、自分勝手ももうできないのだ。
手首を切ったり首を吊ったり薬を多く飲んだりして、それで中途半端な自殺ごっこをして、迷惑をかけるのはさんざんやってしまった。
だから、もしまた自ら死ぬのであれば、完璧を期さねばならない。
それができないのだから、死なないしかない。
生きているんじゃない。消去法的に死なないというだけだ。
もう、いつ死んでもいいのだ。ただ、それは満足の境地ではなく、諦めの境地で。
そして、この天秤の日々は、残酷にも、いまだに終わらない。
天秤は、まだ、ゆらゆらと揺れ続けている。
最後の艦のものがたり 米田淳一 @yoneden
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