第七章 坂出の焦燥
風間勇太は幸せの絶頂だった。どう頑張っても彼女にはなってくれそうにない道明寺かすみを背負っているからだ。背中にじんわりと彼女の温もりが伝わって来る。
(かすみちゃん……)
(なんて妄想している場合じゃないんだ! かすみちゃん、大丈夫かな?)
チラッと振り返り、彼の背で気を失ったままのかすみの顔を見る。想像以上にかすみの顔が近かったので、勇太は彼女から漂ういい匂いにウットリしかけた。
(いけね、ここを進むとあのやかましいあやねと会っちまう)
勇太はふと自分を追いかけて来ていた幼馴染で同級生の桜小路あやねの事を思い出した。そして、路地を右折し、別のルートを選択する。
(あいつ、どこまでお邪魔虫なんだよ、全く。俺の恋を何で邪魔するかな)
そんな勇太は、あやねの恋心を全然わかっていない。どちらも哀れである。
「それにしても……」
勇太はまた恍惚とした表情になる。足を踏み出すたびにかすみの柔らかいものが彼の背中を押すからである。
(俺、鼻血出てないか?)
心配になる勇太だった。
勇太の読みは当たっていた。その先をあやねが歩いていたのだ。彼女は勇太を追跡中に声をかけて来た警視庁公安部の森石という刑事と共に同じく天翔学園高等部を目指していた。
「ところで、貴女の学校に道明寺かすみという女の子はいませんかね?」
あやねの頭の遥か上で、森石の声がした。あやねはまさか森石の口からかすみの名前を聞くとは思っていなかったので、ギクッとして彼を見上げた。すると森石はあやねのそのリアクションを見てニヤリとし、
「その反応だと、いるんですね?」
あやねは自分が丸わかりの顔をしているのを悟って赤面し、俯いた。そして、
「道明寺さんとは同じクラスです。彼女が何かしたんですか?」
「いえ、別に。何もしていません。只、噂で聞いたんですよね、転校したって」
森石はあやねを見ずに正面を向いたままだ。
「以前、何かと縁があったんで、気になっただけです。事件とは関係ないし、彼女が何かをしたという事はないですよ。ご安心ください」
森石はまたしてもニヤリとしてあやねを見た。あやねは目だけで彼の顔を見ると、
「そうですか」
突然、立ち止まった。森石はピクンとして歩を止める。
「どうしました、お嬢さん?」
彼は不思議そうな顔で振り返った。あやねは森石を睨みつけて、
「私、急いでますので、失礼します」
と言い放つと、クルリと背を向けて駆け去ろうとした。
「困るんですよ、貴女に行かれては」
森石はあやねより早く動き、彼女の前に立ち塞がった。あやねは森石の動きの速さにギョッとして硬直した。
「天翔学園は非常に外部の人間に対してガードが固い。警察などの行政機関には尚更です」
森石は口元は笑っているように見えるが、目はあやねを射るようだ。あやねは息を呑んだ。
「ですから、貴女のお顔が必要なんですよ、桜小路あやねさん」
森石は右の口角を吊り上げて囁くように言った。
「ど、どうして私の名前を……」
知っているのまで言う事ができないほど、あやねは動揺していた。すると森石は腰を
「私は警察官ですよ。しかも公安部です。東京に在住するVIPの皆さんとそのご親族の方々のお顔とお名前くらいは存じています」
あやねは身体が震えてしまうのを止める事ができなかった。
その頃、森石のお目当てと思われる坂出充はよれよれのジャージ姿でサンダルをペタペタさせながら廊下を歩いていた。
(警察が来るって、どういう事だ?)
彼はボスからの連絡で帰り支度をしていたのを中断し、応接室に向かっているのだ。
(まさか……?)
(ボスの話だと、ロイドとやり合った時に車が燃えたのを警察に通報した奴がいたとか……)
坂出はできるだけ目立たない生活を心がけている。信頼できる情報筋の話の中で警察か自衛隊に特別な組織が結成され、坂出のような存在を片端から探していると聞いていたからだ。
(それにしても……)
坂出は改めてボスの力の凄まじさを思い知った。ボスは警察が動いたのを調べた訳ではないのに全て把握しているのだ。そして、ロイドが去り際に吐いた言葉も知っていた。
『飼い主に伝えろ。次はお前の首をへし折りに行く、とな』
坂出がボスに伝えようと携帯で連絡すると、先にボスに言われてしまったのだ。
(ロイドも手強いが、ボスに比べれば大した事はない)
彼は揺るぎない忠誠を誓い、応接室のドアを開いた。まだ相手は到着していなかった。坂出は思わず溜息を吐いた。その時彼は、窓の外を通り過ぎる勇太を見た。
「む?」
そして勇太がかすみを背負っているのにも気づいた。
(道明寺かすみ!?)
坂出はその超感覚を駆使し、かすみの心拍数が低下しているのを知った。
(もしやロイドにやられたのか?)
真相を知りたい坂出であったが、今はその時間はない。そして、かすみがロイドにダメージを与えられたのだとしたら、ロイドを取り逃がした自分の立場がまずい事になると思い至った。
(畜生、こんな時に……)
坂出の苛立ちは募るばかりであった。
勇太はかすみを背負ったままで保健室へと走った。
「どうしたの、風間君?」
職員室から出て来たクラス担任の新堂みずほが声をかける。
「ああ、みずほちゃん、保健の先生、まだいる?」
勇太は息を切らせながらみずほに尋ねた。みずほは、
「名前で呼ばないで」
と言いたかったが、
「まだいらっしゃるわよ」
「そう! サンキュ、みずほちゃん!」
勇太はニコッとして応じると、保健室へと走って行く。
「道明寺さん、身体が弱いのかしら?」
事情を知らないみずほはそう思った。
「待って、風間君。私も行きます」
思い直して、みずほは勇太を追いかけた。それと入れ替わるように、あやねと森石が現れた。勇太にとっては幸いだろう。あやねは勇太の姿をほんの僅かの差で見ていないのだから。いや、今のあやねは、仮に目の前に勇太が現れても気づかないかも知れない。それほど彼女は森石を警戒していた。
(この人、本当に警察の人なの?)
あやねは高鳴る鼓動を抑えつつ、森石を
「こっちみたいですね。いや、助かりました、桜小路さん。ありがとうございました」
森石はあやねに礼を言うと、もう一度ニヤリとし、廊下を大股で歩いて行ってしまった。
「……」
あやねはまだ同行を強制されると思っていたので、唖然とした。
(何なのよ、一体?)
虚脱感で腰が抜けそうになった。
応接室で落ち着きなく歩き回っていた坂出は、今までに感じた事のない人間の気配を察知し、立ち止まった。
(来たのか?)
彼は超感覚を駆使し、その存在を探り始めた。それは確実に坂出に近づいて来ていた。
(間違いなさそうだな)
彼は意を決してドアに近づいた。
(え?)
その時、坂出はボスの気配を感じた。
(ボス? 同席するつもりなのか……?)
坂出の顔に汗が噴き出す。成り行き次第では、自分はボスに消されるかも知れない。そこまで想像してしまい、膝が震えそうになる。その時、ドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
坂出は乾き切った口を何とか動かし、返事をした。
「失礼します」
入って来たのは森石だった。そしてその後から教頭の平松誠と理事長の天馬翔子が入って来た。
「……」
二人の入室に坂出の顔が凍りついた。
「初めまして、警視庁公安部の森石と申します」
森石はそんな坂出の動揺など気づく様子もなく、身分証を提示した。
「どうした、坂出君?」
平松教頭が動かない坂出に声をかけた。
「あ、すみません、私が坂出充です」
坂出はジャージのポケットから折れ曲がった名刺を取り出し、森石に差し出した。森石は苦笑いしてそれを受け取ると、
「よろしくお願いします」
と応じた。
しばらく廊下で呆然としていたあやねだったが、
「あれ、あやね、どうしたの?」
と声をかけられ、我に返った。振り向くとそこには親友の五十嵐美由子がいた。
「ああ、美由子。まだいたの?」
あやねはぎこちなく微笑んで尋ねる。すると美由子は腕組みをしてムッとし、
「もう帰ろうと思っていたらさ、照のバカがさ……」
と言いかけ、
「あ、そうか、あやねも風間君を追いかけて来たのか」
一人で納得し、頷いている美由子にあやねは呆れながらも、
「勇太が戻っているの? どうして?」
あやねの問いかけに美由子は更にヒートアップし、
「照の奴、風間君が道明寺さんをおんぶして保健室に行くのを見て、ついて行ったのよ」
「ええ!?」
あやねは衝撃の事実を知り、また硬直しそうになった。
(勇太が道明寺さんと保健室にって……)
頭がパニックになりかけている。どういう事なのか考えてみるのだが、意味がわからないのだ。
「え、知らなかったの、あやね?」
今度は美由子が驚いてしまった。あやねは両手の拳を握りしめて、
「勇太ァ!」
と走り出した。
「あ、待ってよ、あやね!」
美由子は慌ててあやねを追いかけた。
(嫌らしいんだから、バカ勇太!)
あやねは激しく勘違いしていた。
応接室では、坂出と森石が二人掛けのソファに向かい合って座り、天馬理事長と平松教頭は一人掛けのソファに座っていた。
「では、本題に入らせていただきますね」
森石が言うと、坂出は森石を睨みつけるように見て、
「はい」
森石はフッと笑って、
「今日の正午頃、違法駐車中の乗用車が炎上するという事件がありましてね」
炎上という言葉に坂出は思わずピクンとした。
「警察と消防に通報がありまして、所轄が捜査を開始しました」
その言葉に坂出は再び超感覚で森石の五感を探った。しかし、森石の五感はまるでバリケードに囲われたように何も見えて来ない。
(こいつ、能力者なのか? どうしてこいつの感覚が探れないんだ?)
坂出は森石に脅威を感じた。
「目撃者の証言から、現場にいたと思われる人物の人相風体を割り出し、付近に聞き込みをかけたところ、どうやらこちらにお勤めの先生らしい事が判明しましてね」
森石はすでにそれが坂出だと分かっているにも関わらず、故意に明かさない。
(こいつ、面白がっているのか?)
坂出は森石に聞かれるのではないかと思えるくらい鼓動が高鳴っているのを感じていた。
「坂出先生にお尋ねしますが、その時間、貴方はどちらで何をされていましたか?」
森石は確信を持って尋ねた。
(ホシはこいつに間違いない。さあ、答えろ)
森石は右の口角を少しだけ吊り上げ、坂出を見た。
「その時間なら、坂出先生は私と一緒に食事をしていましたよ」
平松教頭が代わりに口を開いた。その意外な証言に森石ばかりでなく、坂出も仰天していた。
「え? 間違いありませんか、教頭先生?」
森石は苦笑いをしながら尋ねる。しかし平松は微笑んで、
「間違いも何も、今日のお昼の事ですよ。その程度の時間で記憶違いをするほど私は年を取っていませんよ」
「はあ……」
自信に満ちた平松の返答に森石は二の句が継げない。
「あら、それならその現場にいた人物は坂出先生ではあり得ませんわね、刑事さん?」
天馬理事長が微笑んで言い添える。森石は愕然としてしまった。
(そんなバカな……。こいつら、口裏を合わせているんじゃないだろうな?)
森石は平松と坂出を見比べた。坂出には幾分動揺の色が見受けられるが、平松は真っ直ぐに森石を見ており、嘘を吐いているようには見えない。
「わかりました。目撃証言を洗い直す必要がありますね。失礼しました」
森石はサッと立ち上がると、逃げるように応接室を出て行く。
「お手間をとらせました」
彼は静かにドアを閉じると、足早に廊下を移動した。
(どういう事なんだ? あいつじゃないのか?)
森石は坂出を見た時、
(こいつで間違いない)
と確信したのだ。それなのに思わぬ展開になり、訳がわからなくなっていた。
(道明寺かすみの周りにはいつも妙な力を持った連中が集まるからな)
森石は歯軋りしながら廊下を進み、玄関を目指した。
坂出は平松と理事長に余計な時間をとらせてしまった事を詫び、応接室を出た。職員室に差しかかろうかという時、ボスから携帯に連絡が入った。
「はい」
坂出はボスの言葉を一言一句逃さないように聞く。
「そういう事でしたか。助かりました。ありがとうございます。はい、これからは細心の注意を払います」
額と首に嫌な汗を垂らしながら、坂出は言った。
「え? あいつは能力者ではないのですか?」
坂出は森石が異能者だと思ったのだが、ボスの見立てではそうではないと言う。
「訓練次第では、普通の人間も意識をガードする事ができるのですか……」
坂出は、森石が特殊な訓練を受けた人間だとボスに教えられた。
「はい。以後は奴も監視します。恐らくこれからも学園周辺をうろつくでしょうから」
坂出は携帯を切り、ポケットにしまった。
(次は殺す、森石……)
坂出はギリッと歯軋りし、職員室に入った。
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