サリーちゃんの不浄の左手

のらきじ

第1話:悪霊溢流

 あれ、なんだろう。なんだかすごく女子に抱きつきたくなってきた。おかしいな、さっきまで全然女子のことなんて考えてなかったんだけど。今日の晩御飯のことを考えていたはずなのに、階段を登っているうちにどんどん女子に抱きつきたくなってきた。

 手が、指が勝手にわさわさ動く。もう我慢できない。女子は、女子はいないかと二階の廊下にとび出すと、一人いた。同じクラスの美浜薫子だ。クラスで一、二を争うというほどでもないが、まあまあ可愛い方だと思う。全然イケる。飛びかかる。

 飛びかかる?

 僕は何をやってるんだろうと思うが、足が加速するのを止められない。美浜は僕に気づいてビビっている。そりゃあビビるだろう。廊下の向こうから自分めがけて男子が突っ込んでくるのだから。口を半開きにして、よだれが垂れているのが自分でも分かる。まるでゾンビだ。理性のかけらもない。どうしたっていうんだろう? 僕はそんなに女子に飢えていたんだろうか? 古本屋でちょっとエロい漫画を読むだけでけっこう満たされていたと自分では思い込んでいたのに、実は飢えていたんだろうか? どうでもいいや、とりあえず抱きついてから考えよう。あともう少し、手が届く。なんだ? 美浜の両腕がこちら側に伸びてくる。まさか迎え入れてくれている? そ、そんなうまい話があるのか? もしかして僕が女子に抱きつきたくなっているのと同じように、美浜も男子に抱きつきたくなっているのでは? ならなんの問題もないな。わーいみはまー。美浜の両腕が僕の胸ぐらを掴んだかと思うと、目の前からフッと姿が消える。あれ、どうしたんだろうと思う間に体が下に引っ張られる。みぞおちを上履きで踏みつけられ、勢いを殺せないまま僕の体はつんのめり、絶妙のタイミングで美浜の両手が胸ぐらから離れ、宙に飛ばされる。

 あ、これって巴投げだ。そう気づいたときには取り返しがつかないほど僕の背中は廊下に近づいていて、受け身を取ることもできなかった。

「おうっ」

 背中と後頭部を硬い廊下に打ち付けて、変な声が出た。痛い。それ以上に息ができなくて苦しい。

「きれいに決まったなぁ」

 見上げると、美浜が腕を組んで僕を見下ろしていた。ほんのりと頬が上気している、満足感と興奮が見て取れるいい顔だった。

「なあ水島くん。うち、こんなに柔道やっててよかったと思ったん生まれて初めてやわ」

 美浜はにこにこ上機嫌で僕の脇腹を蹴りつけてきた。

「おうっ……ぐ……ちょ……死ぬ……って」

 何度も何度も蹴りつけてくる。痛い。苦しい。しかしまだ僕の性欲は死んでいない。さっきから美浜が脚を振り上げるたびにスカートがめくれてパンツがチラチラ見えているのだ。白い、白いぞ。まだ、まだ終わらん。まだ終わらんよ……。

「そうかそうか、これだけ蹴ってもまだ立ち上がる気ぃか。さすが男子はタフやなぁ」

 美浜が蹴ってくる位置がだんだん下腹部の方に下がってくる。まだ下がる。え? 嘘だろこの女あまりにも容赦がなさすぎる。

「あ、ちょっとそこは……おっ……」

「あっは。くねくねしとおる」

 あまりの苦しさで気が遠くなってきた。

「潰されたくなかったら死ぬ気で守りや」

 七転八倒しながら必死で股間を押さえるも、容赦のない上履きが間隙を縫って襲い掛かってくる。転がりながら逃げるうちにいつの間にか階段にまで追い詰められている。まずい状況だ。股間を蹴られて死ぬか階段を転げ落ちて死ぬかの二択が発生してしまった。

「往生っせぇ」

 二択など許さない。股間を蹴った勢いでそのまま階段の踊り場まで落としてやるといわんばかりの勢いで脚を振り上げた美浜は――

「先輩?」

 踊り場から聞こえてきた女子の声によって、暴虐を中断した。

「はひ……はひ……」

 悶え苦しみながら下の方を見ると、見覚えのある浅黒い肌の女子が心配そうにこちらを見上げている。一年生の野原サリーだ。小学校までインドで育ったハーフで、日本語と英語ペラペラの天才児として学校中で有名な存在である。新聞部の特集記事によると親の再婚で日本にやってきたそうで、将来の夢はお嫁さん。好きな芸能人はきゃりーぱみゅぱみゅで、嫌いな食べ物はパセリだという。なんでこんなに細かく覚えているかというと、いかにもインド人って感じの目鼻立ちのくっきりした美人さんだからだ。背が低く痩せてはいるが、セーラー服から伸びる脚の形がなかなかよい。もっと近くで見てみたい。見てみよう。痛みと苦しさで立てないから階段を這いずっていこう。

「うーうー」

「っひ」

 サリーちゃんは口元に手を当てて、怯えた様子で僕を見つめた。

「どうしたんですか、この人」

「いちおうクラスメイトやねんけどな」「うっ」美浜は僕の背中を踏みつける。「なんか知らん、さっきからサカってるねん。ものすっごいいやらしい顔しながら抱きつこうとしてきてな。まあ見事に返り討ちにしたったけど。やっぱりうちって強いな」

 サリーちゃんは美浜の自慢を聞き流しながら階段を登ってきて、僕の目の前でしゃがみこんだ。

「――どうやら、悪霊に取り憑かれていますね」

「あ、あくりょう?」

 美浜は素っ頓狂な声を上げた。「いきなり何言うてんの? 悪霊ってあれやろ。河童とかねずみ男とか」

「それは妖怪」とツッコミながら顔を上げると、またパンツが見える。体に力がみなぎってくる。「あ、こいつ暴れるな! この! この!」もはや美浜の蹴りなど怖くはない。このまま脚をつかんで引きずり倒して抱きついてやるぞ。

「こういうときジャパニーズだとどう言うんでしたか」

 階段で死闘を繰り広げる僕と美浜を尻目にサリーちゃんはなにやら考え込んでいたが、

「何語でもいいですね。ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーてい」とおもむろに呪文を唱え、僕のこめかみから耳の裏にかけてを右手で思い切りビンタした。

 びたん、ととんでもない音が鼓膜を襲った。首ごと持っていかれて、階段の角に頭をぶつける。一瞬気が遠くなったあと、不意に体が軽くなった。

「うわ、うわ!」

 美浜が、ぼんやりとよだれを垂らす僕の向こうを指差す。振り返ると、すぐ後ろで階段に倒れ伏している、青白い男と目が合った。

「……っひ」

 なんだこいつ。いったい何処から現れたんだ……? 

 青白い男にはまぶたがなく、眼球がむき出しになっていた。足りないものはまぶただけじゃない。口には唇がなく、欠けた前歯が丸見えになっている。首の皮がめくれていて、まったく血の気がない白い肉と黒い血管も見える。服は着ていない。手足や背中にはえぐり取られたような深い傷がある。男は階段にぐったりと身を横たえて、眼球だけをぐるぐる動かして僕や美浜を覗きこむ。怖いなんてものじゃない。立ち上がって逃げたいのに、足に力が入らない。とっさに手近にある美浜の太ももにすがりつく。美浜もすっかり固まってしまって、顔面蒼白になりながら口をぱくぱくさせている。

「悪霊ですね」サリーちゃんは怖がる様子もなく、さらりと言ってのけた。「とりあえず先輩のクラスメイトさんから追い出してみたはいいものの、ここからどうするか、それが問題です。クエストです」

 サリーちゃんに状況を説明してほしかったのだが、踊り場の方にいる彼女に視線を向けようとすると嫌でも青白い男のギョロ目と目が合ってしまうので、それが怖くてどうにもならない。顔を上げて美浜のパンツでも見てるしかない。――見ているうちにだんだん落ち着いてきた。「うち……あかん……幽霊とかあかんねん……」美浜の太ももに震えが走っている。もう蹴られることはないだろう。前向きに考えよう。状況はきっとよくなっているんだ。女の子に抱きつきたいという脈絡のない欲望も、いつの間にかなくなってるし。

「なあサリーちゃん」ともかく青白い男をなんとかしてもらおう。「なんか知らんけど、お祓いとかできるんやったら、そいつ早くあの世へ送ってくれへん?」

「そこが問題なんです」とサリーちゃんは困り顔になる。「私も曲がりなりにもバラモンの血を引く女ですから除霊はできるのですが、追い出した霊は別の容れものに入れないといけないんです」

「……バラモン?」

 ってあれだろ。インドのカースト制における最上位。祭祀を司る僧侶で、とにかく偉くて清らかな人たち。一年の頃歴史の授業で習ったぞ。

「よろしければお名前を教えていただけますか?」とサリーちゃんは言った。たぶん悪霊ではなく僕に言っているのだろう。「水島俊」と僕は答えた。

「水島先輩ですね。私は野原サリーと言います。美浜先輩とは同じジュードーの道場に通っていて、仲良しです」

「そうなん。それはよかった」たしかに日本語はうまいが、ちょっと固いな。まったく関西弁が入ってないということは、何処ぞの日本語教室でみっちり学んでから大阪にやってきたのだろう。お嬢様っぽいのになんでこんな北大阪の普通の公立中学校に通っているのかはよく分からない。気にはなるけど今はそんなことより。

「悪霊をべつの容れものに入れるって、どういうこと。……この悪霊」見たくもないのにチラリと見てしまう。……目が合う。まぶたと唇のない人型がここまで不気味で怖いとは。

「こんなのが、さっきまで僕の中に?」

「そうです。あの、話しにくいので、怖がってないでこっち向いてください。いつまで美浜先輩の脚、つかんでるつもりですか」

 その一言で美浜が我に返ってしまった。「はなせ!」引き剥がされて踊り場まで蹴落とされたが、おかげで青白い男から距離を離すことができた。この位置からだと男の頭のてっぺんは見えるが、絶対に目は合わない。ちょっとだけ安心だ。

「ひぃぃぃい」美浜はいまさらのように引きつった悲鳴を上げて、階段を駆け下りサリーちゃんに抱きついた。「なんでなん。なんで幽霊なんてほんまにおるんよ。なんでそんなもん見えるん」

「落ち着いてください」サリーちゃんは右手で美浜の背中をぽんぽんと叩いた。「幽霊は何処にでもいます。善霊も悪霊も一所には留まらず、万物の中を流転しているんです。先輩には先輩の魂があって、私にも私の魂がある。だからこうして会話ができます。あの悪霊も魂の残滓なんです。体の中にあるか、外にあるかの違いだけです」

 美浜はサリーちゃんの説明で納得したのか、騒ぐのをやめておとなしくなった。僕はいまいち納得できなかったが、ともかく縋れるだけの説明セリフがあることはありがたい。それなりに落ち着ける。

「落ち着いたところで提案なんやけど」と僕は言った。「どっか別のところで話さへん? あいつ怖いし」

「そうしましょうか」サリーちゃんは頷く。「しかし、この様子では他にも……」

 なにやらぶつぶつ言いながら駆け足で階段を降りていくサリーちゃんの後ろを、必死になってついていく。美浜は美浜で「なんなん、なんなん」とスピーカーのように繰り返しながら、サリーちゃんの後ろを走る。

「なんなん何が起こってんの? 悪霊が怒ってんの? 水島くんのせいなん?」

「なんで僕のせいやねん。僕は取り憑かれた被害者やろ」

「絶対水島くんがなんかやったんやわ。いつもろくなことせんもん。こないだもこっくりさんやろーとか言って、男子グループに藤枝さん引き込んでなんかやってたやん。藤枝さんあれから電波なポエムブログを書いちゃうちょっと変な子なってるねんで。絶対水島くんのせいや」

「あれは青木と藤枝さんくっつけようと画策しただけで……ってサリーちゃんは?」

 言い争いをしている間にいつの間にかサリーちゃんの姿が消えている。戻って探すと、二階の渡り廊下のちょうど真ん中の辺りに立って、A棟とB棟の間にある中庭を見下ろしていた。

 サリーちゃんの視線を追うと、中庭のレンガ造りの小道で、ジャージを着た中年の男がぼんやりと空を見上げて呆けていた。数学教師の中畑だ。

「ああああうううう」

 奇声を発しながら両手をパタパタ鳥のように動かしている。どう見てもまともな人間の動きではない。

「取り憑かれてるんか……?」

「そうですね」サリーちゃんは煩わしげに目を細めた。「日本に来てもこの騒ぎ。何処へ行っても先祖の業カルマからは逃れられないのでしょうか」

「な、なんとかしたってや」と美浜。「たしか中畑子持ちやろ。あのまんまやとかわいそうやん」

「簡単に言わないでください」とサリーちゃんはため息を付いた。「簡単に対処できないから悪霊なんです」

 なにやら事情がありそうな口ぶりに美浜も黙ってしまったが、そうなるとかわいそうなのは中畑だった。中庭を遠巻きに見つめる生徒の数は徐々に増え、中庭に面した第二職員室の窓からも何人かの教師が覗いている。みな冗談なのかなんなのか分からず、半笑いでツッコミに困っているようだった。

「ああああううううう」

 中畑はまっすぐに首を伸ばして上を向き、鯉のように口をパクパクさせながら唸っている。

 ――ちょっと、試してみたくなってきた。

「しゃあない、僕がなんとかしたろ」

 僕は渡り廊下の手すりから身を乗り出して雨樋のパイプに手をかけ、するすると滑って中庭に降り立った。

「なんとかって、どうするつもりですか」とサリーちゃんが上から声をかけてくる。

「サリーちゃんの真似してみるわ」

 僕は中畑の傍まで駆け足で近づき、「ぎゃーていぎゃーていはらぎゃー、てい!」と呟きながら右手で思い切りほっぺたをビンタした。

 ぱちぃん、といい音。さあこれで悪霊が出てくる――はずだったのだが。

「ああああううううう」

 中畑はまるでダメージを受けていない様子で、微動だにせず空を睨んで腕をパタパタさせている。

「あかんか……」

 どうやら僕が殴っても悪霊を体から追い出すことはできないようだ。

 どうしたものかとしばらく中畑の周りをうろうろしていると、

「どいてください」

 中庭まで降りてきたサリーちゃんが、僕を押しのけて中畑の前に立った。

「ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーてい」と呪文を唱え、例によって顎の付け根の辺りを狙ったえげつないビンタをかますと、中畑は膝をくにゃりと曲げて倒れ伏し、その背後から青白い女の悪霊が現れた。

 女の顔はパンパンに膨れ上がっていた。目はほとんどふさがり、鼻は曲がり、唇は引き裂かれている。それ以上に目につくのが頭蓋骨がむき出しになった頭頂部だ。頭皮はだらりと垂れ下がって首にかかり、乾いた海藻のような髪がネックレスのように乳房を覆っている。その下の肝臓の辺りの脇腹に深くえぐられた傷がある。やはり服は着ていない。裸足の指の爪はひどい捻くれ方をしていて、どの爪も皮膚に深く食い込んでしまっている。

 怖さよりも、不安が先立つような悪霊だった。いったい生前どれほどのことをされてこうなったのだろう。

「なんでこんなもんが、学校にいるんや……?」

「他に行くところがなかったのでしょう」と、サリーちゃんは目を伏せた。



      ○


 とりあえず僕と美浜でえっちらおっちら中畑を運んで保健室のベッドに寝かせたが、悪霊については手付かずのままだ。まぶたのない男は階段で倒れ伏しているし、顔を腫らした女は中庭で腕をパタパタさせている。どっちの悪霊にも遠巻きに生徒たちが集まっていて、騒ぐ声から察するに写メを撮ったりつついてみたりしているようだ。

「幼い反応です」とサリーちゃん。

「日本ではよほど悪霊が珍しいのですね」

「インドにはたくさんいるの?」と僕。

「たくさんいます。善霊も、悪霊も。騒々しくて嫌なくらいに」

 サリーちゃんは両手を広げ、自分の右手と左手を交互に見つめた。

「サリーちゃん」と美浜が一歩踏み出した。「ややこしい事情があんのかもしれんけど、うちでよかったら話してや。悪霊のことはそれから考えよ。ほっといたらなんとかなるかもしれんしな。日本にだって偉いお坊さんたくさんいるねんから、その人らに任せたらええねん」

 いいこと言うな。事情は知りたいけど悪霊にはなるだけ関わりたくないという本音がさらりといい感じに表現されている。

「ややこしい、というほどでもありません」サリーちゃんは空いているベッドに腰掛けた。「私は父からバラモンの力を受け継いでいるのです」

 サリーちゃんはそう言うと、右手を伸ばして掌を上に向けた。すると、ほのかな白い光が指の先から手首にかけてを包みこんでいく。

「うわすご、光ってる」

「破邪の白光インドラです。本気を出せばもっと光ります」サリーちゃんは少し得意げだった。「私の右手には悪霊を追い払う力があります。気合を込めて取り憑かれている人を叩くと、悪霊が出ていきます」

「あんなおもいっきりビンタする必要あるの?」

 僕はまだひりついている左顎の辺りを撫でる。

「悪霊は生き物に寄りつきたがるものなんです」とサリーちゃんは答えた。「ちょっと撫でたくらいでは出ていってくれません」

「あのぎゃーていぎゃーていって言うのは?」

「古代サンスクリット語で、悪霊よ立ち去れ、というような意味の掛け声です。父の真似です」

「あー、悪いの悪いの飛んでいけ、みたいなもんか」

「それを言うなら痛いの痛いの飛んでいけやろ」と美浜が突っ込んできた。「それやとプリキュアになってまうやん。あ、そうか。あんた幼少期にフレッシュプリキュア見てた口やろ。キュアベリーちゃんがお気に入りか。んん?」

 こいつ柔道バカと思ってたけど意外と鋭いな……。

「今そんな話どうでもええやん。サリーちゃん困ってるやんか」

「プリキュアってなんですか?」

「今度うちに遊びに来ぃ。昔録画したの見せたるから。あんたも来るかプリキュア大好き男」

「あんまりバカにするとほんまに行くで」

「あっは、きも。ええっと、何の話をしてたんやっけ」

 へらへら笑う美浜の肩にぽんと手が置かれる。保険医の西野先生だ。

「こら、静かに」

 西野先生は三十路ぐらいの人妻で、マッシュルームカットのよく似合う小奇麗な人なのだが、なんだか様子がおかしい。着ている白衣のあちこちに絆創膏を貼り付けているのだ。胸、腹、腕、裾。満面なくべたべたと。

「せ、先生?」

 美浜は異常を感じて立ち上がろうとしたが、西野先生は肩を強くつかんでひるませた。

「静かにって言ってるでしょおおおいつもいつもいつもいつもさわいでえええええええええええ」

 つんざくような怒鳴り声が部屋中に響く。耳をふさがずにはいられない、スピーカーで拡散したかのようなとんでもない音量だった。間近で食らった美浜は必死で耳をふさごうとするが、西野先生は美浜を羽交い締めにして「ちゃんとききなさあああああああいいい」と耳元で怒鳴りつけた。「病気の人が寝てるでしょおおおおおおお、なんであんたたちは人の気持ちをおおおおお、考えられないのおおおおおおおおおお」ていぎゃーていはらぎゃーてい!」

 いつの間にか西野先生の後ろに回りこんでいたサリーちゃんが、食い気味の呪文を唱えながら後頭部を殴りつけた。西野先生はその場に崩れ落ちたが、現れた悪霊はまだ、美浜を離そうとしない。

 ひどく痩せた、骸骨と見まごうような男の霊だった。ひび割れた唇を開いて何かを叫んでいるが、声がかすれきっているせいで、言葉になっていない。まったく脂っけのない体つきと、粉を吹いたようなフケだらけの頭と、シワだらけの顔。

 ああ、そうか。きっとこの男は、あまりに乾いて死んだのだ。喉が乾ききってしまって、もう声も出ないのだろう。

「なんなん……なんなん……」

 悪霊は怯えてうずくまる美浜の背中に食い込んでしまっている。

 サリーちゃんは、今度は右手を使わなかった。左手で悪霊の首根っこをひっつかみ、美浜から引きずり出して部屋の隅に投げつける。

 悪霊は紙切れのようにひらひらと回転しながら床に落ち、そこにぴたりと貼り付いて、動かなくなってしまった。

「深刻です」とサリーちゃん。「理由は分かりませんが、この学校に潜んでいた地霊が活性化しているようです」

「地霊?」

「善悪とはべつの区分で分類すると、地霊、になるはずです。馴染んだ言い方だとピシャーチャといって……。日本語難しいです。幽霊、地霊、亡霊、地縛霊、ニュアンスが多すぎます」

「地霊って言い方やと、人じゃなくて場所に取り憑いてる霊ってことになるな」

「地縛霊との違いはなんですか?」

「えーっと、地縛霊っていうのは、固有名ついてて特定できるねん。例えば猫が交差点で車に轢かれたとするやん。その轢かれた猫が交差点に化けて出るのが地縛霊。地霊っていうのはもっと曖昧で、なんで化けて出るのかとかは、よぉ分からんねん。でもとにかく特定の場所にこだわってて、そこが幽霊との違いやな。ちなみに亡霊は地縛霊から土地の縛りを抜いたようなもんで、固有名付いてて特定できる幽霊な」

「アイシー。なら、それで合っているようです。原因は地霊です」

「ってことはこいつら、学校に……?」

 乾いた悪霊はダンゴムシのように体を丸めて、すっかりおとなしくなっている。一方美浜はきょどっている。悪霊の方を必死で見ないようにしながら、両手を伸ばしてサリーちゃんを探している。

「サリーちゃああん、どこぉ」

「今の私にさわってはいけません」サリーちゃんはすがりつきたがる美浜から距離をとった。「左手で悪霊にさわってしまいましたから。さわると先輩も穢れてしまいます」

「穢れる……?」

「私の右手はバラモンの浄化の力を受け継いでいるのですが、左手はそうではありません」サリーちゃんは自分の左手を見つめながらそう言った。「受け継いだのは悪霊と同化する、不浄の力です」

 サリーちゃんが両方の掌をパンと打ち合わせると、小さな黒い球状のものが指の間からふわりと浮き上がった。トトロのまっくろくろすけそっくりだが、可愛い目ではなく、大きな歯がびっしりと生えた口をパクパク動かしている。

 黒い塊は床に落ちると、そのまま沈み込んで見えなくなった。

「今のは?」

「穢れです。これでも全て払い落とせるわけではありませんが」

 浄化の右手と、不浄の左手……?

 何処かで聞いたような覚えはある。インド人は食事や握手に右手を使い、左手を使うことは絶対にしないと。

「てっきり左手でうんこ拭いてるからと思っててんけど、もっといろいろあるみたいやな」と言うと、サリーちゃんは僕を冷たい目で睨んだ。

「いじわる言うと、さわりますよ」と左手を向けてくる。改めて見るとなんという圧力だろう。細い指の一本一本に禍々しい気配がうごめいている。

 じりじり距離を取って睨み合っているうちに、美浜がサリーちゃんに抱きついた。

「ホワイ、美浜先輩?」

「そんなん気にせんでええ。うち、もうさっきしっかり悪霊にさわられてるから。気にしたっていまさらやん」

 それも道理か。

「僕も気にしてへんよー」と近づいてサリーちゃんの左手を握ろうとしたが、美浜の脚に蹴っ飛ばされた。

「あんたは穢れの塊やからサリーちゃんにさわったらあかんの」

「ダブスタやな」

 しょうがないから丸まったままの悪霊に近づいて、よく観察してみた。他の悪霊と同じく全体的に青白いが、皮膚から透けて見える血管だけはどす黒い。血ではなく、それこそ穢れが中につまっているのかもしれない。

「えーっと、つまりどういうことなん」僕はサリーちゃんに尋ねた。「人に取り憑いた悪霊を追い出すときには右手を使って、左手は?」

「左手は、悪霊に干渉できます。掴んだり、わざと取り憑かせたり」とサリーちゃんは答えた。「右手では形を与えて弾き飛ばすことしかできないんです」

「ややこしいな」

「仕方ありません。家庭の事情です」

 そういやサリーちゃんの苗字は野原だったよな。まさか日本人がバラモンになれるわけでもないだろうし、母親が日本人で、母方の苗字を名乗っているということか。

「左手の方の力はバラモン由来じゃなくて、母方の日系の力ってことなん? お母さんが巫女さんとか尼さんとか?」

「いいえ」サリーちゃんは俯いて少し言いにくそうにしたが、やがて決然と顔を上げた。

「母は不可触民です」

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