リセット

ヒズミ

第1話

曲がり角を曲がった時だった。いつもの朝の風景、学校に向かう途中の住宅街、通り過ぎる勤め人達、ゴミ置き場の近く小声で話す主婦、はしゃぎながら走り去る小学生の男児達、塀の上から動こうとしない野良猫……。全てがいつものように流れゆく時間、何の変哲もない朝のはずだった、あの曲がり角を曲がる迄は。


 そこには高校の正門まで真っすぐに続く道があるはずだった。道の両側には文具店やパン屋が軒を連ね、朝の緩やかな喧騒を見送ってくれているはずだった。角を曲がり微かな違和感を感じた僕はふと振り返りゆるやかに視線を流した。何もない。違和感など何もない、はずだ。


 しかし彼はソコに居た。


 脚を組んで見えない椅子に座っているようだった。僕の右足は今彼の右足爪先の上に立っていた。僕は知らぬ間に彼の脚を踏みつけていた。突然彼の存在は空間に割り込んできた。僕は脊髄反射レベルの短時間で疑問を捨て去る。


 彼は大体いつでも僕の身の回りに居た。常に居た。彼は隠せていると思っていたようだが、自分は全部知っていた。でも眼に見える形で現れたのは実に3年半ぶりだった。彼は今またなにかを喋り出そうとしていた。


 再び視線を目指す正門に戻そうとした時、やはり視界の端で鮮烈な違和感を感じ取った僕は、今度は瞬時に左手を振り返った。


---


彼との出逢いはかれこれ8年前になる。彼は9歳になったばかりの僕の目の前に突然現れた。まさに突然現れたのだ。僕が友達のケージ君とキャッチボールをして遊んでいた夕暮れの道路。ケージ君の暴投を追いかけて叢に踏み入った時、完全に視線を地面に落とし切っていた僕の前に立っていた。僕は彼の爪先から順に頭の先までゆっくりと見上げていった。初めて彼に逢った時、ゆるりと僕の顔の覗きこんでこう言った。


 「潰したいやつを教えなよ。潰してきてやるからさ。俺はお前の為にやってやるんだよ。お前を楽にさせる為に。さあ、教えなよ。名前を口にするだけでいいんだからさ」


 彼は夕闇を引き連れて行進する者に見えた。不自然に細く長い体は硬い金属のようであり、哀れに華奢な体のようでもあり、アンバランスさがなんだか気持ち悪かった。躰の表面はヌルリと湿っているようで艶っぽかった。灰色っぽい色は服なのか皮膚なのか良く判らない。彼の体の輪郭から闇が周りの空間に滲み出して、辺りを茫漠とした虚無に変えてしまうような気がした。


 僕はみるみる怖くなって、でもきっとこれは冗談で僕をからかっているんだと空元気で強がろうとしたが、恐怖に怯えきった僕は誰かに助けを求めずには居られなかった。


 「助けてケージ君!」


 その瞬間ケージ君は、僕の背後でギギギッと喉を鳴らした。慌てて振り返った僕の目に写ったのは、地味な破裂音を発して吹き飛ぶケージ君の頭だった。頭を失った体は、まだ生きているみたいにゆっくりと跪きやがて不格好な形でうつ伏せに倒れて行った。全てがスローモーションに見えた。ケージ君の頭は、その面影を失っていた。


 僕はただ怖かったんだ。何故ケージ君の名を呼んだのか。混乱した僕の脳は、さっきまで遊んでいた級友の名前しか意識上に提示出来なかったのだろうか。それともやはり、彼の言葉は冗談だと高をくくっていたのだろうか。彼は表情を変えずにでもどこか嬉しそうな響きで言った。


 「な、出来たろ。な。な。お前の為にやってやったろ。お前は刹那に向かい合い過ぎているんだよ。気にするんじゃないよ。俺が名前を聴いてやる時には素直に教えなよ。な。な。ついでに潰したヤツ。無かった事にしておいてやったからさ」


 彼は溶けるように滲んで消えた。残されたのはケージくんの首から下だけだ。辺りには潰れた苺みたいなものが散らばっていた。脚と手が変な形に折れ曲がっていた。彼が消えた辺りに、探していたボールがあった。


続く■■

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