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 その日、王城はざわついていた。

 ロスガロノフ公爵家当主、アイザック・ロスガロノフが数年ぶりに王城に戻ってきたのだ。

 先日のボニールンゲン男爵捕縛の事件に関して、彼は王太子の密命を受けその不正を探り逐一記録してきたらしい。


 だが、有閑貴族たちが口々に噂をするのはそのようなどこにでもある汚職の話ではない。純白に豪奢な金糸の装飾が施された礼服を着た大貴族の表情は、何処までも静かだ。だがその身にまとう風格は、深緑の瞳に宿した静かな炎は、王侯貴族の圧倒的な存在感を醸し出している。


「リーズバルド王太子殿下の命によって参上した。アイザック・ロスガロノフが到着したと、殿下に伝えてはくれないか?」


 優雅なバリトンでそう伝えるアイザックの傍には、全身を黒い軍服で包んだ男が立っている。男の目の色も、髪の色も、何処までも深い漆黒の色だった。アイザックがそこに立っているだけでも十分な雰囲気であるにもかかわらず、軍服の男のせいでその場は忽ち剣呑な空気に包まれた。

 好奇心から呆然とアイザックを眺めている貴族たちも、男に睨みを利かせられて物陰へと引っ込んでいった。


「――お待たせいたしました。ロスガロノフ公爵閣下、ワイズマン師団長閣下、中にお通しします」


 中から一人、侍従が出てきて二人を王太子の元まで案内した。傍らの軍人はロイズ・ワイズマン。ロスガロノフ公アイザックの義息であり、王国軍第二師団の長を務めている。


「アイザック、わざわざロスガロノフ領から呼び立てて悪かったね。ロイズも、護衛ご苦労様」

「お気遣い痛み入ります……私も、今年からは娘に会合を任せて隠居しようと思っていたのですが」

「少なくとも僕が即位してしばらくは王都にいてくれると助かるんだけどな。なんだったら第一区の真ん中にロスガロノフ都邸を立て直してもいいんだ」


 ゆったりと椅子に腰かけたまま、王太子リーズバルドは二人を出迎えた。婚儀を夏に控えて、今が一番慌ただしい時期であるらしい。美しいかんばせに浮かぶ暗い隈が、その疲労を物語っていた。


「私はもとより田舎の方が性に合っているので。男爵が商業から手を引いたおかげで、無事にリュリュカ川の治水作業が始まりましたよ。殿下とロイズ君には、何とお礼を述べて良いのやら」

「リュリュカは我が王国の大切な水資源だからね。無為に失うことも、それによって命を失うこともしたくない。ロスガロノフ領から北上して、最終的に王都まで上手く治水できたらいいんだけれど」


 椅子に座るように勧められて、アイザックは王太子の対面に座った。一方でロイズはアイザックの斜め後ろに陣取ったまま、直立不動で座ろうとはしない。

 少し困ったように笑って、王太子はアイザックに向き直った。


「そうだ、夏に行われる僕とイーオネイアの婚儀の時にね、是非ティーナを彼女の介添えとしてお願いしたいんだけれど」

「娘を、ですか?」

「もう知ってるとは思うけれど、ティーナとイーオネイアは友人同士なんだ。最近は彼女も忙しくてなかなか呼べずにいるけれど、時折イーオネイアの話し相手として王城に来てもらっている。ロイズも馬車の警護で参加するし、丁度いいと思って」


 疲れた表情の中にもどこか喜色をにじませて、王太子は微笑んだ。

 既に儀式の日取りなど詳しいことも決まっており、参加する貴族たちからは続々と祝いの品が届いているという。

 それに際してリーズバルドの即位式も行われるため、その規模はことさらに盛大だ。男爵の一件があった直ぐ後だというのに、これに乗じて叙勲を狙う貴族が多くいるらしい。


「お陰で僕もアイルもてんやわんやさ。そんな真似をしなくたって、ここ一年の功労者は既に叙勲することが決まっているし、――あぁ、フレリック辺境伯が先日やってきてね、彼も隠居したいってことで、新しいフレリック領の領主を決めなければならないんだけど」


 リーズバルドのその言葉に、ロイズがわずかに身じろぎした。

 フレリック伯爵領はロイズが少年時代を過ごした町である。領主の善政により国境近くの町であるというのに最近は目立った戦乱もなく、貿易と林業で栄えている。

 領主の政治手腕と言う者は領民の生活に直結しており、たとえ先代がどれだけ領地を栄えさせても、次代の領主が悪性を敷けばたちまち町は荒廃してしまうのだ。


「辺境伯閣下が? あぁ、確かにお年を召していらっしゃいますが……伯爵には確か、甥がいらっしゃいましたね。プトレミアー子爵でしたか、彼が辺境伯領を継がれるのですか?」


 新しく伯爵領を継ぐ人間は、自分の思い出の街をどう変えるのだろうか――漠然とそんなことを思っていたロイズの前で、王太子は首をゆっくり横に振った。


「辺境伯から既に推薦は受けている。僕も、それに反対する意見は持たない」

「では、血縁からではなく全く新しいフレリック辺境伯を作る、と」

「あぁ、そうだ。それがこれまで国のために戦い続けた、二人への報いでもある。もっとも、君がどう答えるかで大分結末は変わってしまうけれどね、ロイズ」


 鋭くとがったようなロイズの瞳が、一気に丸くなった。

 いきなり王太子に指名されたこと、辺境伯の話題が出たこと、それを話として聞き入れることはできても、現実として受け入れることはできない。


 王太子は今、確かに自分を指名したのだ。

 否、指名したのは王太子ではない、フレリック辺境伯マディンが、ロイズ・ワイズマンをじきフレリック辺境伯として指名した――その事実に、ロイズは目を剥いて王太子とアレッセイを交互に見比べた。


「詳しいことは後日本人と直接会って聞けばいい。ただね、本当に僕としては反対の意見がないんだ。無論君が嫌だというならそれでいい。君は殊更、貴族という立場に胡坐をかいている人間を嫌っているからね」


 柔らかい金色の髪が、揺れた。

 その視線から逃げることは許されない。けれど王太子は、答えは急ぐ必要はないと微笑むだけで他には何も言わなかった。


「しっかり悩んで、それから決めてくれ。俺やマディンは君に報いたいと思うが、不本意な人間を爵位に就けたところで領民が苦しむのは目に見えている……ここにいる君の養父ちちや、悪名高い疫神騎士を育てた辺境伯ちちと、よく相談してみるといい。勿論、ティーナともね」


 多忙を理由にそれからすぐリーズバルドが席を立ち、部屋にはアイザックとロイズが残された。

 何も言えず呆然と立ち尽くすロイズに、アイザックが浅くため息をついてからその広い肩に手を置いた。


「殿下の言う通りだ。まだ婚儀までは時間もあるし、じっくり考えようじゃないか。……そうだな、ティーナから誘いも受けていることだし、今夜はワイズマン邸に泊まっても? 息子と酒を酌み交わすのが、実は若い頃からの夢だったんだ」


 悪戯っぽく笑ってロイズを見上げるアイザックに、ロイズは唖然としたままコクリとひとつ頷いた。

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