かんらんしゃ
藤村 綾
第1話 かんらんしゃ・短編
事務所の前を通り過ぎた。秀ちゃんは今日は他の現場に行くと言っていたのでいる訳ないじゃん、なんてわかっていたけれど、とりあえず通り過ぎてみた。
あれ、秀ちゃんの車がある。黒色の車がひょっこり道路側に頭を出していた。あたしは自分の車を事務所の下に停めて階段を上がる。
ああ?どした?という怪訝な形相であたしを一瞥し、直ぐに見ていたパソコンに目を落とす。
あれ?今日は他の現場じゃなかったんだね、と言い、その流れで秀ちゃん昨日ごめんね、と言葉を付け足した。
バソコンを睨む顔をあたしに向け、
「え、何が、ごめんねなの?」
と頭を掻きながら、そんなの知ってますよ、という感じで聞き返す。
彼は続けた。
「ごめんねってさ、絢ちゃんが謝ることないと思いますけれど。むしろ謝るのは俺ですよ」
相変わらずの敬語。時折敬語では無くなる時があるのだけれど、それは大体あってから帰る頃に敬語は消える。ヘルメットでヘアーが乱れた頭を掻きながら優しい声で言った。
秀ちゃんは何かバツの悪いことや、言いづらいことがあると頭を掻くので非常にわかりやすい。
「あたしの方が悪いよ。わがまま言って困らせて」
涙が込み上げてくるのを察して感極まり急いでティッシュを目元にあてた。
昨夜あたしは酔っていた。非常に寂しくて秀ちゃんにメールをしてしまったのだ。日曜日。家族がいる、秀ちゃんに。
『会いたいです』
『無理。出れません』
返信はわりと早く来たけれど、短いメールを打つだけでもひどく大変な作業だったと思う。酔いもあったけれど、急に大変なことをしたと我に返り泣いてしまった。秀ちゃんごめんなさいと何度もつぶやきながら。
涙腺が緩みっぱなしだ。
伸びたパンツのゴムよりも緩いかも知れない。
秀ちゃんを好きになってから。ずっと。飲み会での非難すべき出来事から半年。あたしは変わらずに監督の秀ちゃんに父親の秀ちゃんに、妻のいる秀ちゃんにすっかり惚れている。たぶんあたしの方が好き度合いの比率は高い。
彼は言う。
もっと気楽に考えなよ、というわりには秀ちゃん自身も、でもな、それも難しいかなぁ、なんて互いに首を傾げるだけで、結局のところはこの議題において答えは出てはいない。
「今から隣街の現場いくんだけど、行く?ついでに連れて行きたいところあるから」
ええ、いいの?一応訊いてはみたけれど、顔はにやけていたので、行く気まんまんじゃんと察しただろう。
行く!行く!行くの単語がリズムを奏で高揚が隠せない。あたしの顔はかなり緩んでいるに違いない。
「じゃ、行こうか!」
秀ちゃんがあたしを抱きしめながら言った。また好きになる切り札が一枚増えるよ、と思いつい秀ちゃんの車に乗った。
まだ、夕刻の四時。西日があたしたちの顔に直撃する。
秀ちゃんは眩しそうに目を細めるけれど、その横顔すら愛おし。
ん?あたしの射抜く視線に気がついたのか、秀ちゃんが言葉を継ぐ。
意図的に話さなければという使命感みたいに。
「絢ちゃん、そういえば仕事は?休み?そーいや、あいつ、佐野くん、おととい呑み行ったけれど、まー酒強いな、クロス貼りは下手なくせになぁ」
ははは、と薄く笑みを施し饒舌になる秀ちゃん。
「佐野さん?まあ、あたしよりかは酒癖はいいかも」
「だよねぇ」
だよね、って。納得しているんだね。やっぱり。あたしは窓の外を見ながら肩をすくめた。
本当は佐野さんの呑みの話題や、クロスの話題、仕事の話題なんて、どうでも良かった。
秀ちゃん、あたしは彼の方を向き一息吸う。
ちょうどタイミング良く信号が赤になり、秀ちゃんはあたしを見た。
あたしが口を開けたと同時、秀ちゃんは目で威嚇した。何も言うな。
そう言っている目だ。
言葉丸ごと制されてしまった。
「今日、有給でね、休み。明日は港らへんの現場の下見ですよ」
さっきの仕事の質問を敢えて今取り繕うよう切り出した。
ああ、秀ちゃんは肩の力を抜き、そうなんだね、と続けた。
何度も辛くて口にしてきた台詞。
秀ちゃんは聞きたくないのであろう。
苦しいよ、優しくしないで……。
確かに秀ちゃん側にしてみたら、あたしが身を引こうが、引かまいが皆無な訳であって、あたしは自ずと苦しみの渦中に足を踏み入れているのだ。秀ちゃんはだから何も言わないし、聞きたくないのであろう。
始めは小さなスポンジだったけれど、二人で会って一緒に肉まんを食べたり、映画に行ったり、身体を重ねていくうちにスポンジが膨らみ重くなるに連れて好きさ加減も膨張して行った。もし今、
「だったら、もうあわないから」
いつ言われてもおかしくないだろう言葉だけれど、今、言われたら多分あたしは死ぬだろう。舌を噛んで。
スポンジをこんなに膨らませといてそれはないでしょうに。と泣きじゃくりながら、死ぬとか言うだろう。
車は隣街の建築事務所に着き、秀ちゃんは、チョイ行ってくるわ、と言い淀み颯爽と事務所に入って行った。
平気で請負の事務所にあたしを連れて行ったりするのも始めは戸惑ったけれど、別に事務員ですよ、なんて軽く言っているみたいなので、深慮しないようにした。なので、秀ちゃん的には自分が浮気をしているって認識はあまりないのかも知れない。
「罪悪感とか、あるの?」
訊いてみたことがあったのだけれど、それがさ、ないんだよね、絢ちゃんだから?
と、頭を掻きながら言っていたことをぼんやり思い出す。頭を掻いていたってことは誤魔化すためであり、実際は後ろめたいのであろうに。
「お待たせ、じゃあ、行くかね」
車は西日に向かい、湾岸線を走りだす。
何処いくの?あたしは怪訝そうに訊いてみる。
「いいところ、っていうか、いつも行く現場の休憩で休むサービスエリアなんだけれど、すごい広いんだよね、観覧車もあってさー、デードにもってこいだよ」
ああ、そうなんだね、楽しみ、と言ってみたけれど、正直ちっとも楽しみではなかった。 車を運転している最中でもひっきりなしにかかってくる業者さんからの電話対応にあたしはひどく申し訳なくって、拳を握った。あたしを喜ばせたくて連れて行きたい気持ちはとても嬉しいけれど、本当は仕事中だったはず。
電話をしている秀ちゃんを横目にあたしはひどく悲壮感に陥った。
着いたハイウエイパークはびっくりする程に広く、観覧車があり夕刻にも関わらず人がありの様にたくさんいた。
手を繋いで、中に入る。ヤバイな、重症だよね、なんて思いながら、手を握り返した。
「何か食べるかね、ラーメンはまずいしぃー」
ラーメンは一度食べてみたが不味いとメールが来たな、と、ああーここのラーメンね、と頷く。
「アイスがいいー」
あたし達はアイスを頬張った。秀ちゃんはいちごであたしはコーヒー味の。甘いアイスを並んで食べる。こんな些細な出来事にでも目頭が熱くなるあたしはまた重症が飛躍したよと自覚する。
外にある一応回っている観覧車は夜のライトアップで煌々と煌き、電飾を放っている。
綺麗だよね、口からはあたり前の言葉が溢れる。
だねー、色のない声だけれど、秀ちゃんもとりあえずは共感しておくか、みたいな口調で呟いた。
二人の関係は側から見れば普通のカップルかも知れないのだけれど、蓋を開ければ、禁忌な二人だ。
「どこかに行っちゃいたいよ、秀ちゃん」
あたしは観覧車を見上げ、白い息を吐きながら声にした。
秀ちゃんはあたしの頭を撫ぜながら、何も言わない、言えないと言った方が正論であろう。
諦観な事実に直面した時、あたしは思い出す。今、一緒に見ている観覧車を。
電飾に光る秀ちゃんの横顔を。
「じゃ、温泉行くか?」
失笑しながら、何の気なしに言う。
秀ちゃんらしい。
え?あたしは懲りもせずに秀ちゃんの胸中で首を縦に振った。
かんらんしゃ 藤村 綾 @aya1228
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