第8話 クローゼットはお花畑

 よその家はどうか知らないけど、我が家では父さんは一番風呂に入りたがらない。なんでも、寝る直前に身体を温め、ほとんど寝酒のようにしてお酒を少しだけ飲むのがささやかな楽しみなのだとか。

「倍巳のやつ、あと五年で一緒に飲めると思ったのにな」

「おい、父さん。ずっと目が覚めないみたいな言い方はよせよ。僕だってこうして目が覚めたんだ。お兄ちゃんだってきっとすぐだよ」

 倍巳ぼくの植物状態は、事故ということになっている。実際にはミューテーション前に不良に囲まれて殴られたのだが、アルガーの調査によると奴らは元から不良だったわけではないらしい。矢井田先輩のワームを除去すれば元に戻るはずということなので、僕としては犯人捜しをするつもりはない。

 ちなみに僕の抜け殻は自発呼吸をしており、近日中には自宅療養になるようだ。

「ん……む、すまんすまん。しかしその喋り方、友達から引かれたりしないか? 自分のことを『僕』と呼ぶのは意外と似合うんだが。その……語尾とか、さ。見た目が可愛いのにすごいギャップがあるぞ」

「親バカだよ」

 何が『可愛い』だよ。連れ子という設定だけど親子だろうが。まあ、気持ちは充分にわかるけど。

「でも、気をつけた方がいいの、これ? 友達からは——今日友達になった子たちからは特に何も言われなかったよ」

「そうか。まあちゃんの世代と俺の子供時代とじゃ違って当然か」

 まあちゃん!? むず痒い!

「父さん。お兄ちゃんのことを呼んでるのか僕のこと呼んでるのかくらい区別つくからさ、潤美って呼んでよ」

 マスミと呼べよ。今まで通りに。

「わかった、潤美。じゃ、父さんからも。あ、別に女言葉を遣えとは言わないからな。今時、女言葉ってオネエタレントくらいしか遣わないもんな」

 いやまあ、普通に遣ってる人もいるじゃん。身近なところでは母さんや美沙。

「だけど、せめてもう少し語尾に気をつけてほしいんだ。ほんの少しで構わないから」

 むむ。僕、もともと男としては言葉遣いが柔らかい方だと言われてたんだけど。主に哉太あたりから。

「あ、あた……あたし……。ごめん無理」

 頬が火照ったじゃないか父さんのばかあ。

「ははは、そっちは変えなくていい。語尾も、どうしても変えてくれなんて言わないよ。まあ——潤美の友達がそれでいいのなら」

「うん。でもなるべく気をつけるね。せっかく出来た友達、なくしたくないし。……あ、そろそろ母さん上がるから。お風呂入ってくる」

「あ、あとさ」

「ん?」

「僕に、御簾又流柔術を教えてくれないかな? お兄ちゃんが寝てる間だけでもいいから」

 矢井田先輩に掴みかかられそうになったとき、わかったんだ。盆踊りよりは護身の役に立つって。

「う、ううむ……。あれは一子相伝なんだが」

 あはは、出たよ中年厨二病患者め。

「冗談はさておき——」

 あ、冗談なんだ。

「父さんとしてはむしろ嬉しいぞ。だがな、母さんがきっと認めないと思うんだ。あいつ、倍巳にさえ習わせようとはしなかったくらいだからな」

 男くさいことがとにかく嫌いみたいなんだよね、母さん。よく父さんと再婚しようって気になったものだなあ。ふしぎふしぎ。

「まあ、そうだよね。でも母さん、執筆に没頭してると周りが見えなくなるからさ。夕飯の支度前の一時間くらいなら稽古できると思う」

「こっそりと、というわけにはいくまい。やるならやるで、母さんにきっちり話しておかないとな」

「うん、わかった」

 明らかに嬉しそうな様子の父さんに微笑んでみせ、僕は自室のある二階へと上がっていった。

 母さんの方は、多分大丈夫だ。リハビリの延長の体力作りだとかなんとか言って説得してみせる。それに、今日は珍しく夕飯の支度までしてくれた母さんに対し、明日からは僕がやると言っておいたのだ。風呂に入る前、明らかにほっとした顔をしていた。あの様子なら少しくらいのわがままは通るだろう。


 * * * * *


「はぅ」

 自室のクローゼットで、僕は固まった。

 パジャマはいい。裾の方に少しくらいフリルがついていようと、今日一日スカートで過ごした僕には余裕だ。いや、それでいいのか僕。

 だけど、私服のバリエーションときたらどうだ。

 ワンピースにせよスカートにせよ、見事にミニ丈ばかりではないか。何着かパンツを見つけたが、股下五センチあるかないかのショートパンツ——いわゆるホットパンツという奴だっけ——ばかり。

 この際スカートでもいい。せめて膝を隠すものはないのか。

 それに該当する服で、ここに収納されているものといえばわずかに二種類。パジャマと、学校指定のジャージだけだ。

「学校指定……」

 いやな考えが浮かぶ。

 クローゼットの中をさらに探すと、そこにあった。

 スクール水着。

「な、なんで新デザインの奴じゃないのさ……」

 たしか、腿を半分くらい隠すスパッツタイプの奴が今後の女子スクール水着の主流になるってテレビで言ってなかったっけ。それなのにこれ、見事に旧タイプじゃないか。

 僕がこれを着る日が来るというのか。いや。

「プールの授業が始まる前にミッションコンプリートすればいいんだっ」

 そうでないと、出席日数の関係で倍巳は留年してしまうだろう。

【…………】

 おいアルガー。困惑した気分が伝わってくるぞ。気休めでもいいからなんかしゃべれよ。

【気休めをお望みですか? それでは——】

 待って僕が悪かった気休めはいらないからっ。

【普段のお洋服に関しては、ある程度こちらでご用意させて頂きました】

 いいよもう。服は、この際母さんに頭下げて買ってもらおう。もう少し中性的で、迷わず着られそうなのを。

【マスミ様。真面目な話、私のセンサーやワーム除去を行う各種コマンドは、マスミ様の素肌表面に張り巡らせたナノマシンによって実現しているのです。あまり肌を隠されますと、前回不良たちに囲まれた時のように、探知が遅れる可能性がございますので……】

 ええっ。長ズボンも膝を隠すスカートも禁止なの? ……何の試練だよまったくもう。

【大変申し上げにくいのですが、マスミ様の素肌の露出が多ければ多いほど、より強力なバスターコマンドを発現することが可能となります。つまり、普段から強力なコマンドを使える服装で過ごしていただくことが、ミッションコンプリートへの近道となることでしょう】

 ビキニアーマーなんて着ないよ。それだけは勘弁な。

【…………】

 こいつ。その気だったな。

【ソンナワケナイジャナイデスカ】

 あ、これ、相手したらダメなパターンだ。絶対。

「さて、お風呂お風呂……」

 再び固まった。手の中に収まる布切れを広げて、頬が引きつるのを自覚する。

 今朝は身体が変わったことによる混乱の中、妙に冷静に制服を着てしまったのだが。今考えてみれば、布団にくるまって「夢なら覚めろ!」と叫んでいてもおかしくない状況だったはずだ。

 わーい、僕は普通の人じゃないんだー。

【はい、マスミ様は大変に特別な方でいらっしゃいます】

 いや嬉しくないってば。

 学校から帰った後、制服のままご飯を食べるなんて、倍巳の時なら考えられなかったことだ。というか、朝の着替えの記憶がほとんど飛んでる。どんだけテンパってたんだ僕。

 なんとか凍結状態から解凍を果たし、手に取った布地を今一度顔の前に広げてみる。

「う、うわあ……」

【お気持ちはお察ししますが、マスミ様はすでにそれと同じ物をお召しになっています。それどころかナツミ様のご指導の下、トイレでお脱ぎに——】

「しゃーらっぷ!」

 し、下がこれって事は、上も?

「ほっ。つけてなかった」

 いや安心してる場合か? 加奈、僕の胸揉んでたし、絶対バレてるよね。それはそれとして、この大きさでノーブラってまずくね?

【そうですね。今夜からはおつけになった方がよろしいかと。——あ、お待ちくださいマスミ様。差し出口かとは思いますが、ご自宅とはいえ下着姿で階段を降りられるのはさすがに】

 そっか、そうだよね。自分で見るのさえ恥ずかしいのに父さんに見せるわけにいくかっての。

 でもどうするのが正解かよくわからん。このパジャマ着て風呂場へ行き、終わったら脱衣所で身体を乾かしてから着る。よし、これでいこう。

 あのさ、アルガー。ブラって、つけたまま寝るものなの?

【いえ、どちらかと言えば、お休みになる時は外したほうがよろしいかと】

 あ、そう。女の子ってめんどくさい。家の中でくらいすっぽんぽんで過ごしたって……って、何言ってるんだ僕は。

 晴れて男に戻れる日が来ても、女の子に対する幻想を持ち続けられる自信がなくなってきた。

 違うぞ。目からこぼれてるこの液体は汗だ。青春の汗っ。


 その後、髪の洗い方から身体の洗い方に至るまで、事細かにアルガーからの指導を受ける僕なのだった。おかげで、せっかくの風呂なのに相当疲れたよ。主に精神的に。

「あら潤美。今日は特別に長かったわね。父さん、もう寝ちゃったわよ。明日からはもう少し時間短縮しましょうね」

「ご、ごめんなさいぃ」


 * * * * *


 アルガーのサポートもあることだし、いつまでも戸惑ってはいられない。

 女の子化二日目の僕は、まずはこの生活に早く慣れることを念頭に置きつつ、不自然に思われない程度に行動範囲を拡大することを画策し始めた。

 でも、まずは授業だ。学生の本分。サボるわけにはいかないからね。

 さすがに中一の内容は退屈だ。いつ倍巳の身体に戻ってもいいように、高校の予習をしておくべきかな。そうしたいのはやまやまだけれど、中等部の教室に高等部の教科書を持ち込むわけにはいかない。

 そんなこんなで、眠気と戦いつつもゆっくりと時は流れていく。

 ねえ、アルガー。ワームの奴に増殖されて、対応が後手に回るのは嫌だなあ。退治にも時間がかかりそうだし。

【そうですね。なるべくマスミ様の負担にならないよう、管理者権限レベル1の範囲内における最大限のリスク管理と共にスピーディーな解決を目指しております。エリアサーチもカスタマイズを続けておりますので、当面はヤイダに集中していただければ。退治の経験は蓄積していきますし、一度取り憑かれた人間が再度取り憑かれることもありませんので、ワームが減るたびにサーチ速度も加速していくはずです】

 でもさ。こっちの素性、向こうに知られてない? 仮に今はノーマークだとしても、矢井田先輩に接触した時点でまたバレるよね。

【それなんですが、ワーム側もこちらにバレるのを嫌っているようで、互いに接触することなく活動しているものと思われます。一体除去されても、他の個体が無事ならよしとする考え方ですね。従って、ヤイダのワームを除去したからと言って、ただちに他の個体にバレる危険性は少ないかと】

 へえ。そういうものなのか。

 待った。

 ……矢井田先輩にバレる?

 自分の思考によって、唐突に思い出した。僕は矢井田先輩の自宅で聞き耳を立てる夢を見たはずだ。

 あの時、ドアをノックした先輩は何と言って呼びかけたっけ。

 いても立ってもいられず、机の収納からファイルを取り出した。連絡用クラス名簿。潤美としての僕はクラス全員の自己紹介の場に居合わせなかったため、みんなの名を覚えるという名目で母さんに頼み込み、コピーを持たせてもらっていたのだ。

 余談だが、近年は個人情報保護の観点からなのか、こういった名簿に住所や固定電話の番号は記載されていない。連絡先としてメールアドレスのみ記載されている人がほとんどで、ごく稀に携帯電話番号の併記があるという状態だ。

 生徒の個人名を順に見ていく。

「……いた」

 思わず小声で呟いた。

 矢井田佳織。そう、あの夢で矢井田先輩はこう呼びかけたはずだ。「佳織、開けるぞ」と。

 じゃあ、あの夢は。

【はい。管理者権限レベル1において、マーキングしたワームキャリアの自宅をサーチし、マスミ様の意識を飛ばしたのです】

 そういうの、先に説明してほしかったな……。と言っても、あの時の僕はアルガーの声を幻聴と決めつけていたけど。

【以後、気をつけます】

 いやごめん。アルガーのせいじゃないよ。

【……確認しました。カオリ様はあのヤイダの妹で間違いありません】

 ど、どうやって調べたの!?

 いやいや、やっぱ僕は知らなくていいや、そのへんのことは。定期試験前に試験問題がわかっちゃいそうな感じだし、そうしたら教えてほしい誘惑に抗えなくなりそうだし。

【マスミ様がお望みであればやぶさかではありませんが】

 だめだってば! 僕が悪かった。ワームキャリアに関すること以外で僕に便宜を図ろうなんて考えないでね。

【マスミ様は真面目でいらっしゃいますね。尊敬いたします】

 真面目とかそういう問題じゃないと思う。

 それにしても、妹か。

【はい。ヤイダに取り憑いたワームはすでに分裂可能である以上、彼女も潜伏期間中のキャリアである可能性が】

 早いとこ接触して確かめなきゃね。至近距離からのサーチなら、潜伏期間中でもわかるんだったよね。

【九十パーセント以上の確率で特定できます】

 じゃ、今日の昼は佳織にも声をかけよう。


 で、昼になったんだけど。

「まーすみっ」

 だよね。いや、嬉しいけどさ。菜摘も加奈もかわいいし。

 教室の扉から女子の声が聞こえた。

「ねえ待ってよお、佳織ったらあ」

 佳織は今日もどこか——多分鉄男あにきのところへ行くんだろうな。

「あっんっ」

 変な声が出た。というか、出させるなっ!

「こら、胸揉むなぁ、加奈っ」

「残念。今日はブラつけてきたんだね」

 男子が聞き耳立ててるだろ、ばかぁ。……待って、僕も中身男子、のはず……。

「もう、やめなさい加奈さん」

 ちょ。見てないで止めて菜摘。

「うらやましい。あたしだって」

「もしもし菜摘さん?」

 だめだこいつら。

「男子は見ちゃだめだよ」

「その前に指を止めろ加奈ぁ!」

 ようやく菜摘が止めてくれたけど。

「もう。覚えてろ、加奈」

「ごめーん。あたし貧乳だからうらやましくてうらやましくて」

「言うほど小さくないし、僕より菜摘の方が大きいのに」

「だって、菜摘ってばすっごく怒るんだもん」

「僕のこの状態が怒ってないとでも?」

「その顔も可愛いのっ」

 抱きつかれた。

 なぜにやける僕の顔。……くそぅ、中身男子だもんなぁ……。

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