コーヒーがふたりをへだてていた頃
紫乃
コーヒーがふたりをへだてていた頃
東条家の一日は一杯のコーヒーから始まる。これは現当主・怜一が大のコーヒー好きであることによるものだ。インスタントコーヒーなど言語道断、豆から挽いたコーヒーをコーヒーメーカーではなくハンドドリップで入れて飲む、というのが怜一の日課であり、東条家の慣習となっていた。
この父の道楽のため、息子の圭一も幼い頃から押し付けられるようにコーヒーを嗜んできた。まだ15歳という未熟な味覚で、コーヒーの深いコクと苦味を美味しく飲めるかどうかは別として。
そういうわけで今日という日もまた圭一つきのメイドである梓はこの言葉を口にする。
「圭一おぼっちゃま、コーヒーが入りましたよ」
資産家の屋敷のダイニングにふさわしい広々としたテーブルに真っ白なリネンがかけられた上は、先程まであった朝食の食器が片付けられ、代わりに美しい陶器でできた一客のティーカップが置かれていた。一人席についた圭一は、目の前に置かれたそのティーカップの中身をほぼ確信しつつものぞき込む。いつもと変わらぬ黒い液体がたっぷりとそこには注がれていた。
さて、どうしたものか。
圭一はコーヒーを前にしたまましばし考え込む。普段ならば、コーヒーとともにひっそりとテーブルに出されている砂糖とミルク投入し、コーヒーの苦味が感じられないほど甘くして飲むのだが、今日にかぎってはなぜかそうしたくない気持ちがあった。
傍らに控えている梓をちらりと見ると、視線に気づいた梓が不思議そうに首をわずかに傾げて微笑みを返してきた。なんでもない、と首を振って視線をコーヒーに戻すが、圭一の脳裏に微かによぎる思いは――梓ならば――という考えだ。
常に圭一のそばに控え、大人びた態度を崩さぬ彼女ならば、砂糖やミルクでコーヒー本来の風味を損ねることなく、ブラックコーヒーそのものの味わいや香りを楽しめるのだろう。
そう思うと、砂糖やミルクを入れる自分が途端にひどく子供っぽく感じられた。
目の前にはまだなにも加えられていないブラックコーヒー。
入れたての香りの良さは、まあ認める。もしかすると、味だってそんなに、悪くないんじゃないか――?
その思いのままに圭一は、右手を砂糖でもなくミルクでもなく、真っ直ぐにカップの取手に伸ばした。
普段とは異なる圭一の振る舞いを梓がどう思ったかは分からない。かすかに息を飲んだような気配を感じたのはもしかしたら、落ち着いた態度を貫く梓も多少は驚いたのかもしれない。
そんな彼女の反応を差し置いて、圭一はそのまま、カップを口に運んだ。そしてコーヒーを、一口。
入れたての熱さを伴った液体がじわりと舌の上に広がった。
――苦い。
飲めないほどではない。が、好んで飲みたいとは全く思えないような渋みを持った苦さに舌を刺激され、圭一は反射的に、よく味わうこともなく、速やかにその液体を喉へと流し込んだ。ごくり。緊張感かなにかでやたら静まり返ったダイニングに、その音はやけに大きく響いた気がした。いたたまれずに、せき払いをひとつ。
けれども、口に残る苦味は誤魔化しきれない。
口直しがほしい。切実に。
まだほとんど減っていないコーヒーを目の前にして、コーヒーを飲もうという圭一の気持ちはすでに萎えていた。
「梓」
カップを静かにソーサーに戻し、圭一は視線を合わせることもなく、自分専属のメイドを呼びつける。返事は間髪を入れず、斜め後ろから届いた。
「なんでしょうか。おぼっちゃま」
「コーヒーが苦い」
「テイスティングではいつもどおりの味でございましたが」
「でも苦いんだ」
「それでは砂糖かミルクを加えてはいかがでしょう?」
いつものように――と言われてもいない言葉を暗に感じ取った圭一は、自分の声に頑なさがにじみ出るのを抑えられなかった。
「いやだ」
駄々をこねるような圭一の主張に、流れるようだった梓の受け答えが、しばし途切れる。ふっ、というため息が聞こえたような気がしたのは果たして現実だったのか、それとも子供に見られたくないという圭一の過敏な自意識がそうさせたのか。間を置いて紡がれた梓の声は、いつもどおり微塵も動揺を見せぬものだった。
「……分かりました。代わりのものを用意いたします。紅茶でよろしいでしょうか?」
「――ダメだ。ロイヤルミルクティーにしろ」
「かしこまりました」
ロイヤルミルクティーを所望したのは、およそ圭一が知りうる飲み物の中で一番入れる手順が煩雑そうだったからという理由だったが、梓の返事はやはりどんな感情も読み取れない、穏やかなものだった。そのことに圭一は、知らず眉を寄せる。
飲みかけのコーヒーをテーブルから下げ、優雅にお辞儀をすると、梓は洗練された物腰でダイニングを出ていった。
「お待たせいたしました。ロイヤルミルクティーでございます」
さほど待たされることなく、梓はダイニングに戻ってきた。そして差し出されたティーカップからは、やわらかなミルクの香りが漂い、キャラメルを溶かしこんだように微かに色づいた乳白色の飲み物は、確かに圭一が知るロイヤルミルクティーそのものであった。
あっさりと出てきたそれに、少々困らせてやりたい気持ちの当てが外れて、圭一はつまらなさに口を歪める。どうやったらこのメイドが取り乱すところが見られるのだろう――。
「圭一ぼっちゃま?」
ティーカップを見据えたままじっと口をつぐんでいた圭一は、梓の呼び声ではっと我に返った。
「あ、ああ。ありがとう。もらう」
急かされるようにティーカップを手に取って、なんの心構えもなく口に含んだ。その瞬間、華やかな茶葉の風味が口内に広がる。鼻に抜けるその優雅な香りと、ミルクの優しい香りが見事に調和していて、子供味覚の圭一にも飲みやすく、それでいて上品な味わいにロイヤルミルクティーは仕上がっていた。
文句なく、おいしい。
「……完璧だな」
ティーカップをソーサーに戻した圭一は、ぽつりとこぼす。聞き取れなかったのか、控えている梓が首を傾げた。
「ぼっちゃま?」
「……上手いって言ったんだ」
「――ありがとうございます」
しぶしぶと言った色をにじませつつも褒めてやれば、梓はわずかに目を細めて微笑む。喜ぶ様子にすら気品と落ち着きが見えて、さらりと視線を逸らした圭一は唇を噛んだ。
本当に、梓はなにをさせても完璧だ。圭一の気まぐれなわがままにも眉一つ動かさず、いつもさらりと対応してしまう。そんな彼女の優秀さを間近で見るたびに、圭一は忸怩たる思いにかられる。
父などは、優秀な使用人は主の誇りだと言うが、圭一にはとてもそんな風には思えない。むしろ梓の洗練された振る舞いは、自分の子供っぽい未熟さをつきつけられているようで、圭一の胸をざわつかせる。
主を安心してくつろがせるのが真に有能な使用人の仕事なのだとしたら、その点において梓は使用人失格と言えた。しかし圭一は梓を自分専属のメイドから外そうとはどうしても思えない。
もちろん、圭一が一言「メイドを変えたい」と言えば、それは即座に叶えられはするのだろう。そして、梓は梓で、仕事の変更を指示されたとしても、きっと動揺することもなく受け入れるのだろう。そうして今度は自分ではない別の誰かに、自分のときと同じように完璧な態度で仕える――そんな梓の姿を想像すると、圭一はたまらない不快感を覚える。梓にとって自分がそれだけの存在でしかないという事実をまざまざと見せつけられるようで、怒りのような苛立ちのような感情が湧き上がるのだ。
だから、圭一は梓を自分の専属から外すつもりはなかった。むしろ積極的に側において、仕事を押し付け、手を煩わせて、自分という存在を認めさせたい。振り向かせたい。そう思うのに、圭一の一連の横柄な振る舞いは軽くあしらわれるばかりで、子供の自分と大人な梓の違いをさらにはっきりとさせるだけの結果に終わっていた。
結局、子供の自分がなにをしたところで、彼女の心を動かすのは無理なのかもしれない。そんな諦めの気持ちに至って、圭一はいたずらにティーカップの縁をなでた。
「梓はなんでもできるんだな」
「は……?」
「ロイヤルミルクティーだっておいしいし……」
それ以上続けるべき言葉もなく、誤魔化すように再びロイヤルミルクティーを口に運ぶと、温かくてやわらかな味が、ささくれだった心をほんのりと癒やした。
圭一の意図が読めず、怪訝な視線を向けてきている梓に、圭一は自嘲的な笑みを見せた。
「梓は、すごいな」
単なる賞賛に見せかけたその言葉は、圭一にとって降参の合図だった。一方的にわがままを浴びせられてきた梓にはその真意がわからないかもしれないが、圭一にとっては最大限の敬意。それを梓はわずかに瞳を大きくして、受け止めた。
「…………」
「…………」
突如、二人の間にわずかな沈黙が落ちて、圭一は気まずく視線を逸らした。
「なにか言えよ」
率直に褒め言葉を述べた手前、あまり重く受け止められると気恥ずかしいのも圭一だ。気軽に流してほしくて発言を促すが、梓は逡巡するかのように視線を流す。
「梓?」
なにを思っているのかと顔をのぞき込むと、ようやく視線があう。
「……私は、圭一ぼっちゃまの専属になって、まだ一年も経っておりません」
「うん?」
「ですので、まだぼっちゃまの好みのコーヒーをお入れすることができないのです」
「……そんなの、誰が入れたって同じだろう」
圭一がコーヒーの苦味を苦手としているのは、どうしようもないことだ。梓が悪いわけではない。けれども、梓は静かに首を横にふった。
「私は、圭一おぼっちゃまに、美味しいコーヒーを入れて差し上げたいのです。――いえ、コーヒーだけではなくて、もっといろんなことを、圭一おぼっちゃまの望むようにして差し上げたいのです。
だから、もっとおぼっちゃまのことを、教えてくださいませ」
――わたくしに。
真摯な眼差しでそのように請われて、圭一は自分の頬が熱くなるのを感じた。なぜか理由は分からない。けれど、梓に自分のことを知りたいと言われて、顔にやたら血が上る。
「圭一おぼっちゃま、お顔が、とても赤いです」
目を丸くした梓に見つめられて、さらに顔面がカッと熱を帯びる。
「み、見るな! ほっといてくれ!」
思わず立ち上がり、圭一の額に手をのばそうとする梓を振り払う。
「圭一おぼっちゃま、大人しくなさってください。熱だったら大変です」
梓は声を強めて窘めようとするが、これが熱などではないと分かっていた圭一は、「大丈夫だからっ」と突っぱねてダイニングを飛び出した。
恥ずかしい。なんだか猛烈に恥ずかしい。自分はなにやら猛烈に照れているのだと、それだけは分かるのに、原因がさっぱり分からない。
そして恥ずかしい気持ちとは別に、やたらそわそわと浮き立つ気持ち。それらを持て余して、自室にこもり、圭一はひたすら身悶えた。
それが恋なのだと圭一が自覚するのは、まだ先の話である。
コーヒーがふたりをへだてていた頃 紫乃 @Shino_cafe
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