狭い部屋

言無人夢

1

 気持ちが悪いなと思った。

 僕は床に這いつくばる。靴を脱ぐ間もなく。その場に胃の中身を吐き散らす。歪む。涙混じりの視界。吐物が出来損なった胎児のように泡を吹いて色取り取り。嘔吐に慣れてしまえばそんなことを思う余裕さえもある。僕はなるたけ他の何かを目に映さないように立ち上がる。まるでサルトル。

 ゴミ袋と雑巾で床を処理する。鞄を定位置に置く。眩む気だるい思考でも生きるために必要なことは僕の手で行われなければいけない。僕はこの廊下を玄関を清潔に保ち、自身の吐き気の原因を取り除かなければならない。

 僕には人より劣る特性がある。世間的に見れば大したことはないのだろうけど、僕に言わせれば神経質なんて不治の病とでも呼ばれるべきだと思う。あるべきものがあるべき場所にないと許せないし、ルールのわからない物事は見るだに不愉快になる。そして今僕が吐いてしまったのもきっとその類い。

 しかしここは僕の部屋だ。功利主義の感性のない人間が設計した駅の昇降口とは違う。僕の完璧。理想。

 見渡して、何がズレているのかを探した。

 あぁ、なるほど。


 部屋が2センチ縮んでる。


 そんなのありかよ。


   ※


「すいません、話がよくわからないのですが」

「ですから部屋が縮んでいるんです」

 僕は管理会社に電話した。

「どうしてですか?」

「わからないんですけど、縮んでるんです」

「2センチ?」

「そう言いましたよね?」

「気のせいでは?」

「だからメジャーで測ったんですよ」

「どうして急に測ろうと思いなさったんですか?」

「縮んだ気がしたからです」

「2センチ?」

「言いましたよね?」

「………」

 うんざりしたような沈黙が返ってきた。

「嘘じゃないですよ?」

「わかってますよ」

 まったく信じていないような声音。あぁ、これだ。何度も聞かされた。

 どうしてそんな細かいことを気にするんだ?あてつけかよ。不満があるならはっきり言えよ、言いがかりじゃなくてさぁ。気持ち悪い。みみっちい。

「仕方ないだろ、気になるんだから」

「………」

「少し傾いてるだけで気になるし気持ち悪いしその傾いてるのを少し直すだけで僕の気持ち悪いのが直るってんなら直してもらおうと思うじゃん大した労力でもないのに惜しみやがって君らにとって僕の価値なんてそんなもんなんでしょみんな喉に何か引っかかってたら咳するでしょたった数ミリの痰が絡んだだけで大げさに咳払いしないと気がすまなくてムズムズして一日中気持ち悪くて仕方ないでしょ同じだよ剥がれかけた瘡蓋とか眼球の奥に逃げて取れなくなったコンタクトレンズとかあるべきものがあるべきところにないって気分悪いでしょ死にたくなるでしょ直角に作られた壁にかかったカレンダーが傾いてたら惨めでしょ毎日そんなものに顔合わせてこれからも生きていかなきゃいけないって考えるくらいならいっそ完璧に水平になるまで直すでしょ僕がそちらの部屋を契約したの何故かってこの部屋が一ミリの狂いもなく立方体だったからだよ入居時に測ったんだからでも今は直方体なんだよ不完全なんだよ許せないんだよ」

 電話はとっくに切れていた。

 管理会社の男が再びかけ直してくることはなかった。


   ※


 壁を押してみた。当たり前だけど直るわけがない。

 2センチ。たった2センチのズレが僕の精神をギリギリと圧迫する。でも外はもっと汚い。この部屋は僕がこの狂った世界で生きていくのに唯一安堵でき、神経を休める場所だったのに。それがこんな馬鹿げた現象で歪まされてしまうなんて。どうして僕だけがこんなに気持ちの悪い思いをしなくちゃいけないんだろう。でも僕は生きないといけない。生きるために気持ち悪さを出来る限り抑えないといけない。

 でも生きていたところで何になるんだろう。こんなに見るだに不愉快になる不均一な世界で。空き地の工事の音が聴こえる。きっとまた非対称な自己満足の建築物が僕の視界に増えるんだ。そうやってきのこみたいに地面に突起物を増やして何が楽しいんだろう。彼らの頭は真田虫か何かに寄生されているのかもしれない。だって自然な脳であんな不自然なものが作れるはずがない。そして僕だけが取り残されて世界は歪んでいくんだ。

 いっそのこと。この部屋だけで良かった。僕は自分だけの作った完璧な世界で少しの狂いもない均整のとれた空間で生きていたかった。

 でもダメだ。この忌々しい僕の身体。これもぶよぶよとした皮に包まれてすぐに形を変えるし、何より動く。心臓は片方にしかないし腕の長さも違う鼻の位置が中心にない。どんなに理想の部屋に住んでも僕は自分がその部屋の汚点となることに嫌になってしまうだろう。

 なんて袋小路だろう。そうやって死ぬまで僕は一度も満たされること無く意味もなく生き続けるに違いない。


 部屋が縮み始めた。


 ゆっくりとその大きさを変える。天井も壁も奥行きも。すべてが僕に向かって迫ってくる。僕は呆けたように狭くなるこの部屋に見入っていた。ドアが割れる。本棚が歪む。僕は立っていられなくなりしゃがむ。押しのけられるこたつの上で腹ばいに押される。

 狭い。発狂する狭さ。

 肺が膨らまない、首が軋む。肩が外れた。

「ふふ」

 だけど僕は笑っていた。

 そうだ、このまま部屋ごと縮んでしまえばいい。

 点だ。僕は点になるんだ。

 数学上にしかない概念。

 夢の無存在。

 完全なるイデア。

「ふふふ」

 そうやって僕はどこまでも圧縮されながら笑い続けた。

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狭い部屋 言無人夢 @nidosina

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