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事件から王太子が動いたのは本当に早かった。
貴族院の承認を得てボニールンゲン男爵邸を強制捜査し、数多の談合や横領、不正の記録を洗い出したらしい。
その中には、アイザックがロスガロノフ領で調べ上げたリュリュカ川に関する工事の不正も含まれており、王都には証人としてロスガロノフ公アイザックが召喚されることになった。
そしてロイズは、バルトロメウを捕らえてから丸五日屋敷に帰っては来なかった。
ティーナが後からカインに聞いた話では、事務処理に追われていて宿舎で仮眠をとる日が続いたらしい。ただ、久方ぶりに自邸へと帰ってきたロイズはベッドに倒れこんだきり、それから一日泥のように眠った。
ティーナがまともにロイズと会話できたのは、六日ぶりであったのだ。
「男爵とバルトロメウの処罰は、近いうちに貴族院の承認によって決まるでしょう。あの男の事件に関連して、上は侯爵位から下は準勲士まで、かなり人間が多かれ少なかれの処罰を受けることになります」
朝食の席で茶を飲みながら、ロイズは何の感情もなくそう言ってのけた。二人を捕らえたのは表向きには国王直属の第一師団であり、第二師団はあくまでその補佐的な役目を担ったということになるらしい。
「ロイズ様は、それでよろしいんですか?」
「下手に騒ぎ立てられるよりは、そちらの方がよっぽどマシです。俺はアラテアナ伯と違って、そう表立って動くのが得意じゃないんだ」
焼き立てのパンを千切って口に運ぶロイズは、心底疲れた表情でそう言った。
ボニールンゲン男爵家の二人はおそらく爵位剥奪か、良くても領地蟄居だ。実の弟を家族ではないと言い放ったロイズが酷く苦しげだったのが、ティーナの心には棘のように刺さって抜けないままだった。
まるで平気そうな顔をしているが、ロイズは今何を考えているのだろうか。
「……そうだ、義父上が王都に上られるようですね。滞在はパルムークス公爵邸に? 部屋なら余っているから、義父上さえよければこちらに来ていただくというのも考えたんですが」
「それが、急な召喚だったからって勝手に叔父様のところに泊まるって言い出してしまって……ごめんなさい、一日くらいこちらに来られないか、聞いてみます」
「いえ、無理はなさらず。その、一度義父上としっかり話をしてみたかったもので。お忙しいでしょうし、気にしないでください」
ほんの少しだけ残念そうに息をついたロイズに、ティーナは筆をとることを決意した。ここ最近忙しくしていた彼に、少し位父との会話の時間があってもいいはずだ。それも、あんなことがあった後なのだからなおさら。
その後黙々と朝食をとったロイズは、何処にも出かけなかった。五日も缶詰だったおかげで、王太子から直々に七日間の休みを賜ったのだという。
「こんなに長い間暇を持て余したのは、初めてかもしれない。中央に戻ってからも、色々と忙しく動いていましたから」
二人で茶菓子を食べながら紅茶を飲む。
こんなありふれた光景でさえ、恐らく結婚してからは初めてだった。一日の殆どを家で過ごすティーナと、軍部で働くロイズでは朝と夜くらいしか時間が合わない。休日の時でさえロイズは執務室で何か仕事をしていた。
全てはボニールンゲン男爵に復讐するために。
ロイズはようやく、その時間から解放されたのだ。
「ロイズ様、一つ聞いてもよろしいですか?」
「俺に答えられることなら、なんでも」
「お辛くは、ないのですか」
静かな、二人だけの空間だった。
僅かに表情を陰らせたロイズは、食べかけのクッキーを皿に置いて目を閉じる。再び開かれた黒い瞳は、バルトロメウを追い詰めた時とは比べ物にならないくらい優しいものだ。
「俺の母の話を、あなたにしたことがありませんでしたね」
そう前置いて、ロイズは話しはじめる。
「ライラ・ワイズマンの大まかな話は、バルトロメウから聞いた通りです。新興商人の娘が、商家を取り込みたかったボニールンゲン男爵と出会い、子供を授かりました。だが既に男爵には正妻があり、ライラは愛人という立場で子供を産みます。それが俺なんですが」
そこまでは、確かにバルトロメウから聞いた通りだった。
正妻――というよりはその実家を恐れた男爵がライラと幼いロイズを追い出したというところまで聞いて、ティーナの視界が涙に歪む。
ロイズは、笑ってその涙を拭ってやった。
「どうしてあなたが泣くんだ。その、あなたに泣かれるのはあまり得意じゃない」
「だってそんな、お義母様とロイズ様が、あんまりにも酷い目に遭われるから」
「あなたに母と呼ばれるなら、母も幸せでしょう。それに、本当の酷い目はこんなもんじゃない……確かあなたに言ったはずだ。俺は地方で数え切れぬくらいの人間を斬ったと」
過去を振り返る視線は、何処までも穏やかだった。出来ればティーナはきちんとライラに挨拶がしたかったし、彼女を養母と呼びたかった。それが叶わぬ願いなのは理解しているが、一度は彼女に会いに行きたい。
そのささやかな願いは、困ったように笑うロイズによって優しく拒絶された。
「俺が、巷で疫神などと呼ばれているのは、あなたも知っていますね」
「根拠のない噂です」
「まったく。俺自身はひどく恵まれた人生を歩んでいると思うのだが、人にとってはどうにもそうではないらしい。……最初の被害者は母でした。あの男に王都を追い出された母と俺は、海沿いの小さな港町で暮らしていました。令嬢と言っても新興の商人ですから、母には教養もあったし働くことに慣れ親しんでもいた。家庭教師などをして、それなりに暮らしていたんです」
小さな町ならば、教養のある女性はそれだけで重宝される。話を聞く限りでは、その頃のロイズはさして苦労もしていない様子だった。未だ軍人ではない、少年のロイズはあまり想像がつかなかったが、それだけでティーナにとってはかなり新鮮である。
身を乗り出すその様に、ロイズはまた微笑んだ。
「ただ、その頃町では小火が頻繁に起きていたんだ。酒飲みも多い場所だったから、その類いじゃないかと思うが……運悪くというか、母はそれに巻き込まれたんです。その小火が、大火と呼ばれるくらいには酷い火災でした。巻き込まれた人間は数が多くて、どれが母かもわからなかった。だから、墓参りも出来ない」
とうとう、ティーナは肩を大きく揺らして泣き始めた。
何も言えない。言えるはずがない。可哀想の一言で片付けられるほどティーナとロイズは希薄な関係ではないのだ。
一人ぼっちになったロイズが剣を握ったのは、その一年後だったという。
母が死に、一年後に剣をとり人を殺した。その事にさしたる思い出はないのか、淡々とロイズは事実だけを話した。
軍に配属され、やがて赴任したフレリック辺境伯領でカインと出会い、無二の友となったこと。辺境伯とその奥方に気に入られ、まるで息子のような厚遇を受けたこと。彼の推薦と武勲をもって中央に配属替えになった時、初めて王太子と出会ったこと――ぽつりぽつりと語られる話は、それでもティーナの為にかなり表現を柔らかくしたものだった。彼がその目で、実際に見た光景は、更に凄惨なものに違いない。
「それでも、俺は幸せですよ。戦場で死ななかった。中央でそれなりの椅子に座って、今は平和に過ごしている。あなたにも出会えた……俺にとって、これ以上の幸せは有り得ないほど」
死と隣り合わせで戦ってきたロイズのその言葉は、ティーナが知ることが出来ないような重みを孕んでいた。
どこかで何かが間違っていたら、二人は出会うこともなかった。ロイズが男爵に復讐を企てなければ、彼が戦場で討たれていたら、或いは男爵がライラを捨てなかったら。
ティーナには、全てが糸のように一つに繋がっているように思えた。
「男爵を追い詰めて、どうするというつもりでもなかったんです。母は死んだし、俺には家族がいる。けれど、どうしても許せなかったんだ。まるで塵のように俺たちを捨てた男を、今度はこちらが捨ててやりたかった――なんてことはない、子供染みた動機です。けれど最初は、それでいいと思っていたんだ」
空は、すっかり暮れなずんでいた。
既に屋敷の中では夕食の用意が慌ただしく始まり、長く影の堕ちた部屋の家具たちは落ち着いているが何処か寂しげな雰囲気を醸し出している。
ロイズは、剣だこが出来たその手でティーナの手を握った。
いつかのように躊躇しない、あたたかくて大きな手だ。
「けれど、ああ、きっと迷ってしまったんです。俺がこんなに薄暗い感情を持っていると知ったら、あなたは俺を嫌うだろうと思っていた。それが怖くて、近づけなかったんだ。あなたがあまりに優しすぎるから」
「……世間知らずと言ってくださって構いませんよ? 怒ったりしませんから」
「物は言いようだな。だけどあなたが見ている前でバルトロメウを捉えて、怖がられると思った。あれに兄と呼ばれたのも、きっと堪えたんでしょう。あれもあれで、相応に苦労はしてきたはずだ」
絞り出すような声と、血を吐き出すかのような表情は忘れようとしても忘れられない。
けれど、と前置きしたロイズは、もう微笑んではいなかった。
「あなたを傷つけようとした。その一点で、俺はバルトロメウを切り捨てました。血の繋がった弟よりも、俺はあなたが無事でさえあればいい」
自己中心的で、情けも憐れみもないと言えばその通りなのだろう。
けれど言葉とは裏腹に、ロイズが心から苦しんだであろうことをティーナは理解していた。彼は、身内には驚くほど優しい人間だ。ユリウスやニンフェをはじめとする屋敷の人間や、顔を出す商人たちを見ればすぐにわかる。
そんな彼が、父はともかく弟を簡単に切り捨てられるはずがない。
「ね、ロイズ様。今度辺境伯様をご招待して、お食事でも致しましょうか」
「マディン様を?」
「お父様ともお食事ができるように取り計らってみますけれど、えぇ、まずはマディン様が王都にいるうちに。昔のロイズ様の話を、もっと聞いてみたいのです」
もしもロイズが、今もバルトロメウや男爵のことで苦しんでいるならば。それならば自分は出来る限りのことをしてその憂いを払拭してあげたい。
ティーナの提案にロイズはポツリと感謝の言葉を述べると、そのまま軽く彼女を抱きしめた。
春野菜のスープが煮える、柔らかい香りが部屋の外から漂ってくる。
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