第20話 破滅の使者ミザリオル

 沙耶はそれを見ていた。次郎太の背後に突如として開かれた沙耶自身が作った物よりも大きく深いブラックホールが彼を飲み込み消滅させるのを。重力の乱れに歪む空間の向こうに、舞い降りる小柄な少女の姿が見えた。

 赤い長い髪をし、小奇麗な制服を着たその少女を沙耶は知っている。誰かに教えてもらったわけではない。沙耶の中にいた虚無がそれを知っていた。


「あたちを崇めるものを手助けしてやろうと思っていたのでちゅが、少しばかり遅かったようでちゅねえ」


 何食わぬ顔でそんなことを言ってのける。見た目はただの幼い少女にしか見えないが、その本性は恐るべき虚無の神。宇宙の三大脅威の一人、破滅の使者と呼ばれる存在。


「こいつを……こいつを……」


 あたしは倒さなければならない。それがゼツエイの望みだった。飛鳥との戦いもその為に仕組まれたことだった。自分が破滅の使者と戦えるために。全てはこのために……

 だが、どうしようも無かった。全てが無意味と思えた。目の前にあるその存在はあまりにも強大で絶望的に過ぎたのだ。


「ミザリオル」


 沙耶はただ口を震わせて、その名を口にすることしか出来なかった。

 少女の視線が今気づいたといった感じに沙耶の方へと向けられる。その静かな瞳が何かの感情を強く宿していく。


「神を呼び捨てにするとは何様のつもりなんでちゅねえ、チミは」

「神?」

「そう、神でちゅ。このあたちこそがこの宇宙に君臨する絶対にして全能なる神様! 知らなかったのならばよく覚えて、これからは態度を改めることでちゅね」


 言われなくても沙耶は知っていた。神と名乗った少女は不機嫌そうな顔になった。


「聞こえなかったんでちゅか? 態度を改めろと言ったんでちゅよ。神を前にしてちょっと頭が高いんじゃないでちゅかねえ!」


 そう言うとともに見えない力が沙耶の体を頭上から押さえ込みに掛かってくる。その力を沙耶は知っていた。

 ミザリオルは凄まじい重力を操る能力を持っている。

 だが、そうと知ったからと言って対処する手段と力は今の沙耶には無かった。沙耶はその重さに膝をつき強引に頭を下げさせられてしまった。

 思い通りの態度を取らせたことで、ミザリオルは気を良くして笑った。


「よしよし、これで態度だけは一丁前になりまちた。しかし、精神の方はどうでしょうね。一つ質問しますが、チミは人の心を改めさせるには何が一番効果的であるか理解していましゅか?」

「それは……恐怖とか痛みとか?」


 沙耶は破滅の使者と異名をとる彼女が望みそうなものを挙げて答えたが、神はそれに軽蔑するような目を向けただけだった。


「チミは阿呆でちゅか? そんな物で改心する阿呆がどこの世界にいるというんでちゅか? まあいいでしゅ、チミがそこまで無知だというのならば教えてあげましょう。それはね。音楽でちゅよ、音楽。音楽こそがどんな愚かで阿呆な者の心をも響かせ感動させる古来より伝わる神聖な物なのでちゅよ。では、分かったらチミもこの神の音色を聞いて悔い改めるといいでちゅよ」


 少女が笛に口を付け、その演奏を始める。沙耶の耳に決して上手いとはいえない調子外れな音色が届いてくる。




 沙耶は思わず呆気に取られてしまった。

 そして、このまま待っていればもしかしたら脅威は何事もなく過ぎ去るのではと思ってしまった。

 だが、すぐに頭を振ってその愚かな考えを打ち払う。

 それでは何の意味もない。自分は彼女を倒すためにここにいるのだ。全てはそのために進められてきたのだから。

 もし、ここで動かなかったら自分のやってきた全てが無意味となってしまう。そんな恐怖にすら駆られていく。

 行動するなら決断は早くしなければならない。今のうちに勝負を決めなければ、この演奏が終われば神は次の行動を開始してしまうだろう。

 そうなると手に負えなくなってしまうかもしれない。沙耶はせめてもの先手必勝に勝機をかけた。


「ミザリオルーーーー!!」


 意識を奮い立たせ、わずかに残った気合をも振り絞り立ち向かった沙耶の放った光弾は、しかし、静かに笛を吹く少女に届くことなく、その手前で音もなくかき消されてしまった。まるでそこに見えない空間への入り口があって、そこへそのまま送られているかのように。


「これは虚無の力」


 ミザリオルの持つ途方もなく大きなその力。その恐ろしさを感じずにはいられない。

 沙耶の力は笛を吹く少女を微動だに反応させることすら出来ない。なんて無力なんだろう。


「くっ、うう……」


 沙耶はがっくりとうなだれる。場にはただ笛の音色だけが流れていく。沙耶の元に兵衛門が苦痛に顔をしかめながら這い寄ってきた。


「沙耶、あの子は何者なんじゃ……」

「虚無の神、宇宙の三大脅威の一人、破滅の使者ミザリオル……」

「聞いたことの無い名じゃな」

「おじいちゃん、逃げて! あいつはあたしが倒」


 沙耶は言いかけた言葉を飲み込んだ。耳に届いていた演奏が止められていた。緊張の面持ちで見つめ返す。

 指を止め、笛をくわえたままの少女の瞳がじっとこちらを見ていた。沙耶は震えていた。これほどの恐怖を感じたことは今までに一度も無かった。

 ゼツエイの襲来、ベルゼエグゼスとの出会い、飛鳥との対決――それら全てが稚戯にも思えるほどの圧倒的な威圧感。神の存在。

 兵衛門は何故沙耶がこれほど怯えているのか分からなかった。彼にとってミザリオルとはただの幼い少女としか写っていなかった。田舎の玄関先で飛鳥と始めて会った時のような戦場の匂いも彼女からは感じなかった。

 目を伏せ、ミザリオルはゆっくりと笛を下ろした。そんな他愛のない動作ですら沙耶にとってはあまりに恐ろしいものに見える。

 神が口を開く。大げさに肩をすくませながら呆れたように言う。


「三大脅威、破滅の使者。そのような呼び方はあたちはあまり好きではありましぇんね。この神がなぜどこの馬の骨とも知れぬボウフラのごとき他2名と同列に扱われるのか、宇宙を創造した最古の神々の一人であるこのあたくちが、なぜ破滅の使者などと呼ばれなければならないのか。はなはだ理解に苦しむことでちゅ。まあ……」


 ミザリオルの瞳が再び沙耶の方を見た。その顔は笑っていた。


「それも、人間がどうしようもなく愚かで小さい生き物ならば仕方ないこととあきらめねばならないことかもしれましぇんけどね。神が脅威であると認識されるのも人間が無力でちっぽけな存在だからと許す寛容さも必要なのかもしれましぇん」


 良かった。神は怒っていない。沙耶は戦うことが目的だったはずなのにそう安堵してしまう。

 だが、続く言葉とその行動はその沙耶の安心を一瞬にして凍りつかせてしまった。


「ところで、この辺りの星では仏の顔も三度までという言葉があるそうでちゅね。まあ、神と仏では全く別種の存在なのでちゅが、そこはあえてこの神の一存で全く無視してさしあげてもいいでちょう。神は寛大なのでちゅからね」


 少女が足を踏み出す。あろうことかこちらに近づいてくる。沙耶は心の中で必死に逃げようと思いながらも動くことが出来なかった。

 神が近づいてくるなんて。こんなことがあっていいのだろうか。まさに蛇に睨まれた蛙。いや、大いなる神に目をつけられた小さき愚者のごとき状態。

 指一本ですらも自由が効かない。こんなことがあるなんて……

 沙耶は尻餅をついて床に倒れてしまう。来ないで……言葉が出ない!

 博士はどうしてこんな奴に勝てるなんて思っていたのだろう。今更ながらに今ここに見えない優しげだった父の顔を思い出す。

 宇宙の三大脅威なんて……強すぎるから脅威なのに……こんな奴があと二人もいて……宇宙に存在している……関わらなければ! 会わなければ良かったのに!

 後悔してもどうにもならない。時は遅すぎのだ。

 少女が沙耶のすぐそばで立ち止まる。何の気もなさそうに見下ろすその表情がすぐに邪悪な笑みを形作る。

 体を前に出せば神に触れられる。あまりにもな恐怖を前にそんなことまで思ってしまう。


「心のひろ~いあたくちは」


 神は何を話しているのだろう。沙耶の意識はすでに遠のきかけていた。それを繋ぎとめているのはミザリオルのあまりにも強すぎる視線だ。それは沙耶を捉えて逃がさない。


「そこを考慮してチミの無礼をち~っとも気にせずに我慢してあげたんでちゅよ。さ、ん、ど、もね。それが何か、分かりまちゅかねえ」

「なんじゃ」


 横から誰かの声がする。手を誰かが握ってくれている。遠のきかけた沙耶の意識が戻ってきた。それは長い間ずっと一緒に暮らしてくれた人。


「おじい……ちゃん」


 沙耶の目から涙がこぼれる。わずかにだが暖かいものも感じていた。神はあきれたようにため息をついた。


「は~、分からないんでちゅか~、しょうがないでちゅね~、お馬鹿さんでちゅね~」


 目を閉じ幸せそうに語っていたが、すぐに鋭い目つきとなって睨み降ろしてくる。


「神の名を呼ぶ時は「様」を付けなしゃい! 「様」を! ミ、ザ、リ、オ、ル、様! それが分からないお馬鹿さんは飛んできなしゃ~~~~い!」


 不意に体の下に巻き起こった激しい重力に突き上げられ、沙耶と兵衛門はまとめて天井高くまで吹っ飛ばされていった。

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