蔵島翠のX-ファイル
初壱 始
第1話 飛蝗女
序章 飛蝗女
幽霊を信じるか否か。
一つだけ魔法が使えるとしたら何を使うか。
悪魔や妖怪の類のホラー話は好きか。
人生で皆恐らく一度は聞いたことのあるフレーズだ。
そして大概の者が成長するにつれこういった話を馬鹿馬鹿しいと思うようになる。 神田玲子もその内の一人だった。
だが彼女は知ってしまった。この世界には魔法や超能力といった普通では考えられないような特別な力が存在することを。
夜風の冷たい時葉町の路地で神田玲子は自分の標的がアパートから出てくるのを少し離れた電信柱に隠れながらただじっと待った。
(……やっと出てきた)
玲子が張り込みを開始してから約一時間が経過しようとした時、アパート二階の部屋の玄関口が開き、中からTシャツに下はジャージとスリッパを履いた風呂上りスタイルの女性が財布を片手に部屋から出てくる。
「江角……鏡花……」
玲子は怒りを抑えきれずに標的の名前をぼそりと口ずさむ。
自分の気持ちを、悲しみも怒りも知らずに平気な顔をしてただ普通に生きる江角の姿を見て玲子は自然と拳を強く握っていた。
あの女だけは許せない。
玲子の思考を怒りが支配し、着用していた黒いコートのポケットから飛蝗の彫刻が施された透明の小瓶を取り出す。
「この薬で……いや、この『力』で! 私の彼氏を、幸せを奪ったあの女に報いを!」
月を見えなくしていた雲が晴れ、月光が玲子の持つ小瓶の中身を照らす。
透明な小瓶の中では血のように紅い液体が怪しく揺らめいていた。
玲子は目を閉じて、今までの出来事をもう一度思い出す。
神田玲子と堂本浩次は高校3年生の冬に恋人同士になった。
辛い受験勉強を乗り越え、同じ大学に入り、そして玲子は卒業後は結婚しようとまで浩次に言われていた。
だから、大学卒業の一ヶ月前に浩次に食事に誘われた玲子は当然のように浩次からのプロポーズを期待していた。
しかし浩次の口から告げられたのは「自分と別れて欲しい」という残酷な台詞だった。 理由は他に好きな女が出来たからだと浩次は言った。
「……誰なの?」
安定しない視線を浩次に向けながら、玲子は尋ねた。
浩次はしばらくバツの悪そうな顔をして沈黙したが、最後には観念して玲子に相手の名前を白状した。
「……嘘」
「じゃあ、話すことはこれで全部話したから」
めんどくさそうに言い放った浩次はそのまま席を立って店を出た。
玲子は頭の整理がつかず、落ち着くためにテーブルに置かれたグラスを手にとって水を一杯口にする。
喉を潤す事はできたが、代わりに玲子の目からは悲しみが止め処なく溢れ出た。
「……鏡花」
最後に浩次が口にしたのは玲子の大学時代の一番の親友の名前だった。
「なんで……どうして、鏡花なの!?」
テーブルに突っ伏し、涙が枯れるまで泣き、悲しみをごまかす為に酒を飲めるだけ飲んで玲子も店を出た。
タクシーで帰ろうかとも考えたが、風に当たりたい気持ちの方がが勝ったので玲子は徒歩で家まで変えることにした。
アルコールにはそこまで強くはない玲子もこの日はなぜか頭が酔いきれずに体だけがふらついた。
不安定な足取りで帰路を進む玲子は、途中の橋の上で違和感を覚える。
橋の周りではまだ歩行者や車が所狭しと横行しているのに対し、この橋の上には自分を除いて車や歩行者の姿が見当たらないのだ。
「そこの目の真っ赤なお嬢さん。よければどうですか?」
「ひっ!?」
辺りを呆然と見回していた玲子は突然の背後からの声に悲鳴をあげる。
「ああ、申し訳無い。驚かせてしまいましたね」
振り向くと黒いローブをきた長髪の若い男が赤い布が敷かれたテーブルの上に座っていた。
「いっ、いつからいたの?」
「これはおかしなことをお聞きになる。ずっとここにいましたよ」
男は玲子を見てにっこりと笑う。
「それでお嬢さん。よければいかかがです?」
そう言って男はテーブルの上を指差す。
赤い布が敷かれた卓上には玲子から見て右半分には赤い液体の入った透明の小瓶、左半分には青い液体の入った小瓶が等間隔に置かれていた。
男の怪しげな風貌や小瓶の雰囲気から察するに恐らく占い師か何かだろうと玲子は感づく。
「……悪いけど今は占いをしてもらう気分じゃないわ」
小瓶を使った占いとはどんなものか少し興味があった玲子だが、先刻浩次にふられた事もあり、今は早く家に帰って休みたいという気持ちが勝った。
「はて、占い? ふふふははっ、なかなか面白い勘違いをする方だ」
男は玲子を馬鹿にしたように笑ってからテーブルに並んだ小瓶を一つとって玲子に差し出す。
「私はただの提供者であり観察者です。よければあなたにこれを受け取って欲しい」
男が差し出したのは赤い液体が入った小瓶で、透明なガラスで出来た瓶には飛蝗の彫刻が彫られていた。
「観察者?」
男の事を不審に思いつつも、玲子はまるで引き寄せられるかのように小瓶を受け取っていた。
「見たところあなたは今深く傷ついてらっしゃる。もしもあなたを傷つけた相手を許せないと感じるのなら、その薬をお使いなさい」
男が発した言葉を聞いて玲子は驚愕して自分が握っている小瓶を凝視する。
「まさかこれ……」
「安心してください。毒なんて陳腐なものではありませんし、それに――」
真っ直ぐに玲子を指差して男は言った。
「それを飲むのはあなたです」
「私が……これを……?」
「ええ、そうです。飲めば全てがわかります。飲めば全てが叶います」
男に言われるがまま、玲子は自分の手元に視線を落として小瓶の蓋を開ける。
こんな妖しげで危険そうな薬を飲むだけで一体何が叶うというのだろうと玲子は疑念を抱いたが、この男の言葉には妙な迫力があり、嘘を言っているようにはどうしても思えなかった。
「本当にどんなことも叶うのね?」
「叶いますとも」
「……私をこんな目にあわせた浩次への復讐も?」
「叶いますとも。さぁお嬢さん、勇気をだして一口」
そう言って男は玲子に微笑みかける。
玲子は目を閉じて小瓶の中の紅い液体を少しだけ口に含み、飲み込んだ。
「……飲んだわよ」
目を閉じたまま言った玲子の言葉に返事は返ってこない。
ゆっくりと玲子が目を開くと先程まで目の前にいた長髪の男の姿は忽然と消えていた。「あれ? どこいったのよ」
と、玲子が辺りを見回そうと首を右にふった瞬間だった。
「ぅあッ! ぐぅうぁッ!」
体は異常に熱くなり、全身から汗が滝のように流れ落ち、締め付けるような痛みが玲子の両足を襲った。
(……嘘!? 何……これ……)
自分の身に何が起きているのかすら解らず、玲子は内側から引き裂かれるような両足の痛みに耐え切れずアスファルトに倒れて気絶した。
――次の日。
「では次のニュースです」
「う……」
玲子は自室のテレビから流れるキャスターの声で目を覚ました。
「……あれぇ、私?」
寝ぼけ眼をこすりながら昨日の夜のことを思い出そうとする玲子。
確かに自分は昨日怪しげな男に渡された薬を飲んで道端に倒れたはずだったが、その自分が何故いま自室にいるのだろうと頭を抱えた。
(夢だったのかしら?)
「昨夜十一時ごろ●●区▲町にあるマンションの駐車場で男性の遺体が発見されました」
「▲町? 何よ物騒ね」
自分が住んでいる時葉町のすぐ隣にある町名をニュースが告げたため、玲子はテレビに目を向けた。
「被害者は都内に住む堂本浩次さん22歳で、死因はマンションからの落下であると見られ警察は事故と事件、両方の面で捜査をしている模様です」
「……え?」
キャスターが告げた被害者の名前が玲子の鼓動を速くする。
「浩……次……?」
急ぎ、バッグから携帯を取り出すと、友人の江角鏡花から何件も着信が入っていた。
10件を越す着信履歴を見て玲子は確信した。
ニュースに出ていたのは間違いなく、昨日自分が会った堂本浩次なのだと。
「浩次が死んだ……」
玲子はテーブルに置かれた小瓶に視線を移す。
昨日、妖しげな男から飲めば自分の望みが叶うと言われて渡された小瓶。
「まさか、この変な薬のせい!?」
「また駐車場の防犯カメラには浩次さんが一度マンション内に入っている映像が録画されており――」
テーブルの小瓶はただ静かに外から入ってくる太陽の光を玲子の顔に反射させるだけだった。
数時間後、玲子の自宅に綺麗なスーツを着たいかにも新人といった男と年季の入ったコートをきたいかにもベテランといった男の刑事が二人やってきて昨夜の事情聴取をされたが玲子はただ彼とレストランで別れたあとはまっすぐ自宅に帰ったと証言した。
他にも刑事は浩次についての人間関係のトラブルや、何か悩みを抱えていなかったかなどの質問をしたが玲子はすべて解らないと答える。
浩次が生前、最後に会った人物が玲子なだけに有力な証言を何も得られなかった刑事二人は苦い表情を滲ませていたが、しばらくして「ご協力ありがとうございました」と玲子に会釈して部屋から出て行った。
「…………ふふ」
自分の部屋に一人残された玲子は不思議な笑みをこぼす。
先程の事情聴取の中で一つ、新人っぽい刑事は妙なことを玲子に話した。
浩次の住んでいるマンションは4階立てなのだが、屋上から飛び降りたとしても死体の損傷が激しすぎるというものだった。死因は落下の衝撃によるショック死で間違いないらしいがもっと高いところから落ちないとあんな酷い死体にはならないと新人刑事は玲子に言った。
一般人である自分にそんなに情報をぺらぺら喋っても良いのかと玲子が不思議に思った時にはベテラン刑事が新人の後頭部を平手で強く叩いていた。
浩次は高い所から落ちた……高い所から。
そう言われた時、玲子はなぜか頭の中で後ろ足を思い切り伸ばして跳躍するバッタをイメージしてしまう。
昨夜怪しい男から飛蝗の彫刻の入った小瓶を貰い、中の薬を飲んだ後に浩次が死んだ。
その後の記憶がないため直接玲子が手を下したかどうかは解らないが、昨日の今日でこんな事件が起こったのだ。
玲子は自分が事件と無関係だとどうしても思えなかった。
無関係どころか自分のせいで、もしくは自分自身の手で浩次を殺してしまったのではないかとすら玲子は感じていた。
「ふっ、ふふ、うふふ」
だというのに不思議だった。
「アハッ! アハハハハッ! アハハハハハハッ!」
何故自分がこんなに幸福感で満たされているのか玲子にはわからなかったが、大きく開かれた口からは確かにどす黒い感情の混じった高笑いがあふれ出していた。
「ふふふふ……ふぅ。凄いわ、本当に何でも叶うのね」
まるでテーブルの上の小瓶に話しかけるように言って玲子は立ち上がる。
「ねぇお薬さん。私もう一つお願いがあるんだけど叶えてくれるかしら」
物言わぬ小瓶を手にとって、邪悪な笑みを浮かべる玲子。
「私の浩次を奪った鏡花に復讐するわ。だから今夜、あなたの力を貸してね」
浩次はただ好きな相手は鏡花だと言っただけで実際に浩次と鏡花が玲子に隠れて交際していたかどうかは定かではないが、今の玲子にとっては浩次が浮気していようといまいとどちらでもよかった。
鏡花さえいなければ自分の幸せは壊れることは無かった。
逆恨みのようなこの気持ちが玲子の心を支配していた。
「待ってなさい鏡花」
クローゼットから黒いコートを取り出して着用し、玲子は鏡花の家へと向かった。
――それから数時間後。
頭の中で今までの出来事の整理を終え、再び瞳を開く玲子。
「江角鏡花……!」
眼前には自分が復讐を誓った相手がアパートの二階から階段を降りて買い物に出かけようとしていた。
浩次が死んでいるというのに平然と日常を送っているこの女に報いを与えるべく玲子は手に持っていた飛蝗の小瓶の栓を抜く。
「あたしだって……苦しい思いをしたのだから! 復讐くらいしたって許されるわっ!」 まるで自分に言い聞かせるように言って小瓶を口に近づける玲子。
「やめろっ!」
突然の背後からの声に小瓶を口から話して玲子は素早く振り返る。
「それを使うのはやめるんだ」
気配もなく現れたのはフードを被り、市販されている風邪予防のマスクを着用した赤いパーカーに白のラインが入った黒のジャージズボンとスニーカーを履いた姿の黒髪の少年だった。
「……誰?」
玲子は恐る恐るパーカーの少年に尋ねる。
「俺はあんたの持ってる〝それ〟を回収しにきただけだ。おとなしく渡してくれるなら危害は加えない」
パーカーの少年はよこせと言わんばかりに開いた手を玲子の前に突き出す。
少年の言うそれとは明らかに今玲子が持っている小瓶の事を差している。
玲子は差し出された手を跳ね除け、二歩後ずさって少年との間合いとる。
「……拒否か」
少年は残念そうな声で言った。
「当たり前でしょ。これは私の物よ! これさえあれば――」
「自分の願いが何でも叶うとでも思ってんのか?」
少年は玲子の言葉を遮って睨みつける。
玲子も負けじと睨み返す。
「叶うわっ! 現に浩次は私の前からいなくなってくれた!」 「あんたは自分の好きな人を本気でこの世から消したいと思ったのか? それがあんたの言う願いだったのか?」
「うるさいわねっ! 私と初対面のあんたなんかに何が解るのよ!」
「さっきまであのアパートにいた女の人がお前の狙ってた相手か? 彼女がお前に何をしたっていうんだよ!?」
「浩次を奪ったわ! 浩次が鏡花と交際を始めていたかどうかは解らないわ。でも、どちらにしろあの女は私の愛する人の心を奪って……私を傷つけた!」
「自分勝手な理屈だとは思わないのか?」
「うるさい! 何なのよあんたは……うるさいのよぉ!!」
少年の言葉は全て的を射ていた。
本当は浩次を消すのではなく誰よりも傍で一緒に生きていきたかった。
浩次が鏡花を好きになったのも、自分の魅力が足りなかっただけで玲子が鏡花を逆恨みしているだけだということも全て頭では理解していたのだ。
それでも止まることが出来なかった。
自分一人が不幸になる事がどうしても許せなかったのだ。
だからこそ玲子は願った。
飛蝗の彫刻が施された小瓶に、自分を悲しませた者へ復讐したいと。
その時玲子は気付く。
標的の鏡花がいつの間にか視界から消えている事に。
少年との会話に集中してしまったせいで見失ってしまったのだ。
玲子は一層少年への怒りを募らせる。
「もう一度言う。こんなことはやめるんだ……小瓶をよこせ」
「私のこと何も知らないくせに……偉そうなことばかり言わないでよ!」
そう叫んで玲子は再び小瓶に口を付ける。
「止せっ!」
「願いを叶えるためなら私は、悪魔にだってなるわ!!」
ゴクリとただ一口。
玲子は小瓶に入っていた液体を飲み込んだ。
前回と同じく、異変はすぐにやってきた。
「……うぁ」
たった一口。それだけで玲子の体は内臓が溶かされていくような熱と激痛に襲われた。
「ギャアアアアアアアッ!」
激痛の中玲子は忘れていた昨夜の思い出す。
確かに自分の手で浩次を殺したことも。
マンションから落としたのではなく〝変身した〟自分が高く跳び上がり、掴んでいた浩次の手を離し始末したやり方も。
玲子が悲鳴を一つあげるたび、玲子の額から二本の触覚が徐々に突き出し、全身の皮膚が徐々に黄緑色に変色していき、両足は変形して膝の関節が逆に曲がった。
瞳の色も緑に光り、完全に人間の姿を失ってから周辺に響き渡る叫び声が止む。
「まるでバッタだな」
フードの男がぼそりと呟く。
それ程に今の玲子の姿を人間と呼ぶにはあまりにも化け物じみていた。
「私は私が幸せになるためなら何だってやるわよ! 目障りな奴は皆殺してやる!」
「……解った、もう説得はしない」
人間とも昆虫とも区別のつかない異形の怪人と化した玲子を少年は睨みつける。その堂
々とした少年の姿に玲子は違和感を覚える。
この少年は自分が怖くないのだろうか?
昨夜この姿で浩次の前に現れ、襲撃した時はただただ周りに恐怖の悲鳴が響いていた。 しかしこの少年は悲鳴をあげるどころかただの一歩も下がらない。
人間の形を捨て、パワーもスピードも何倍にも強くなり速くなったというのに玲子は何故この少年と対峙している自分の額から冷や汗が出るのか解らなかった。
「そのかわり力ずくでもアンタを人間に戻すよ」
そう言って少年は自分の着用している予防用マスクに手をかける。
「面白いわね……やってみなさいよぉおおおお!」
激昂した玲子が逆関節になった足で思い切り地面を蹴り、人間の力の範疇を超えた速度で突進しパーカーの少年の腹を思い切り蹴り飛ばす。
玲子の蹴りをもろに喰らった少年は数メートル吹き飛ばされてアスファルトに無様に転がった。
「力ずくですって!? 笑わせるんじゃあないわよ!」
もう一度地を蹴って突進、今度は蹲る少年の横腹をキックする玲子。
無防備に攻撃を受けた少年はまたしても吹き飛ばされる。
「まだ終わりじゃないわよ!」
叫んだ玲子がバッタの足で大きく跳躍し、大の字で倒れている少年目掛けて降下の勢いと体重を乗せた蹴りを放つ。
玲子の足に、肋骨と右肺が潰れた感触が伝わる。
「がっ……あ、がはっ……」
苦しみのうめき声をあげ、吐血するフードの少年。
「はっ、何だ大した事ないじゃない」
変形した足で少年の胸を踏みつけたまま、馬鹿にしたように倒れた少年を見下した。
「今の私の体にはね、鈍器も! 刃物も! 拳銃だって効かないのよ。あんたみたいな餓鬼に私が止められるわけないじゃない!」
勝ち誇ったように叫ぶが、少年は鼻で笑って返す。
「自分が傷つくのは許せないくせに……かはっ、人を傷つけるのは平気で出来るんだな」「……何よ。まだ元気じゃない」
とどめを刺すため、少年の腕を掴んで垂直に高くジャンプする玲子。
人一人の重さが加わっているにも関わらず、高度はどんどん増していき、あっという間にビルの7階くらいの高さまで到達してから上昇は止まる。
「どう? いい眺めでしょう。浩次もこの高さから落ちて死んだのよ」
乾いた笑い声をあげ、無慈悲に、残酷に、玲子は少年腕のを掴んだまま一緒に地面に向かって降下を始める。
「自分に関係ないことに首を突っ込むからこうなるのよ正義の味方君!」
徐々に増す落下速度に少年は顔を引きつらせる。
「死ねぇえええええええっ!!」
空中で玲子に両腕を押さえつけられた少年はなす術もなく背中から地面に激突し、あまりの衝撃にアスファルトが陥没してしまった。
「……ごぼっ……!?」
玲子は不思議だった。
一方的な戦闘で自分が相手をしていた少年に今、トドメを刺したというのに何故自分の口から真っ赤な血が溢れ、腹部に激痛がはしっているのか。
「……そっちから体を固定してくれて助かったよ。捕まえる手間が省けた」
「何ですって……!?」
先程までふら付いていた少年がけろりとした表情で言った台詞に玲子は驚愕する。
20メートル以上の高さから落ちて、全身の骨が粉砕するはずの少年は再起不能どころか今まで玲子が与えていたダメージや細かい切り傷に至るまでが消えていた。
口から血を垂らしながら視線を痛みの止まない腹部に向けると、少年の膝が自分の腹部を貫いているのが見えた。
「落下の衝撃がそのまま俺の膝にのったからな。痛かっただろ」
もはや力のこもっていない玲子の手を振りほどき、ゆっくりと立ち上がる少年。
「何なのよ……何なのよあんたっ!!」
得体の知れない少年への不安感、そしてこの少年に近づいてはまずいという生き物としての生存本能が反射的に体を動かした。
玲子は力を振り絞って地を蹴り、宙で体を捻って踵落しを繰り出す。
大きな動作での攻撃は威力は増すが、その分相手には避けられやすいというデメリットもある。
だが超人的な脚力を手に入れた今ならば初撃を外したとしてもすぐに地を蹴り相手との間合いを開く事が出来ると玲子は考えた。
咄嗟の動きにしては玲子は正しい判断をしたはずだった。
「おいおいせっかちだ……な!」
しかし、少年は防御することも回避することもせず、ただ握り締めた右拳の甲で降りかかる逆関節になった玲子の足先を裏拳で真横にいなした。
ただいなされただけの右足はまるで木の枝を折るかのように軽く、そして生々しい音をたてて膝から下の部分が折れ曲がる。
「ギィエエエエエエッ!!」
苦悶の叫びを上げる玲子は少年の得体の知れない怪力に驚愕するも激痛に耐えながら左足を踏ん張って転倒せずにすんだ。
「あんたに一つだけ謝らなきゃいけないな」
装着していた予防用マスクを右手で外すと少年はようやく露になった口の端をつり上げる。
にやりと笑った少年の口からは、人間にしては長く、野生的に尖りすぎた歯というよりも『牙』と言った方がしっくりとくるものが見えた。
「多分だけど……鈍器や、刃物や、拳銃より痛いぜ」
少年の瞳が燃え上がるように紅く光り、固く握った右拳が炎に包まれる。
大きく踏み込んで放たれた燃える右拳を満身創痍の玲子は避けることも出来ずにまともに胸に受け、自身を襲った痛みに耐え切れずに意識を失った。
気絶する途中、少年が自分の頬に付いた玲子の血を舐めて「こいつは脚力強化か」と言ったのがかすかに聞こえた。
「さて……仕上げだ」
少年は完全に気を失った玲子の上体を起こすと牙の生えた口で思い切り玲子の首筋に噛み付く。
刺さった二本の牙から玲子の血液が少年の体内へ流れ込む。
血液が吸い取られるにつれ、徐々に怪物と化した玲子の体が人間の姿へと戻っていった。
10秒ほど血を吸って少年は玲子の首から牙を引き抜き玲子の体をそっと降ろす。
少年が満腹そうに腹をさすった時だった。
「誰だ!」
背後からの気配を感じ少年が振り向く。
突如路地の曲がり角から一人の男が現れ笑顔でこちらを見つめながら言った。
「素晴らしい! あなたの吸血鬼の力はやはり素晴らしいですね」
「お前は……」
出てきたのは玲子にバッタの彫刻が施された小瓶を渡した黒いローブを着た長髪の男だった。
「何のようだ?」
厳しい口調で少年が尋ねる。
「今日は忠告に来たんですよ。私の邪魔を続ける吸血鬼の血を継ぐ少年にね」
「忠告?」
「私はこれからもこの街で異能者を増やし続けます。いずれあなたを殺す強力な能力者が現れる前に手を引いた方がいいですよ」
物騒な台詞を静かな口調で言い放つとローブを着た長髪の男は再び路地の影に消えた。
「おい待てっ!」
少年はすぐに駆け出し男の後を追って路地を曲がるがそこにはもう長髪の男の気配すら消えていた。
その場に立ち尽くし、悔しそうに牙の生えた口で歯噛みしながら少年は自分の右拳を固く握り締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます