第21話 伊也姫籠城
細川家の長女、
夏の間、けたたましく鳴いていた
そんな中を、今日も義定と伊也姫は秋風を受けながら、
今では城中において、二人の仲の良さを知らぬ者は誰一人としていない。
義定が本丸曲輪の周りを見回るときは、必ずや伊也姫もそれに従った。
しかしこれも、伊也姫が弓木城へと来た時からは、けっして想像も付かないことであったのである。
桂はひとり、本丸曲輪の二人を見上げながら、その時のことを思い出していた。
伊也姫が弓木城へと上がったのは、あの日の当日、すでに昼近くなった頃で、城からは幾つも煮炊きのための煙が上がっているところであった。
勿論あの日というのは、
途中輿を襲撃した者がいると言うことで、輿入れの日が延びるのではないかと心配されたが、伊也姫の一行は何食わぬ顔で約束通りの時間に城へと到着した。
それでも、この間、輿入れを任されていた
「姫、この先にも
その度ごとに、伊也姫は同じ言葉を口にする。
「人質を無くして得をするのは、むしろ父上、兄上の方でございましょう。織田殿の大群をそっくり弓木へと差し向ける
そう言い放つと、輿の
伊也姫がこう言うのも無理はなかった。
細川軍はこの丹後半島の東に位置する弓木の城に、まる二年以上もその時間と費用とを費やしていたからである。これに
光秀はこの事が信長の
その結果思いついたのが、細川家の姫を相手方の一色義定に輿入れさせると言うことであったのだ。
兵、兵糧を労せずに城を取る。まさに光秀が考えそうな策略とも言える。
この案を持ちかけたとき、思慮深さに欠ける細川藤孝の子
ただ、負けてもおらぬ相手に対し人質を、それも姫を差し出すという行為が彼を
しかし藤孝は、明智の使者がすべてを語らぬ内に、この話を進める決心を心の中でしていた。光秀が考える利を藤孝も確信していたからである。
こういう点では、やはり、細川藤孝は戦国の世にあっては一枚も二枚も突出している武将であると言えよう。
藤孝は娘の伊也に事の真相だけを伝えた。
伊也姫とて、この輿入れが細川家にとってどのような意味合いを成すものなのか一言も尋ねようともしない。戦乱の世にあっては、そうせざるべき事を上司が
よってこの時の伊也姫も、まさに自分が一色家に嫁ぐことこそが、細川家にとって何にも増して大切なことである信じていたのである。
ところが、伊也姫が宮津の城を出立する直前、兄忠興からもう一つの真相を聞かせられることになったのである。
気短な忠興は
「伊也、人質として参るそなたであっても、もしもの時は、この忠興のみならず織田殿が必ずや一色の者共を
「人質?・・・」
伊也姫はそれ以上、言葉を繋ごうとはしなかった。武家の娘として、忠興の言葉にすべてを察することができたからである。
それでも伊也姫は
「伊也は本日より義定殿のもの。次回再び兄上様とお会いする時には、その
「出来ればその刃で、義定殿の
忠興の
やはりこの兄には、人の機微というものが理解できないらしい。
いずれにしても、伊也姫にとっては、これから向かう弓木城こそが、自分の戦場であると言うことだけは確かめられた思いがした。
姫を乗せた輿が東門の手前で一度立ち止まると、細川方の重臣小笠原秀清は門兵に向かって大声で叫ぶ。
「こちらは織田
輿はこれより先、数人の次女と供回りの者以外は入ることが許されていない。
東門がゆっくりと開けられる。
細川家の者達も初めて見る弓木城の内側である。
秀清が歩を進めようとすると、今日は臨時の門兵を務める松田
「貴殿も輿入れの流儀はご存じのはず。お腰のものを召された方は、この門より一歩たりとも入れるわけには参りませぬ」
すでに秀清の後ろでは、
慌てて秀清が
「小笠原殿、必要ありませぬ。これより先は、私一人で参りまする」
言うや、伊也姫は輿からその姿を現した。
髪は
姫に付き添う供の者は荷駄係が十人と
よって、弓木の城へはたった
弓木の兵達が驚いたのは、こればかりではなかった。
姫に従う次女達が、これまた伊也姫に負けないくらい、その誰もが美しかった。東門に居並ぶ兵などは、先程からポカンと口を開けたまま異国人でも見ているかのような具合である。
それでも大名家の輿入れとしては、
東門の両側には、すでに
老臣の
「遠路、ご苦労でござり申した」
遠路と言うには、弓木と宮津は余りにも近すぎる。言った後、この老臣は年甲斐もなくひとり赤面した。
伊也姫は聞こえなかったという振りから、逆に質問をする。
「ところで、弓木では今朝は狩りにでも参っておったのですか?」
当然、今朝の祐直狙撃未遂のことを謎らえているのであろう。更に言葉を続ける。
「そちらの鉄砲隊が、
チクリと釘を刺すところ辺り、流石に細川家の姫であると主殿介は赤面した顔を更に赤くした。
そして、すべての荷車が門を抜けると、松田頼道が門の外で待機する細川家の小笠原秀清らに向かって挨拶を述べる。
「本日、お輿入れの同行、まことに大儀でござった。これより、本城にて
この時ばかりは、頼道の他、一色家の主だった重臣達も頼道に肩を並べて深々と頭を下げに門を出た。
「しかと」
秀清は声にもならぬ声で答えるや、
その後、本丸曲輪の
祝言に先立って、
それでも義定は、伊也姫のために仰々しい祝言のしきたりを簡略化し、
よって、
式の間、新郎新婦は一言も口を利いてはならないというしきたりになっている。ただ黙って、家臣の
それが愉快なものならばまだしも、酒が入ってくると、決まって話は細川軍を打ち破ったときの自慢話となる。当然、それを見させられる伊也姫はたまったものではない。かといって、この時ばかりは当主義定といえども口を挟むわけにはいかないのである。
義定は背筋を伸ばすと、隣に座る伊也姫の様子を伺った。
ところが姫は
義定は、ゴクリとひとつ
夜更けとなり、ひととおりの余興が一段落すると、次ぎに話の順番が祐直にと回って来た。
矢野
「これなるは
言って藤一郎は、ハッと気付き語尾を濁した。
祐直はそのギラギラした眼で伊也姫を見上げては、
「宮津の城は、内側の城壁より館までが二町もないと聞き及びまする。精々用心するようにとお伝え下され」
「これ、祐直」
これには流石の城代の稲富直秀も言葉を挟んだ。
なおも伊也姫は涼しい顔でこれを聞いている。
幾分しらけた空気の中、もうすでに十分できあがっている日置主殿介が、酔いに任せて義定に言葉を頂戴したいと申し出た。これも本来の祝言のしきたりからすれば、異例のことでもあるのだ。
しかし、主殿介としても、この場を収めるにはそうでもしないと収拾が付かないと思ったのであろう。
「殿、此度の婚儀、まことに
言うなり、家臣一同は
「わしが申す前に、
義定は自分より先に妻となる伊也姫に語る機会を設けたのである。この異例中の異例とも思えることに、家臣一同は更に緊張した面もちで姫を見つめる。
伊也姫は
そこには今まで笑みを絶やさずにいた彼女の姿はもう何処にもない。
「では、申し上げまする。
彼女にしてみれば、朝の狙撃未遂から始まって、祝言の席でも二人の婚儀、同盟を祝うどころか一色家の手柄話に執着する家臣らに、些かの
そして、自分を一色家を乗っ取るための道具としか思わない宮津の家族と、嫁いだ先に何の希望をも持てないと知った彼女の失望感とが、このような言葉を彼女の口から言わせたのであった。
伊也姫の言葉は更に続いた。
「私を人質と思うなら、今すぐにでもこの命を絶ちなされ。一色家の方々に、それだけの覚悟はお有りか?」
静まり返った場内に、倒れた
「姫の言い分は、それが全てで宜しいか?」
義定は眼を細めると、満面の笑みを伊也姫に送る。
「わしは、良き妻をもらったようじゃのう。今だ
返事を求められて城代の稲富直秀は、思わず上座に向かって両手を付いてしまった。
これが合図となったのか、居並ぶ家臣達も次々と手を着いては頭を下げていく。
義兄じゃと言われた
「やはり仕留めておくべきだったか・・・」
唯一、祐直だけは心の中でそう呟いた。
こうして伊也姫主導の元、義定との祝言の第一幕は終わろうとしていた。
ところが次の日、事件は起こった。
それは本丸曲輪の北側、総館と
伊也姫が持参した荷物を寝所へと運び入れようとした一色家の者に、姫が待ったをかけた。そればかりでは無い。姫はその荷物を総館へと入れるよう人夫達に指示をしたのである。
これに驚いたのは、城における伊也姫の一切を任された小西宗雄である。
宗雄は総館へと運ばれる荷を両手を広げて阻止するや、人夫に向かって一喝した。
「ここを何処と心得るか、殿が
事実、一色家にとって総館は義定や他の重臣達が執務を行う他、
これに驚いた人夫達は、一斉に後ろを振り返る。
「私が申し伝えました」
そこには、
今度慌てることとなったのは、宗雄の方である。宗雄は頭を下げながらも、なおも廊下の真ん中にて荷の搬入を止めようとしている。
「これは宮津の方様、お荷物の事なれば、こちらではのうて寝所の方に・・・」
伊也姫は、二日目には宮津の方と呼ばれていた。
当然姫が移る前に住んでいた細川家の居城を用いた呼び名ではあるが、別に外から入ってきた者、つまりは対細川家に対する意味合いの方が大きいともいえる。
伊也姫は一歩前に進むと、宗雄を見下ろした。
「寝所には移る気はありません。義定殿にもそう伝えておいて下され」
言うが早いか、伊也姫は宗雄の前を通り過ぎていく。その後ろを六人の次女達も足早に渡ろうとする。
宗雄は次女の一人を呼び止め、理由を聞こうとするが、次女に聞いても姫の本心など分かろうはずもない。
結局宗雄は伊也姫に押し切られる形で、荷は次々に総館へと運ばれて行った。
そして程なく、この事は義定の耳にも届くこととなる。
「ほう、二日目にて本丸を乗っ取り
眼を細め感心する義定に、大江越中守が噛みついた。
「殿、感心している場合ではござりませぬぞ。この事が細川方の知ることとなれば、この期に攻めてくるやも知れませんぞ」
矢野藤一郎が続く。
「そうなれば、まずは人質達を血祭りにあげ、細川方と一戦相まみえる体勢を整えませんと」
城代である稲富直秀ですら、各部署へと
「どうじゃ、あの時に姫を始末しておけば、このようなことにはならなかったのじゃ」
その眼は、確かにそう桂へと訴えている。
桂はそれに答えようとはせずに、義兼の様子を伺った。
義兼は
不思議と、それは当主義定にも当てはまっていた。
義定は一通り家臣らの話が出尽くすと、少しの笑みを浮かべながら、やっとその口を開いた。
「じゃから、姫は一人この城で戦い、籠城する決心をしたのじゃ」
すると、横から日置主殿介が合いの手を入れる。
「わからんか、命を懸けて嫁ぐは女にとっての戦場。その戦場がこのような有様では、とても細川には勝てんと言うことを身を持って知らせようとしているのじゃ」
最後は義兼がまとめる。
「わしらが姫を人質じゃと思う限りは、また姫も一色家を受け入れないと言うことじゃ。それを姫は一人で戦こうておるというわけじゃ」
一瞬静まり返った場内から、今度は家臣が口々に語り始める。
「寝所に移らぬは、殿のみならず一色家を受け入れぬということの
別の者が言う。
「ではこの戦、戦う前からわしらの負けと言うことか」
それぞれが、これまでのことを回想しながらお互いの顔を見合わせる。
「宮津の方様という言い方もいかんのう」
こんな小さな事にも気付く者もいた。
「いっそのこと、弓木の方様と言うのはいかがか?」
さっきまで血気に盛っていた矢野藤一郎が、さも得意そうに声を張る。
「いいや、姫様には戦とは関係のない呼び名を差し上げようではないか」
義兼の言葉に皆も頭をひねった。
そんな中、桂は本丸曲輪の
その花の一輪一輪は小さくとも、その多くがひとつの房としてまとまった時に見事なまでに
この様子を義兼が見逃すはずがなかった。直ぐさま桂を名指すと、その訳をも皆に聞かせた。
城内からは喜びにも似た歓声が静かに湧き起こってくる。あれ程いきり立っていた大江越中守も、今ではしきりとそれを言葉にしている。
そして、最後は例によって仰々しく義定へとお伺いを立てるのである。
「殿、如何でござりましょうや。これより我ら一色家の家臣一同は、殿と藤の方様の元に結束し、忠誠を誓う所存でございまする」
義定も声を弾ませた。
「藤の方とは、良き響きじゃ」
義定の言葉と同時に、小西宗雄が伊也姫の元へと駆けて行く。
間もなく、総館から伊也姫こと、藤の方の荷物が新しい寝所へと移されるとの知らせがもたらされた。
その夜、一色義定も寝所へと渡り、二人は名実ともに夫婦の
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