砂漠

 相手に恋人がいることをわかっていて好きになるなんて、こんな馬鹿な話はない。

 俺は馬鹿だ。

 けれど何度自分に文句をたれても、気持ち自体が消えることはない。相手が男だという事実は、既に塚原の意識の外だった。女とか、男とか、そういう性別よりも先に、彼は恩田を好きになってしまったのだ。中学のときに別れた彼女の比ではない。恋なのか愛なのか、何なのかよくわからないけれど……その質量はとてつもなく大きくて、気がついた途端に塚原の心と身体の大半を占めてしまったのだ。恐ろしいことに。


 それなのに、この思いは叶わないことを知っている。

 それはまるで――



 塚原はベッドの上で身体を起こし、時計を見た。目覚ましをセットしている時間の五分前だった。昨日の夜中恩田とラウンジで会った後、結局部屋に戻ってベッドに入ったけれど、眠れるはずがなかった。もう眠れない、このまま起きていようと決めた後、もしかして二時間くらいは眠ったのかもしれない。それで気がつくとこの時間になっていたのである。


 いつものように松谷に一コールだけ電話を入れる操作をして、かけたままにしていたことにも気づかなかった。

『――おい何だよ』

 不機嫌な、くぐもった松谷の声がする。はっとして携帯電話を耳に当てた。もしかしたら彼はまだ寝ていたのかもしれない。塚原はそこでようやく自分が電話を切り忘れたことに気づいた。

「あ、ごめん。おはよ」

『……一コール、』余計な言葉を一切使わずに非難してくる。

「ごめん切り忘れた」

『朝からうるせえんだよ』

 ぷつりと電話が切られ、部屋の中に静けさが戻った。頭が重く、鈍く痛む。まぶたが熱を持っていて、色々なことに対してうまく考えがまとまらない。しばらくそのままベッドの上でぼんやり携帯電話の黒い画面を眺めていたけれど、学校へ行かなければならないことを思い出した。とりあえずベッド横のシャツが目に入ったので着替え、顔を洗ってふらふらと部屋を出た。


 食堂へ一歩入って、心臓を掴まれる思いがした。

 トレーを取って並ぶその列に、恩田がいたのだ。あのきれいな恋人と一緒に。

「っ!」

咄嗟に声が出そうになって、手で口を押さえた。動転した。話をしながら笑う二人の横顔がはっきり見える。他の生徒もその列へ多く続く中で、そのとき恩田が後ろを振り返るような動きをした。

 いけない。

 すぐに踵を返し、塚原は食堂を飛び出した。鞄を持って靴を履き替え、そのままの速度で寮を出て学校へ走る。コートも着ていなかったけれど、そんなことなど頭になかった。


 教室へ駆け込むと、そこにはまだ二、三人ほどしか生徒はいなかった。こんな時間に塚原が登校してきたことに驚く彼らに目もくれず、自分の席に突っ伏す。完全に息が上がっていた。

 落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 塚原はひたすら自分の身体と心に言い聞かせた。

 落ち着け。大丈夫。何が。わからないけれど、こんなこと大したことじゃない。大丈夫じゃなくても大丈夫。大したことじゃない……

 そのうち呼吸が落ち着くにしたがって、身体が重くなってくる。疲れ果てて、力が抜けていく。塚原はそのまま意識を手放した。



「塚原くん」

 とんとん、と肩を叩かれる。反応できないでいるとさらにとんとんとん、と繰り返され、まもなくとんとんとんとんとん……と際限なく三十秒は叩かれ続け、ようやく塚原は身体を起こした。担任の「おじいちゃん」三木先生だった。

「今日は間に合ったね」

 柔らかい口調でそう言う。彼は基本的に穏やかで、声を荒げたり、生徒を頭ごなしに叱ったりはしない。だからこそ本人を目の前にして、遠慮なく生徒は「おじいちゃん」と呼ぶのだった。

「あ……」

「確かにここで眠った方がよっぽど賢明だ」うんうん、と一人納得した顔でうなずく。「時間になれば、どの先生だって起こしてくれる」

 嫌味のない口調だった。はっとして塚原が周りを見回すと、クラス全員の視線が自分に向けられていた。もちろん恩田の視線も。慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「すいません、俺……」

「一時間目は私だよ。はい座って」

 またとんとん、と今度は背中を叩いて三木先生は教壇へ向かう。ホームルームの時間は見逃してくれたのだろう。塚原は力なく席につき、教科書や筆記用具を広げ始めた。


 そうして一時間目はさすがに集中して授業を受けたけれど、それ以降はやはり限界だった。先生の声もクラスメイトのざわめきも、薄い膜を一枚隔てた向こうで聞こえているように感じられる。唯一その膜を通ってはっきり聞こえるのは恩田の声だけだ。といっても彼と直接話をしたわけではなく、クラスメイトと話す彼の声を背中越しに聞いただけである。まさか、まともに話ができるわけがなかった。塚原の方でも、そしてきっと恩田の方でも。

 それにもう、話すことは何もないのだ。



 それからの毎日はまるで、限りなく広がる砂漠にひとり放り出されたようなものだった。昼間は避けることもできない灼熱の太陽の日差しにさらされ、喉の渇きに耐えながら、方向もわからずただ歩き続け、夜になれば昼間の日差しが嘘のように急激に冷えた空気の中、身体を震わせながら、ただ明日歩き続けるために眠らなくてはいけないから眠ろうとあがく。いつかどこかにたどり着くのか、行き先も戻る場所もわからないまま。


 寮でも、教室でも恩田の姿を見れば身体が悲鳴を上げる。それなのに夜布団に入った後は、今日見たその姿を脳裏に反芻して大事にしまい込む。そしてまたあの淋しさが冷たい風になって塚原の心を少しずつ冷やしていく。

 塚原のほとんどが恩田というたった一人の男に支配され始めていた。それに気づいてたまに馬鹿馬鹿しい気持ちにさえなる。けれど、塚原はこの砂漠から抜け出せる気がしなかった。



 ある日部活を終えて部室の戸締まりをした後、やっぱり松谷に訊かれた。

「……また告白でもされたか」

 閉めた部室のドアに背を預け、静かな瞳でそう言う。辺りは薄暗く、風にさらされる頬は冷たい。部室の鍵を職員室に返しに行かなければならないのだけれど、彼はまだ歩き出そうとはしなかった。塚原は首を振った。最近は松谷ともほとんど口をきいていない。彼が不審に思うのも無理はなかった。


「罰ゲーム」

投げて寄越すような口調。

「決まってないのに、寝坊すんなって言ったじゃん」

「……もう何でもいいよ」

 その日はとうとう五回目の寝坊だった。けれど、そんなことはもうどうだってよかった。眠れないのに、起きられるわけがない。わかりきっていることだ。それ以上話をするのが嫌で、塚原は歩き出した。


「今度は誰」

構わず、松谷は問いかける。

「……だから違うって」

「じゃあ何」

「何って、」

「何があったんだよ」

「何もない」

「嘘つくな」

「嘘じゃない」

「うぜえんだよお前の最近の態度」


 切りつけるような松谷の口調に、反射的ないらだちがわく。無視して歩き出そうとすると腕を掴まれた。振り返った塚原は松谷を睨みつけた。

「離せ」

「何があったか全部言え」

 彼も冷たく塚原を見下ろしていた。その瞳の光に少し怯む。歯を食いしばった。

「なんでお前に言わなきゃいけないんだよ」

「言えないことか」

ぴしゃりと言い返される。


「……爆笑グランプリのときもだ。お前の嘘なんてすぐわかんだよ」

塚原が鼻白む。

「……恩田かよ」

 なんでわかるんだこいつ。いらだちは腹立たしさに変わって塚原の腹の底を熱くした。けれど同時に心のうちの一番弱くなっている部分を突かれ、喉が詰まる。

「……違う」

「正直に言え」

「違う!」

「違うって言うんならもっと普通にしとけ!」

 ――だめだ。

「ちがう……!」

 言ったときにはもう涙があふれていた。視界がこれ以上ないくらい歪んで、ぱた、ぱたと雫が頬に落ちる。

「……おれが恩田にふられただけだ」


 松谷がはっと息を呑む気配がした。すぐに涙をぬぐう。彼の手がゆるんだ隙に立ち去ろうとしたけれど、足がもつれて失敗した。

 こいつにだけは泣いてるのを見られたくない。

 顔を背け、空いた腕に顔を押し当てる。恩田に好きだと言ってから……いや、きっと、それよりもずっと前からこらえていたものがこらえられなかった。涙がどんどんあふれ出る。それと一緒に感情の本流がどっと身体中に流れ出す。

 淋しい。辛い。切ない。痛い。苦しい。

 それでもなお、塚原の心は恩田に向かっているのだ。

 ――恩田のことが好きだ。


「……そうか」

 そう言った松谷の声は小さかった。彼の手にある部室の鍵が不揃いな金属音を立てる。松谷は声を詰まらせて泣く塚原の腕を引いて、片腕で頭を抱き込んだ。

 離せ。そんなことすんな。

 そう叫んで突き飛ばしたいのに、口を開けば情けない泣き声しか聞こえない。声を上げて泣くなんて死んでも嫌だった。唇を噛んで押し殺した。


 人を好きになることは苦しいとかなんとか言って、少女漫画できれいな顔で涙する主人公の女を一発殴って吐き捨ててやりたい。

 苦しいどころじゃねえよ。何もかもおかしくなりそうなんだこっちは。

 頭も、身体も、心も全部。

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