第22話 武田討伐
天正九年の秋も深まり、丹後半島から吹き下ろす風が一層身体にもこたえる。この季節になると海はその表情を一変し、毎日沖の彼方にまで無数の白波が立ち始める。
土地の者はこれを
替わりに漁師も山の斜面を耕しては、幾らかの作物を得ることになる。
城での仕事も、その季節によって少しずつ変化する。
今は秋に収穫した稲を天日で乾燥させる時期であり、初霜が降りるまでには、それを取り込み
弓木の城でも、人々は各々自分の役割をこなし、そしてひとつの小さな社会が形成されていくことには、他の村々と何ら変わりはなかった。
そして今日も東の
あの後、桂と
それ故、祐直の方は痛めた手について
何れにしても、弓木の
そんな詰め所に、今日も桂の
鉄砲隊の皆も里が訪ねて来るときには、それとなく一人二人と席を外すのである。しかし、今日は里の他にも
からかうように里が言う。
「最近、亀井様はお方様の
最初に口火を切るのは、いつも里の役割となったようである。
以前はそうしていた与六も、近頃の里にはとても口では太刀打ちできそうもない。
与六は手を振って答える。
「わしなんてとんでもない。それを言うならば、
「桂様、それは
里の追求に、とんだとばっちりを避けようと、桂は話題を別に反らした。
「ところで、その後、吉之助の消息は如何した?」
当然義兼や、城の防備を担当する桂よりも、与六や里の方がその辺の情報には詳しいはずでだからである。
与六は
「聞いた話じゃが、
四人は互いの顔を見合わせる。
「おそらくは吉之助じゃろう」
「じゃが、何故戻って来んのじゃろう?」
与六の言葉に、四人はもう一度顔を見合わせたが、はっきりした答えも出ぬまま、もう一度吉之助の顔を思い浮かべた。
彼の坊主頭が何とも懐かしい。
その後も四人は、暇を見つけてはこの詰め所で顔を付け合わせた。
それからしばらくすると、丹後の地にも例年より幾分早い冬がやって来た。丹後半島先端の
増して今年の年の瀬は、一層寒さが厳しいようである。
海岸線より吹きつける雪に混じって、海からは波の花が、そこから見える景色を全て白一色に変えていく。
しかし逆に言い換えれば、丹後においては、この時期だけは戦のない時期と言っても過言ではないのだ。
つまり人々は束の間、人としての生活をこの閉ざされた空間の中で営むこととなるのである。
明けた天正十年の正月は、弓木城を尋ねて来た織田の使者の到来で幕が開けた。
使者の名は
景久は要点だけを伝えると、大広間にて酒を
「いやあ、勝手を言ってすまんのう。丹後の酒を是非とも飲んでみたくてのう」
この梶原景久という男、世にその名が
酒の相手は下戸の義定の替わりに、
酒以外では、正月の振る舞いを
景久はこれを大いに喜んだ。
「酒には、これが合う」
そう言いながら、こまいを
義兼は素焼きの
「ところで梶原殿、
景久は即答する。
「おそらくは
これには義兼も日置老人も眼を丸くした。
あの武田を
義兼は更に尋ねる。
「当方が兵一千を出したとして、織田方の兵力は如何ほどになりましょうや?」
景久はこまいをかじりながら、指を折る。
「
「六万!・・・」
それは、義兼が初めて口にする兵の数でもある。
義定もその数に思わず武者震いをした。と同時に、義定は改めて織田方の細川家より伊也姫を嫁に
義兼も景久につがれた酒を一気にその喉へと流し込むと、『六万・・・』ともう一度呟いた。
隣では相も変わらず、景久がこまいをかじっている。
ひと頃酒を
帰り際、東の曲輪で射撃の訓練をする稲富鉄砲隊の若い兵を見つけると、その野太い声で一喝した。
「皆の衆、此度の相手は
それから間もなくして、一色義定と稲富鉄砲隊とは、梶原景久のもと、織田信忠率いる武田討伐隊に加わるため、丹後宮津の細川忠興とともに一時弓木城を後にすることとなったのである。
そして二月、義定は織田信忠に従い、
武田側からは
その後も、一色義定と彼が率いる稲富鉄砲隊は常に信忠軍の傍らにあり、
それから間もなく、梶原景久が言明した通り、織田信長はその圧倒的な武力を持って、武田勝頼を
これによって、
一方信忠は、一色義定の功績を大層重んじた。
それは帰路にあたり、遠回りしてまでも細川忠興と共に義定を丹後の国境まで見送ったことからも容易に伺い知ることができる。もちろん、そこにはあの梶原景久の姿もあった。
途中、景久は馬首を義定に寄せると、やはり何食わぬ顔で語りかけてきた。
「義定殿、大層なご活躍、見事でござった。これで大殿にも大手を振って顔向けができるというもの」
義定は戦の時とは似つかわぬ顔つきで眼を細めると、景久に向けてひとつ頭を下げる。
「特にあの鉄砲隊は、敵にとってはまさに
景久は、義定の後に隊列する稲富鉄砲隊を振り返る。隊の先頭には左右に
祐直は、そのひときわ長い鉄砲を傍らの
今ではこの二人も、祐直や桂だけではなく、稲富鉄砲隊にとっても欠かすことのできない存在になっていた。
今回の遠征では、祐直が二十九、桂に至っては三十六の
「やはりこれからの戦は、これなのかのう?・・・」
景久はため息混じりに一声発すると、もう一度稲富の鉄砲隊の隊列に眼を落とした。
それでも景久は直ぐにまた別の顔を作っては、義定へと尋ねる。
「ところで義定殿、共に丹後を納める細川
義定は
それは、義定にとって忠興は単に義兄、つまりは妻である
この伊也姫を弓木に向かい入れる前までは、共に敵同士の間柄でもあったわけである。
その間、忠興には何度も煮え湯を飲まされる思いをした事もあったわけで、和睦が成立した今でも、義定の心の奥底には彼に対する複雑な思いまでは消えずに残っていることも確かなことであった。
そしてそれは、忠興自身も同じ思いを抱いていたとしても何の不思議も無いことである。
だから今回の武田征伐の際も、忠興は何度も義定を
彼は義定を呼ぶ時、決まって
これが単に、忠興の持っている人としての
この忠興の言葉に、周りの皆も多少の不愉快さは感じたものの、如何せん忠興のその気性を考えると、
そんな中、梶原景久だけは義定の意中を見抜いたように、先程のような質問をしてきたのである。景久は言葉を続ける。
「わしはあの男をどうしても好きにはなれん」
「梶原殿・・・」
義定は、思わず周りを見回した。
「かまわん。本当の事を言って何をはばかる事がござろうか」
景久は、立場上心の中にある事を言葉に出せない義定の気持ちを自分が代弁するつもりであったのか、この後も忠興の
義定はけっして
「しかし義定殿、細川の
「はて、隠居殿とは・・・」
義定は首を傾げる。
もちろん細川の隠居とは細川藤孝のことを指している。
正式にはまだ隠居をしてはいないものの、表だっての顔は忠興に任せ、裏での実権は彼がしっかりと握っているのだ。
義定は、最後に景久が言った言葉を胸の奥にしまうと、若狭より、さらに丹後弓木城への道を馬に揺られて行った。
いずれにしても、こうして一色義定の武田討伐の為の遠征は、無事に終わりを告げようとしていたのである。
道々、
また本丸曲輪の藤棚には、今年も
城門の外には、彼らを迎える城の者達の姿があり、皆一様に笑顔で応えては、その帰りを歓迎している。
そして、その中にはあの与六の顔もあり、涙する里の姿もあった。
そんな中を、義定一行は安堵の表情を浮かべながら馬足を進めて行った・・・
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