第6話 ピンセットで一文字


 遥かなる山を臨み、静かに吹く風が似合う、池澤夏樹氏。

 敬愛している作家の一人である。


 ご自身の小説だけではなく、詩、書評、翻訳など、活動は多岐に渡る。

 戦争の反対や、日本国憲法の新訳を説いた堅い社会派のイメージもある。

 一方「星の王子様」の新訳であったり、フランスのフリーダイバー、ジャック・マイヨールや、ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスとの交流など、常に目が離せない。


 近年で最も注目すべきは、池澤氏個人編集の河出書房新社『世界文学全集』全30巻であろうか。そして現在は日本文学全集に。選ばれた作品、訳者共に、一生かけて読んでみたい気持ちにさせられる凄い仕事。


 私にとっては、理系の叙情派、という印象。

 物の見方・捉え方がいつも物理学者のようなのに、表現がなんともやわらかい雰囲気に満ちている。



 ピンセットで、一文字、一文字とっておきたいような。


 とある作家が、こう語っていたのを見かけたのが、彼の作品に触れるきっかけだった。

 同業者にそんな台詞を言わせる作家とは、何者だろう。

 その一冊が「タマリンドの木」だった。


 セールス・エンジニアの野山という男と、タイの難民キャンプのボランティアをしている修子という女が出逢う。

 一緒になりたいと願った時に障害になったのが、二人の仕事だった。女の夢の方が確固たるものだった時、男はどんな結論を出すのだろう。


 男の夢についていく。一人の夢にもう一人が付随する。まるで当たり前のように。そんな図式の小説を幾つ読んだだろう。

 或いはお互いの仕事を尊重し合って、または選択の余地なく、別れを選ぶ。


 どんな結末かは語らないけど、この小説は胸にすっと落ちた。


 野山が休日に仲間とやっているのが「風力発電」。飛行機ほどロマンではなく、船ほど大袈裟じゃなく。でも、男ならでは、エンジニアならではの風力発電。風を利用し、風車を動かし、エネルギーを起こす。


 このシーンで修子は、野山だけをずっと目で追っている。

 短い逢瀬の中で一緒にどこかへ旅するよりも、男の日常を見つめたいという彼女の気持ちは、不思議とわかる。


 何かに熱中する男の姿をずっと、しかも自然に見ていられる時間。

 見つめ合いたいけれど、横から見つめる視線も、それに負けない力を持つ。


 修子は風のような女性である。自立していて自由。

 彼女は慈善の気持ちよりも、自分にとって心地よい場所として、ボランティアの地を選んだのだ。


 タイトルのタマリンドってどんな木?日本で見たことがないけれど、東南アジアではポピュラーなのかな。



 池澤氏の文章には、気品がある。

 彼の作品に対峙する時は、こんな私でも襟を正す。

 まだまだ、たくさんすきな作品があるので、次の機会にまた語りたい。


 自分にとって大事な十冊に入る、「スティル・ライフ」

 エルンスト・ハースの写真に手紙文を付けた、「きみが住む星」

 漂着した無人島での緊迫した生活を描く、「夏の朝の成層圏」

 そして、短編集「マリコ・マリキータ」の一篇、ずっと気になっている「帰ってきた男」


 後で知ったところ、池澤さんは有名な小説家、福永武彦氏の息子さんだった。

 父が小説家。そのため、なかなか小説に踏み出せなかったらしい。


 心にたくさん溜めていた言葉たちは、とても美しかった。






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