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静かな酒宴は、苦しげなロイズの呟きによって開幕した。
次代のフレリック辺境伯として名前が挙げられたロイズは、これまでにないほど困惑の表情を浮かべている。そもそも彼は貴族主義に始まる思想を毛嫌いすらしているのだ。権力を手にするということに対しても、あまり乗り気ではないのだろう。
「俺は、マディン様に認めてもらいたかったわけじゃない。地方時代ならばあの方に認めてもらおうと躍起になっていただろうが、辺境伯などという大層な地位に担ぎ上げられるほど、俺は出来た人間じゃないんだ」
ゆっくりと首を横に振るロイズを、ティーナは心配そうに見つめた。自ら壁であると宣言したアイザックは使用人たちをすべて下がらせ、試すような視線で彼を見詰めている。
権力を持つのが怖いと、ロイズはそれだけを口にした。
ティーナとアイザックしかいない広間には、耳鳴りのするような静寂が沈み込んでくる。
「ずっと、恐ろしいんだ。俺にはあの男の血が半分流れていて、もしも権力を握れば途端にあのようになってしまうんじゃないかと――それが、恐ろしくてたまらない」
頭を抱えるようにして、ロイズは震える声を絞り出した。酒の勢いも手伝ってか、普段より感情が表に出やすくなっているらしい。それでもその場にアイザックがいるということを覚えているのか、ロイズは直ぐに背筋を伸ばし姿勢を整えた。
「義父上やマディン様のように、全ての貴族がそうであるとは思いません。むしろこの国が平和であるのは、正しい人間が正しく国政に携わっているからだとすら、思います。けれど俺にとって最も身近だった貴族は、あの男なんだ。父のようになってしまったら、バルトロメウと同じように道を踏み外したら、今でさえ何が正解かわからないのに、間違えてしまったら」
言葉を重ねるごとに駄々をこねる子供のようになっていくロイズの背中に、ティーナはそっと手を重ねた。
広い背中だ。
ティーナを守る時、いつも見てきたのはその背中だ。
けれど彼が何も言いたくない時や見せたくない時も、その背中はティーナに主の表情を伝えていた。
見るなという時は拒絶するようにはっきりと、愛しているという時は寄り添うように優しく。そんな彼の背中が、今はとても小さく見えた。
震えているのだ。あの、疫神と恐れられる夫が、権力が怖いと震えている。
ティーナは、何と言葉をかけていいのかわからなくなって父の顔を仰いだ。
軽蔑するわけでも憐れむわけでも怒るわけでもなく、ただ無表情でアイザックはロイズを見詰めている。
「お父様……」
「彼の言うことは、何も間違っていない。この度捕縛されたボニールンゲン男爵は確かに彼の父であり、バルトロメウ氏は彼の弟だ。その育ってきた境遇もあるだろうが、ロイズが権力を握るという行為に対して恐怖を抱くのは、何も間違ったことではないよ」
地方で一兵士として戦っていた時のロイズを、ティーナは知らない。
彼女が知っているのは、中央軍部第二師団長であり、何人もの部下に団長と慕われる彼だけだ。
その奥で彼が何を思っているかなんて、知る由もなかった。知ろうともしなかったのだ。
「……旦那様、フレリック辺境伯領は、どのようなところなのですか?」
「どのような、とは?」
「私、殆どロスガロノフから出たことがないんです。だから急に辺境伯位を賜るかもしれないなんて聞いても、想像が出来なくて」
結局何も言えなくて、ティーナは無理に話題を捻じ曲げた。
それでもロイズは少し考えるそぶりを見せて、ゆっくりと口を開いた。
酒に灼けたのか、声が少し掠れている。
「霊峰ジ・ガーヤルーンの麓、水資源豊かな盆地がフレリック辺境伯領です。夏は暑くて冬は寒く雪深いですが、領民たちの気性は実に明るい。休日ともなれば、皆酒場で飲み明かします」
「なんだか、素敵なところですね」
「はい……農業のほかに、国境近くの町の為貿易業も盛んなんです。マディン様が塩や紙といった分野で関税を撤廃したおかげで、随分と町も発展しました」
いつしかロイズは、ティーナの細い指先を握っていた。
武骨な手から想像もできないくらいに力の弱い、縋る様な握力だ。
「素敵な方だったんですね」
「最上治と、そう謳われる方です。国王陛下に政治をお教えしたのもまた、マディン様だから」
「辺境伯閣下のこと、誇りに思っているんですね」
「……俺の、もう一人の父上ですから。――万が一あの町を継ぐならば、俺はあの町の美しさも人の温かさも、守らなければならなくなるんです」
弱々しく笑ったロイズも、相当酒がまわっているらしい。目の周りがわずかに色づいていた。
それでもなお葡萄酒を呷ろうとしたその手を、アイザックが止めた。「飲み過ぎだ」とぴしゃりと言い放った義父に、ロイズは叱られた子供のような顔をする。
「お父様」
「トーマを寄越そう。私も、完全に回り切る前に眠るとするよ……ティーナ、ロイズの話をよく聞いて、お前も考えるといい。いつまでも見えない聞こえない、守られたままでは、彼を支えることはできない」
ちっとも酔いを感じさせない足取りで、アイザックは用意された客室へと戻ってしまった。広間に置き去りにされた二人は、何を言うわけでもなく手を握り合っていた。
まるで、助けを求める子供のようだ。
「お父様の、言う通りですね。ロイズ様には、いつも守られてばかりで」
「違う、俺は守ってなんか」
「いつだったか、言ったじゃありませんか。旦那様の手は、沢山の方を守ってこられた手なんです。その手で、私も守って頂いています」
ティーナは、結婚してからいつだってロイズの庇護下にいた。傷つくのも苦しむのも、いつだって彼の役目だったのだ。何度も守れなかったと頭を下げたのは、いつもロイズだ。ティーナは、それを甘んじて受け続けてきた。
それが、今になって頭を悩ませる原因になっている。
ティーナは決意したように顔を上げると一層強くロイズの手を握った。僅かにうるんだ黒い瞳が、しっかりと彼女の瞳を捕らえる。
「一緒に、考えましょう。私も一緒に悩みます。だから、どうかロイズ様に後悔のないように」
一人で傷ついてきて悩むロイズを、ティーナはいつも心配そうに見ていることしかできなかった。それをティーナがもどかしく思う度に、彼の背負う過去や思いを知らないままだということが枷になっていたのだ。
「だから、今度からは一緒に悩みましょう。夫婦なのですから」
「その結果が、あなたに要らぬ心配をかけてしまうことだとしても、ですか」
「前にも言いました。私、何も知らないんです。世間知らずってよく言われますけど、本当にその通りで。だから一生懸命、旦那様を信じます。それだけで、私はいいんです」
力なくテーブルにもたれていたロイズが、ゆっくりと体を起こした。
武をもって名を知らしめた軍人にあるまじき程情けない表情で、ロイズはティーナの額を自分の胸に押し当てた。
何も言わず、二人は暫く抱き合っていた。
アイザックから言いつけられたはずのトーマは、まだ広間にはやってこない。
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