21

 帰りの馬車の中で、ロイズは終始無言だった。

 土砂降りだった雨は二人が庁舎から出るころには綺麗に上がり、道に出来た水たまりがキラキラと太陽の光を跳ね返している。

 虹すらかかるほど清々しい昼下がりだというのに、ロイズの眉間には深いしわが刻まれたままだった。


 そしてその様子を見て、ティーナもまた何を言えばいいのかわからずに俯いていた。

 緊張の中にも楽しみがあって王宮まで来たというのに、結局実りどころか自分の無知を知る羽目になってしまったことと、ロイズの機嫌を損ねてしまったことが原因だ。


 馬のひづめの音だけが空しく響く室内で、二人はしばらく窓の外を眺めたまま何も言わなかった。


「ティーナ」


 重い静寂を破ったのは、ロイズの方からだった。

 対面に座るティーナの視線に合わせて背を丸めると、黒曜石のような光を宿した瞳がわずかに揺れる。

 石畳に引っ掛かりでもしたのか、一度大きく車輪が音を立てた。


「提案が、あるのですが」

「はい?」

「その、もしあなたがカインからの課題に取り組むというのなら、遅くに一人で勉強をするというのも大変でしょう」


 普段ティーナと話すときと同じように、ロイズはそれから少し視線を伏せた。

 時折真っ直ぐに射抜かれる時もあるが、総じてロイズは彼女の目を見ないのだ。立っていれば身長差ということで話がつくかもしれないが、逸らされたと思うとどこか寂しいものがある。

 次の言葉を待ちながら、ティーナはロイズから視線を外さなかった。


「それで、ですね。良ければ俺が、あなたに付いて細かい指導をと、思っているのだが」

「旦那様が勉強の手ほどきをしてくださるのですか?」

「む、無論、あなたが嫌なのでしたら断わってくれで構いません。俺が勝手に、そうしたいと思っただけなので」


 慌てて手を振るロイズのその手を、唐突にティーナは握りしめた。それに驚いて思わず身を反らせたロイズの瞳には、輝くような表情で彼を見つめる妻の姿が映っている。


「本当ですか、ロイズ様!」


 ティーナは上ずった声を上げてしまったことをはしたなく思ったが、それどころではない。

 食事を終えればすぐ別室に引き上げてしまうロイズと、勉強とはいえ時間を共にすることが出来るのだ。最近ほんのりと寂しさを感じ始めてきた彼女にとって、その提案は天からの贈り物のようにも聞こえた。


「嫌だなんて、とんでもない! ロイズ様が私の為に時間を割いてくださるなんて、こちらこそご迷惑ではないでしょうか?」

「いえ、俺もあなたと一緒に勉強することが出来ます。身になることはあっても、あなたとの時間が嫌だなんて、俺の方が罰が当たってしまう」


 数か月一緒に住んでいた夫婦の言葉とは思えない初々しさに互いが顔を赤くしたが、それでも互いにとって収穫があったのは間違いない。

 やがておずおずと、しかししっかりとした声音でロイズが訪ねた。


「その、どうせなら寝所も一緒にして、しまいませんか。今までは俺も忙しくて、中々私室に帰ることも出来ませんでしたが――」


 そうしてティーナは思い出した。もともと寝室は、ロイズの部屋であったのだ。彼が部屋に帰ってくること自体は、不自然でも何でもない。

 ただ結婚してから、ロイズとティーナが一緒に寝るということは一度もなかった。しかしそれすらも、本来夫婦ならばさっさと済ませていておかしくはないことだ。


 目を丸くして何かを言おうとしたティーナに被せて、ロイズは少し声を大きくした。わざとらしく声を張り上げて、言動から表情からを繕おうと躍起になっている。


「よ、羊皮紙を用意させなければなりませんね。ユリウスとトーマに頼みましょう。小腹が空いたときには夜食も……あ、女性はあまり夜に食べたがらないのか……」


 ブツブツと色々呟いているロイズをしばらく眺めて、ティーナは思わず笑みを零した。


 ここしばらくで一番幸せな瞬間だ。彼が隠し事をしていると疑ってしまったこと自体が申し訳なく思えていたのに、今はそれすらもどうでもよく感じる。

 愛しいという言葉こそ知ってはいても、中々実感はできないものだ。

 ティーナはこの時、ようやくその言葉の意味を本当に理解することが出来た。


 馬車は一歩一歩確実に、ワイズマン邸に向かっている。



 重厚な執務机に突っ伏して、ロイズは深く深くため息をついていた。

 ――言ってしまった。

 一応、前々から寝室を同じにしようとは思っていたのだ。ただ、王太子婚姻の件もあり仕事が忙しかったのは事実だ。疲れてこちらの部屋で仮眠を取ってしまったことも、事実。

 それをずるずると引きずってしまったのはロイズの責任だが、いつかはティーナに提案しようとは思っていた。

 それが今日、来てしまっただけの話だ。



「しつれーい! 旦那様、羊皮紙とインクの用意が出来たわよ。頼まれた本も用意したし、これで完璧……ちょっとぉ、どうしたのよそんなしなびたキノコみたいに」

「ユリウスか。……その、あとで簡易ベッドも片付けておいてくれ。俺は部屋に戻る」

「え、じゃあ旦那様とうとう奥様と!? やっだ早く言ってほしかったわ! ディナーにご馳走用意する暇ないじゃないの!」


 元々低い声を殊更吊り上げて話すユリウスのそれは、普段は気にしなくても今だけはひどく頭に響いた。

 ロイズ自身にも理解が出来ないままでいるのだ。職場で自分がカインに向けた感情であったり、ティーナに告げた言葉であったり、それを思い出すたびに酷く混乱する。


「なあ、笑ってくれるなよユリウス。俺な、嫉妬したんだよ。カインにだぞ? 家族よりも長く付き合ってる副官にだ。とにかくそれが信じられなくてな、ティーナは俺の妻なのに、イーオネイア姫の為に勉強して、カインに教えを乞うというのがどうしても許し難かったんだ」


 厚い掌で顔を覆ったまま、ロイズはぽつぽつと話し続けた。

 ワイズマン邸でトーマと一、二を争うほど優秀な執事は、動きを止めて主に視線を注いでいる。

 本当に、彼は笑わなかった。主にそうと請われたのだ。無表情でその様子を眺めながら、静かにその場に立っている。


「あの男に対抗する手段だと、最初はそればかり思っていたんだ。ロスガロノフ公が力を貸してくださると、そう言うから俺は彼女と結婚したんだ。最初はたった、たったそれだけの理由だったのに」


 震える声は、今にも泣きそうだった。

 顔を覆い怯えたように声を震わせるこの男が、地方で恐れられた「疫神騎士」だとはだれが思うだろうか。


「ひどく、愛しいんだ。同時に怖い。恐ろしい。少しでも強く抱きしめればあれは壊れてしまうんじゃないか。こっちは妾腹の軍人で、彼女は健やかに見えても貴族の、あのロスガロノフの娘だ」

「……馬鹿ねぇ。そういう悩みは普通、結婚前にするものでしょう? 大丈夫だって奥様も言ってたんでしょう? だったら信じてあげなさいな。あの方、旦那様が抱きしめたくらいじゃうんともすんとも言わないわ。私からしたら、二人とも十分頑固だもの」


 まるで子供のような主にそう笑いかけて、ユリウスはロイズの目の前に本と羊皮紙を突きつけた。ついでに枕も付け足しておく。

 これを抱えて、せめてドキドキしながら部屋へ向かうといい。


「これを機に旦那様もしっかり勉強するといいわ。奥様を見習ってね」


 それを最後に、ユリウスはあっさりと部屋を出ていった。今頃部屋ではリリアかニンフェあたりが黄色い声を上げていることだろう。

 


 その日、資料を抱えたロイズが情けなく背中を丸めながらティーナのいる部屋に入っていったところは、ユリウスやリリアたち以外にも多くの使用人に目撃されていた。

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