汚泥

 パチャン!


「あ!」


 爪先のヒヤリとした感覚にしまったと思う。


「このガキ!」


 水溜まりに突っ込んだ右足のヒヤリがヌルヌルに変わる前に、怒鳴り声が前から飛んできた。


「すみません。子供がボンヤリしていて……」


 鴉児が口を開くより先に、母親がズボンの裾を泥で汚した相手にせかせかと頭を下げる。


「このチビ、どこに目を付けて歩いてやがる!」


 相手は母親の言葉を遮ると、鴉児に怒鳴り声を浴びせかけた。


「おじさん、ごめんなさい」


 鴉児も小さな頭を深々と下げる。


 空ばかり見ていて、全然足許に気が回らなかった。


「おじさん、だと?」


 甲高い怒鳴り声からくぐもった唸り声に転じた相手を、少年は改めて見上げる。


 全く男前でもなければ品のかけらもないが、年だけは若いと分かる男が、誇りを傷付けられた顔つきでこちらを見下ろしていた。


「あ、おにいさん、ごめんなさい」


 もっとまずいことになってきた。


 水溜りから取り出せない右足がどんどん泥水に浸食され、凍りつく様な感覚が鴉児の爪先から背中を這い上っていく。


「このガキ、目ン玉をくりぬいてやる!」


 爪の先尖った、大きな手が上から伸びてきたかと思うと、母親の蒼白い手の甲が少年の眼前に立ちはだかる。


「お願いです、子供のことですから……」

「うるせえ、邪魔なんだよ」


 若い男が母親のか細い手首を掴んだところで、不意に、その後ろから上等な外套を着た中年の小太りの男が出てきた。


「もう、よさないか」


 どうやら若い男は一人歩きではなく、周囲にゾロゾロいる険しい目つきの男たちと連れ立って行動していたらしい。

 無言で自分と母親を見下ろしている幾つもの顔から、鴉児は今更の様に気付いた。


「こんな所で、女子供相手にみっともないぞ」


 外套の中年男が若い男をたしなめる。

 年恰好や服装からして男たちの頭目らしい。


 助かった。


 鴉児が息を吐いて母親を窺うと、平素も白い母親の顔は更に血の気を失って

 紙の様になっており、繋いだ手を痛いほど強く握られた。


「何だ、阿茉(アモー)じゃないか」


 外套の中年男が急に目を丸くする。


 そのギョロリとした目が、母親の豊かな黒髪、化粧気のない蒼白い顔、洗い晒して色も生地もすっかり薄くなった服に包まれた胸、ほっそりした足に履いた破れ靴をなぞって、隣の鴉児まで捕えた。


「こんな所で遭うとはな」


 中年男の赤黒い顔ににんまりとした笑いが広がった。


「やっぱり上海は狭いぜ」

「雲哥(ユンあにき)のお知り合いですか?」


 ズボンを汚した若い男が打って変わって笑顔になり、母親から離した手をさっと後ろに回す。


 このおにいちゃん、急に声まで変わったぞ。


 こういう変わり身を目の当たりにするのは初めてではなかったが、鴉児はやはり嫌な気がした。


「古い顔馴染みさ」

「そうなんすかあ」

「えらい別嬪(べっぴん)さんですね」

「当たり前だろ」


 男たちの会話をよそに、母親は俯いたまま何も言わない。


「花を売ってるのかい?」


 外套の男は、母子が提げた籠と俯いている母親の胸元を交互に推し量る様に眺めながら尋ねた。


「そうだよ」


 母親に代わって少年は答える。


 こいつもやっぱり、嫌なやつだ。

 母ちゃんをジロジロ眺めて、何だか面白がる顔つきをしている。


 普段、花を売る客の中にも、母親を眺め回す男は少なくない。

 しかし、この外套の男の視線には、そうした通りすがりの人間よりもっと露骨で執拗な何かが感じられた。


「この寒いのにかい?」


 外套の男は今度は母親の細く長い脚から不恰好な古い靴の爪先にまで目を注ぐと、口の端で笑う。

 そうすると、口ひげの下から、黄色い乱杭歯がのぞいた。


「寒い時に花を売っちゃ悪いのかい」


 鴉児が何とか男と目を合わせようと顎を突き出すと、母親と繋いだ手が更に強く握り締められる。


 やめなさい、と暗黙に言っている様だ。


「あいつそっくりだな」


 外套の男は二重になった顎で少年を指すと、いかにも可笑しそうに笑った。

 ズボンを汚した男や他の仲間らしい連中もニヤついている。


「親父も雪の日に夏物一枚と水一杯で晩まで働く奴だったしな」


「阿雲(アユン)」


 母親が俯いたまま低い声で呟く。


「まだ私たちをバカにしたいの」


「そんなんじゃないさ、阿茉」


 外套の男は、今度は妙に粘り気のある声で母親の名を呼んだ。


「お前は誤解してるみたいだが、俺と阿耀(アヤオ)は同郷の仲間だったんだぜ」


 こいつ、父ちゃんと知り合いだっていうのか。


 男がしたり顔で父親の名を口にするのを目にして、鴉児は、唾を吐きたくなるのを堪えた。


 まるで、匪賊(ひぞく)の頭(かしら)みたいなやつじゃないか。


「一緒に郷里(くに)から出て、最初は同じ店で丁稚(でっち)したしな。

 振り出しは二人とも同じだった」


 周囲の子分たちにも聴かせる風に言うと、男は今度は少年に顔を向けた。


「お父さんの棺桶代だって、おじさんが出してあげたんだよ」


 撫で擦る様な口調とは裏腹に、ゾッとするほど冷たい目がこちらを見下ろしていた。


「その時はお母さんのお腹の中にいたから、君は知らないだろうけどね」


 母親が無言で歩き出したので、手を繋いだ鴉児も引っ張られる形で歩き出す。


 外套の男も手下らしい連中も、思いの外あっさり道を空けた。


「いつでも相談に来いよ、別嬪さん!」


 少年が振り返ると、外套の男はまた最初の面白がる顔つきになっていた。


「あの界隈はもう引き払ったけど、俺に逢いたきゃ、夜は大体、『大世界(ダスカ)』の賭場にいるぜ」


 鴉児と目を合わせて憎々しげな笑いを浮かべると、男は再び顎をしゃくる動作をした。


「花売りだけじゃ、坊やの靴も揃わねえだろうからな!」

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