第18話 与六勘定
その夜、桂の部屋には与六と里、そして吉之助がいた。
こうして四人が一所に居合わせ言葉を交わすのも、彼らがそれぞれの部署に配属されて以来のことである。
里は桂らと別れてからは、主に炊事場の仕事を担当する部署に回されている。勿論、時折桂との時間を過ごすことも許されはしたが、それ以外で、二人が城の中において声を交わすことはほとんど無かった。
「里、どうじゃ辛くはないか?」
桂の言葉に、里はニコリと
「ところで吉之助、義定殿が
今ではその槍を勘定帳へと持ち替えた与六は、ぶっきらぼうに尋ねる。
吉之助はチラリと里の方に眼をやると、おもむろに今度は桂に向けて頭を下げた。
「桂、わしは一度、一人で
「行って如何するのじゃ?」
吉之助の言葉に、桂は彼の真意を見つけようとしている。
「今はあの屋敷がどうなっているのか、この眼で確かめたいのじゃ」
他の三人にも、あの時のそれぞれ複雑な思いが込み上げて来る。
与六は里に気を使いながらも、核心を突いてきた。
「確かめて如何するのじゃ。何れはわしらも里を連れて参るつもりじゃ。じゃが、今はまだその時では無いと思うておる」
桂も吉之助に
「吉之助、六路谷は危険じゃ。細川軍の他、旧若狭武田の残党共が山に
言うと、吉之助は自分の頭を
「いざとなれば、
その仕草に、三人は妙に納得できる思いがした。
「桂、すまぬがおぬしの
吉之助の固い決意に、桂は彼が丹後へ必死の思いで帰京することを望んだ理由を
「ところで与六、この間の
桂は唐突に、与六が最初の荷駄隊を任されたという、但馬
「ひとつどうしても
「わしも初めは不思議じゃと思ったは。如何せん、わしらが城に連れてこられてから一時もしない内に、城下の方より噂が立ったと言うことじゃったからのう」
与六はその時のことを思い出すかのように語りはじめた。
確かに思えば不思議なことである。与六が丹後を出てから三日の後に、但馬は
それからどう早馬をとばしても、この情報を但馬へと伝えるのにはいささか無理が有るとも思えたからである。
「細川方の城を落とした後も、むしろお味方は細川からの反撃を恐れ、そのことを周りには
吉之助も、自分が所属する組長から他言することの無いようにきつく口止めされたことを思い出していた。
「そこが何とも不可解に思えるのじゃ」
桂はもう一度首を
与六は懐の中から紫色の
「噂を流したは、恐らくお初さんではないだろうかと・・・」
「お初さんというと、あの
「いいや、お初さんはお初さんじゃ」
桂の言葉に、与六はもう一度彼女の名前を口にした。
「確かに彼女なら出きる技ではあるが、何故・・・」
桂はまだ納得がいかない表情をしている。隣で里が与六をじっと見つめると、桂の方を振り返り一言添えた。
「お初さんは、亀井様のことを本心から好いているのでございますよ」
里の意表を突いた言葉に、桂と吉之助はしばらく言葉を失った。しかし、見ると与六はその耳たぶから頬の辺りまでを、真っ赤に染めている。
「与六、おぬしもお初さんに
与六は答える替わりに、その手拭いをもう一度握りしめた。
「しかし与六、相手は一色家の女忍びぞ。如何にお前が惚れたところで」
「桂様、相手が忍びの者ではいけませぬか」
いつになく里が声を荒げる。
「きっと、お初さんはご自分を鉄砲より救ってくれた亀井様を、今度はご自分の力でお救いしようと思っているのでございます」
里の言葉に、桂はもう一度与六に眼をやった。
「すまぬ与六。しかし、おぬしの思いをお初さんにどう伝えるかが
「わしは伝えることはせん。それに、わしの為に彼女が危ない橋を渡るのを見ることは、わしの望むことではないしな」
確かに与六が言う通りである。
「それではあまりにもお初さんが
里は一気に
隣では桂が目を丸くして驚いている。こんな里を見るのは初めてだからである。
「私とて、好きな人の為ならばたとへこの命・・・」
里は更に与六に語りかけようとしたが、最後は涙で言葉にはならなかった。
「お里、ようわかったは。機会が来たら必ずやわしから伝えよう」
与六は里の肩に手を置くと、その手拭いで里の涙をそっと拭き取ってやった。
「桂、おぬしも人の心配をするよりも、たまには自分の心配でもしたらどうじゃ」
桂は恥ずかしそうに、そんな里の横顔を見つめていた。
それから月日は足早に流れ、更に一年が過ぎ去ろうとしていた。
ついこの間まで、あれほど夏を
野田川の川縁に群生しているすすきの間には、無数の
そうした間にも、隣国但馬は織田方の羽柴秀吉によって平定された。
最後まで一色家との
世はまさに織田信長という巨大な歯車が、着実に音を立てて回り始めようとしていたのである。
一色家においても、細川方との停戦が成されて以来、多少の小競り合いはあったものの、弓木の城にも概ね平穏な時が流れていた。
この頃、荷駄頭となっていた与六は、来春義定の元へ輿入れする細川家の長女、
与六もこの一年もの間に随分と
与六は兎に角、商いのいろはを
はじめの内は損もあったろうが、そんな与六の気質に、次第に商人達も彼との取引を優先するようにとなっていったのである。
そうなると、今度は与六が言う多少の無理も、不思議と誰かの手により解決してしまうという好循環が生まれて来るのだ。
与六は荷駄頭の中でも、みるみるその
そして、そんな彼が率いる荷駄隊のはるか後方には、何時も人知れずに寄り添う一人の
勿論この時も、与六の前にはけっして姿を現さないものの、彼女は彼らと共に京までの道を供に歩んでいた。
また、桂の口添えで一月前に弓木城を出立した吉之助はというと、その足を宮津から
この峠を越えれば、目指す六路谷まではもうすぐである。
吉之助は逸る気持ちを抑えながらも、足早に峠へと続く道を一人歩いていた。
一方弓木の城では、雲ひとつない秋晴れの中、今日も桂は新調した銃の
城の裏山にある
桂が遠距離の狙撃を目的のために新しく作らせた銃は、銃身から
あの祐直のそれと比べてもはるかに長い
その上有効射程距離は、なんと
また桂は、添え木の替わりにこの銃専用の
材質に
桂は
祐直の一番弟子とも言われていた新吾も、近頃ではもっぱら桂と行動を供にするようになっている。
新吾にしても、祐直が時たま見せる異様とも思える行動に、少なからずの違和感を持ち始めたことも、彼にそうさせている理由のひとつかもしれない。
桂は新吾を、三町程離れた
仮果は掌に乗るほどの大きさをしている。
我々が普段食している胡桃というのは、さらにその中にある
桂ははるか遠方より銃をその銃架に
次に、ゆっくりしゃがんだかと思った途端、銃口より白い煙が左右に広がった。次の瞬間、鉄砲の音が聞こえるのとほぼ同時に、頭上の枝が砕け散った。
新吾の足もとには、三つ四つ仮果を着けた細枝が落ちてきた。
「結城様、お見事でございまする」
新吾はその枝を持って、桂のもとへと駆け寄って来る。
「目当が少し左へとずれているようじゃ」
桂は狙った仮果を指さしながら、折れた枝との距離を眼で追っている。
新吾は、そんな桂の中にも祐直とは異なる、鉄砲撃ちの
桂達が鍛冶職人の小屋へと戻って来ると、そこには珍しく里がいた。
彼女の手には幾つかの握り飯と竹水筒が握られている。
最近城へと戻って来ない桂を案じて、ここまで来たのであろう。里は桂を見つけるや、ニッコリとほほ笑むと大きな声で彼を呼んだ。
「桂―っ、握り飯を持ってきたぞ―」
里は初めて結城桂のことを、桂と呼んだのである。
「これ、鉄砲頭様のことを何と」
周りの者達が里をたしなめたが、桂はそれを制するように彼女の身体を抱き寄せた。この時ばかりは、垣崎新吾も見て見ぬ振りをしている。
「ほう、お里が握ったものか」
桂は握り飯を掴むと、その半分を新吾に手渡した。
新吾はそれを両手で、もったいなさそうに口へと運んでいる。
「ところでお里、先程の桂というのは如何なものか」
里は顔を真っ赤にしながら、手にしていた竹水筒を口にする。
「お里様、それは結城様へお持ちしたお水では?・・・」
新吾がすかさず合いの手を入れたが、里はそれを手渡すどころか、恥ずかしそうにもう一口それをゴクリと喉に流し込んだ。
周りからは、何とも言えぬ穏やかな笑い声が二人を包む。
桂は懐から紙包みを取り出すと、それを里へと手渡した。中には銀飾りの付いた紅色の
「都で買うて来てもらったものじゃ。握り飯の
そう言うと、里の結髪にそれをそっと刺してやる。
「桂様・・・」
桂を見つめる里の手から、竹水筒がするりと落ちた。
そうこうしているうちにも、あっと言う間に弓木の城を短い秋が通り抜け、丹後の海や山にも長く厳しい冬がやって来た。
間もなく、天正八年の
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