第27話 落城
石川当たりの河川敷へとたどり着いた桂は、野田川の右手対岸に石田城を見上げた。
山のようすからすると、どうやら細川軍はまだ石田城へは進軍してきていないようである。
しかし、そのはるか右手後方には、おびただしい量の黒煙が西の空から東へと向かって棚引いているのが見える。
桂は
「もはや弓木も落とされたか・・・」
一瞬北の空を見上げて立ちつくす桂ではあったが、いつまでもそうすることを許されるわけではなかった。
「里、与六、吉之助・・・」
心の中で何度も彼らの名を叫びながらも、桂は再び野田川をただひたすらに弓木城とは反対の方角へと駆け続ける。
「里、落ち延びてくれ・・・」
桂は
事実、確かにこの時、弓木城は今まさに細川方の総攻撃を受けようとしているところであった。
しかし、桂が思ったように城は落ちていたわけではなく、弓木城が完全に
つまりは、桂が見た黒煙は、弓木城の中に細川方と内通した者が家屋へと火を放ったものであったのだ。
細川軍はそれを合図に、野田川を渡り東の斜面を一気に駆け上ってきたのである。
それでも城に残された松田
頼道は弓隊を率いるや、東
そこには、まさに一進一退の攻防が繰り広げられていたのである。
それでも圧倒的兵力に勝る細川軍はじりじりとその間合いを詰め、ついには東門の一部が開けられた。
そこから雪崩れ込むようにと兵が東曲輪へ歩を進める。
鉄砲狭間の弓隊も細川軍の鉄砲隊の前にはいささか歯が立ちそうもない。ひとりまた一人と
弓隊の指揮を執っていた松田頼道は、弓の
それでも彼は弓を槍に持ち替えるや、最後まで弓隊を
弓隊の最後のひとりが細川方の銃弾に倒れると、頼道はその場へと座し、静かに眼を閉じた。
頼道の首は、一番最初に東曲輪へと上がって来た若い兵によって討ち取られた。
弓隊の全滅を知るや、ついに赤井五郎は城兵の中から決死隊を
矢玉をも恐れない彼らの決死の
それは、東門より進入したほとんどの兵が、もう一度門の外にまで追いやられるほどでもあったのだ。
さらに五郎は東曲輪へも進もうとしたが、ここで細川方の鉄砲隊の
再び鉄砲隊が彼に的を絞ったが、五郎は曲輪の真ん中で刀を杖代わりにしながら立ったまま息絶えていた。
その頃、北側の堀切でも壮絶な命のやり取りがなされていた。
一度は岩滝城からの加勢を受けた一色軍が優勢を極めたが、それもそう長くは続かなかった。
細川方の別働隊が若狭湾を渡り岩滝北城へと侵攻したからである。
退路を断たれる形となった岩滝勢は、一目散にと城へ引き返した。これを期に形勢は一気に逆転することとなる。
東曲輪と本丸曲輪の間の
前面からはおびただしい数の敵兵が迫って来る。敵を防御するはずの堀切が、今では自分達の退路を断ってしまうことになっているのだ。
十分な武器を持ち合わせない藤一郎らは最後の覚悟を決めた。
皆、手に手に
敵兵はそんな藤一郎らを取り押さえると、ある者は大石で頭を割られ、またある者は北側の崖から投げ落とされた。
藤一郎は首縄をつけられ、さんざん引き回された挙げ句に、最後は本丸曲輪の
こうして弓木のほとんどが細川勢によって制圧されるのを見届けると、城主稲富直秀もまた、ひとり城の中で自刃して果てたのである。
それは桂が最初の黒煙を見てから、
こうして
しかしこうした中、生き残った者が居ないわけでもなかった。
一色義定の家臣にあって唯一小西
何故ならば、一色義定が細川
それは、義定の妻である藤の方、つまりは
細川幽斎からの招きの意味を
そこで秘密裏に伊也姫を細川方へと送り届けるこの役を、小西宗雄に託したわけである。
結局彼は、見舞いへと向かう殿を見送るという
半日をかけ宮津へと到着した一行は、直ぐさま幽斎の部屋へと通された。
途中、細川家の家臣によって宗雄だけは別の部屋へと招かれたが、伊也姫がそれを許さなかった。ことの成り行きに多少の違和感を覚えた彼女の
細川幽斎の部屋には、すでに
忠興は伊也姫を見るや、何とも
伊也姫は幽斎の前へ進み寄ると、ことさら深々と頭を下げた。
姫が見つめる畳の
血生臭いのである。
何とも言えぬ体臭が、その部屋の空気を重苦しいものに代えているのだ。
そして、それは小西宗雄にも瞬時に感じ得ることができることだった。
彼は全神経を両耳に集中させると、襖の向こう側にいる複数の息遣いを感じ取っている。
「一色家の者には別の部屋を用意させたはずだが・・・」
姫の後ろに
「この者ならばかまいません」
伊也姫の言葉に、忠興が答える。
「じゃが、一色家の者はひとり残らず始末しなければならん」
言うが早いか、宗雄は刀の
すでに忠興も刀を中段にと構えている。
同時に右側の
「兄上、いったいこれはどういうことですか?」
伊也姫はあえて父幽斎ではなく、兄忠興にことの真相を問い詰めた。
何故なら、この兄忠興には、自分に対して知略を巡らせる器量もなければ、嘘を付くこともないであろうと思ったからである。
案の定、忠興は一色義定
「伊也、これにてそなたの役目も終わったというわけじゃ。もう宮津へと戻って来ても良いぞ」
最初から分かっていたこととはいえ、改めて自分が一色家を攻め滅ぼすための道具として使われていたことに、彼女は
「兄上、この者達を下げてくだされ。小西殿に少しでもことあれば、私はこの場にて喉を突きまする」
あまりに意外な発言に、忠興は一瞬言葉を失った。
それでも我に返ると、再び伊也姫越しに身構える宗雄を
「伊也、そこをどくのじゃ。一色家の者共は
刀を上段にと振りかぶる忠興。
そのままの体勢から伊也姫を左手で振り払おうとした瞬間、忠興にしてまったく予期せぬ事が起こった。
伊也姫が右手に握るその短刀をまっすぐ自分に向けてきたのである。
血の跡であろうか、眼の前の畳には赤く丸い
忠興は、ほぼ反射的に口元を覆った。彼のその掌にも、それと同じ色の液体がべっとりと付いている。
何故か痛みはさほど感じなかった。しかし、忠興の鼻頭は大きく二つに割れていたのである。
さらに忠興へと短刀を振りかざそうとする伊也姫を、小西宗雄が割って入る。
「姫様、それまでになさいませ」
「兄上がどう思われようとも、私はすでに義定殿の妻でございまする。一色家の者を
伊也姫は、力無く短刀をその場へと落とした。
再び忠興がその刀に手を掛けようした時である。
「もう良い、その者の命、姫に預けるといたそう。しかし、姫はこの宮津に戻って来ることに異存あるまいな」
幽斎の声は、穏やかな中にも絶対に反対できないと言う響きを持っている。
「忠興殿、それで宜しいか?・・・」
彼は
先程まで、宗雄に剣先を向けていた者達も、幽斎のこの一言で、すでに刀を収め次の間へと控えている。
忠興は廊下に面した襖の一枚を、思い切り
鼻の傷が彼にそうさせたのではない。恐らくは伊也姫がとった想定外の行動に、その場を取り
怒りの矛先を失った忠興に、己の思慮の無さを説いたところで何も始まらない。それ故、幽斎も彼に対し諭すような口調を用いたのであろう。
この一件の後、約束通りに伊也姫は宮津へと留まり、年月を重ねることとなる。
後年、他家の
一方、小西宗雄もまた、幽斎が口にした約束通り生かされることとなる。
それでも収まりのつかぬ忠興は幾度か彼の暗殺を試みた。しかし、その
おそらくは彼にしてみれば、この宮津の城で一色義定を
ところが、当の宗雄はその後他家へと仕官することもなく、いつしかこの戦国の歴史からその姿と名を消すこととなるのである。
弓木城の中でも生き残った者がいた。あの杉吉之助である。
正確に言うと、それは城中ではなく、城外ということになるのだが・・・
つまりは戦が始まり、弓木城の東門が破壊されると、赤井五郎率いる決死隊がその門へと殺到した。
志願兵で構成された隊の中には吉之助もいた。決死隊とは、矢玉が飛び交う中を敵陣へと捨て身の突撃をかける戦法を用いるものである。そこには、文字通り敵との肉弾戦が展開されるわけである。
彼らは一度細川隊を門の外に追いやるまでの奮戦をした。
吉之助も散々に敵を
もちろん最初から兜など着けてはいないのだ、どう見ても
しかし、これが功を奏した。
再び細川軍が東門に突入すると、彼らは真っ先に死んだ兵士達の間で刀を探し回っている吉之助を見つけたのだ。
吉之助にしてみれば、もう一度反撃の準備をしようと思っていたに違いない。しかし、細川方の兵士からはそれが別の様に見えたのである。
つまりは、戦に巻き込まれた僧侶が逃げ遅れて、途方に暮れながら
四五人の兵が吉之助に近付くと、彼の両脇に手を回した。
「
存外細川家の兵の多くは仏教徒でもあったため、この時も僧侶には過剰なほどの対応を示してくれた。
しかし吉之助にとって見れば、すぐにそのようなことが分かろうはずもない。
「何をする、離さぬか」
一度は言ってみたものの、結局は細川兵の言う成りにするしかなかったのである。
城外に連れ出された吉之助は、
しかし、それは実に容易でもあった。
もともと彼を敵の兵だとは思っていないのである。細川の兵達は吉之助にむすびと水筒とを手渡すと、その場よりまた東門へと向かって背を向けた。立ち去るときには、手を合わせる者までいたほどである。
細川の陣を出た後、吉之助はその足を野田川の上流へと進めたが、ついにその後の消息を知る者はいなかった。
それは、寺と言うには余りにも
宗派を掲げる板木も無ければ、
その後寺は、関ヶ原の戦の時に焼失することになる。
東軍に付いた細川忠興に対抗するため、西軍の石田
若狭方面より進軍した重勝は、途中六路谷の手前で細川軍の
重勝は山に三方より火を放ち、細川軍を吉坂峠方面へと追いやった。その際に山寺は僧侶諸共に跡形もなく燃えてしまったのだという。
今でははたしてその寺が、吉之助によるものだったのか、そして彼はその寺と供に灰となってしまったのか、それを知る
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