13

 その日がやってきたのは、ロイズの見立てよりも随分と早い日であった。言ってしまえば、ロイズが初めてカインからその話を聞いた三日後である。


「え、旦那様、今日はお仕事に行かないんですか?」

「あぁ。ニンフェ、ティーナを俺の部屋まで読んではもらえないか? 出来ればユリウスと、トーマ、お前とリリアも来るといい」

「私と、リリア姉さまも?」


 その日の朝、本日は職務に出かけることはないとロイズが告げた。リリアはその言葉をティーナに伝えるために膝を折りすぐ部屋を出たが、ロイズはどうしたものかと頭を掻く。取りあえずユリウスがニンフェによって呼び出されたならば、すぐに礼服を用意させなければならない。


 本日はリーズバルド・リュッヘンベック・バルレンディア王太子がワイズマン邸にやってくるのである。





「申し訳ありません」


 至急ロイズの部屋に向かってくれというリリアの呼びかけに応えたティーナが何事かと扉を開くと、すぐに頭を下げた夫の姿が飛び込んできた。


「い、如何なさったのです!? 頭をお上げください!」

「いや、取りあえずあなたには謝っておかねばならないと思いまして……あぁ、座ってください」


 席を勧められて、そのままティーナは備え付けてあった場所に腰を下ろす。どこか焦ったような表情のロイズが所在なさげに視線を彷徨わせるのを、落ち着いてもう一度「どうかなさいましたか?」と問いかける。


「本当はもっと早くにあなたに伝えておくべきだったのですが、本日は来客がありまして」

「お客様が? あら、でしたらお出迎えの準備をしなければなりませんね」

「えぇ。ただ、その『お客様』というのが問題でして――」


 その瞬間言いよどむロイズに首を傾けたティーナの耳に入ってきたのは、控えめなノックの音だった。


「失礼……旦那様、お客様が見えたんだけど――」

「何、もう来たのか!?」

「え、あの、旦那様?」


 重厚な木の机がそのまま音を立てて割れるんじゃないか。

 ティーナがそんな心配をしてしまうほど強く机を叩いて、ロイズは参ったと言わんばかりに頭を抱えた。二人とも、未だ客人を出迎えるには質素な普段着である。

 それに、貴族ではないにしろ一個師団長であるロイズの邸宅に何の知らせもなく押しかけるとなれば、相手はよほどの上級貴族か、或いは王族であろう。


「礼節に五月蝿いお方でもない。このまま出る。ティーナもついてきてください。ユリウス、お前は屋敷の使用人全てに指示を出しておけ。愚図愚図するな、さっさと行け」



 厳格な軍人口調で手短にそう命令し終えると、ロイズは一度息を吐いてまた申し訳なさそうにティーナに向き直った。筋肉達磨とは言わないが、体格のいい大の男がそうしている様は何処か滑稽にすら思える。一体何があったのかとハラハラしつつ、ティーナは夫の言葉を待った。


「あの、驚かないで聞いてください。現在こちらには、リーズバルド王太子殿下がいらしております」

「お、王太子殿下ですか?」

「先日こちらに向かわれるとの連絡はありましたが、ここまで早いとは思いませんでした。完全に、俺の不手際です。申し訳ないが、ティーナには殿下のお相手をしてもらいたい」


 恐らくティーナ目当てか、ロイズに任せてある仕事の件でこちらに来たのだろう。影武者を立てているのか今のところ大きな騒ぎにはなっていないが、そちらの方もいつボロが出るとも限らない。


「私でよろしいんですか?」

「あなた以上に誰がいるんです。さあ、あまりお待たせするわけにもいかないので」


 ロイズも事前に連絡を受けていたとはいえ、これほど王太子の到着が早いとも思っていなかったらしい。遠慮なくティーナの手を掴むと、そのまま広間に出て、王太子を出迎える為に息を整える。

 その頃にはワイズマン邸の使用人たちも、やってくる来客が誰であるかを知ったらしい。僅かにざわついた空気が、一体を支配している。

 ティーナはそんなロイズに半ば引きずられる形で広間に出たので、髪はぐしゃぐしゃだし息も上がっていた。それをそっとトーマが整えると、やがてワイズマン邸の扉が開かれる。


「やあロイズ、いきなり押しかけてしまって悪かったね。ティーナ……今はワイズマン夫人と呼んだ方がいいのか。結婚おめでとう。細やかな品だが、僕の気持ちだと思って受け取ってくれたらうれしいな」


 太陽の祝福を受けた金髪が、ふわりと揺れる。

 その手にはティーナへのプレゼントと思われる花束が握られていたが、それを進み出たユリウスに手渡すと王太子は器用に片眉を上げてニヤリと笑った。


「たかが花で君のそんな顔が見れるとは思わなかったぞ、ロイズ。よほどティーナにべた惚れと見た。そうだろ?」


 大輪の花束を預かったユリウスは突如振られた話題に身を強張らせたが、そこは彼も優秀なバトラーである。少し困ったような笑顔で、「左様でございますね」と当たり障りのない答えを返す。

 王太子の方はそれに些か不満げでもあったが、すぐに興味の対象をロイズとティーナに戻したらしい。キョトンとしたままのティーナの横から、咳ばらいをしたロイスが進み出る。

 王太子の前に進み出たロイズは、以前美術館でディートハルトにしたのと同じように最敬礼の姿勢をとると、そのよく通る声を張った。



「勿体なくもこのような祝福を賜ることが出来たことを、まずは感謝を――むさ苦しいところで申し訳ありませんが、どうぞおくつろぎください」

「嫌だな、今日は私用で来ているんだ。一応「忍び」出もあるわけだから、顔を上げてくれ。……ティーナも、頭を上げて」


 ロイズに付随する形で頭を下げていたティーナも、その声にゆっくりと顔を上げる。聡明で知られる王太子は、悠然と微笑んでいた。


「僕の記憶ではティーナはまだ幼かったから、なんだか新鮮だな。あのころはまだ女学院の学生だっただろう? それが人妻だもんね。ディートハルトが何か言っていたけれど、綺麗になったよ」

「お、お兄様が……?」

「お忍びが失敗して、アラテアナ伯爵にこっぴどく叱られたそうだ。言っちゃなんだが、僕も彼に叱られることは遠慮したいよ」


 急な来客の為来賓室の準備が整っていなかったのだが、今しがたニンフェが走ってやってきた。準備が出来たらしい。

 来賓室に王太子を案内している間、ティーナは疎遠になっていたリーズバルドの話を興味深そうに聞いていた。一応、彼女の父アイザックにも王位継承権はある。ただ、それが一七位という微妙な位置にあるため、殆どないに等しい扱いを受けているのだ。それでも、他の貴族と比べれば最も王族に近い立ち位置ではある。


「またアイザックには中央に戻ってきてもらいたいんだけど、どうにも向こうが許可してくれないんだ。無理強いのような真似はしたくないけれど、ちょっと意地悪じゃないかな」

「お父様は、まだ所領でやるべきことが残っていると言っておりましたから……あ、でもロイズ様はもうお父様の義息むすこですし、そのロイズ様が中央にいらっしゃるので――しばらくは出てこられないかと」

「あぁ、それに王都には君もいるしね。しかしアイザックめ、僕が王位を継承したら宰相に取り立ててやるつもりでいたのに」


 戯れとはいえ、権力に弱い下級貴族や、出世欲の強いものならばすぐさまに王太子の言質をとろうと血眼になるだろう。けれど生憎、ロイズやティーナを含めワイズマン家とロスガロノフ家の周辺はその辺の欲は薄い。だからこそ、軽口として王太子もそんなことを言えたのかもしれない。


「宰相位はエヴァンジェリン公爵閣下がいらっしゃるではありませんか」

「オデッソンは高齢だ。そろそろ隠居させてくれと父上にぼやいていたよ。まあ、齢六十を超えているからね。ティーナの叔父であるパルムークス公アレッセイも、なんだかんだと理由をつけて中央政治には見向きもしない」


 エヴァンジェリン公爵オデッソンは現国王の右腕として長らく中央政治を担ってきた存在である。ロイズはもとより、ティーナもその名声は聞き及んでいるほどだ。対するパルムークス公も、数年前領地で起きた冷害を見事に鎮めたとして領地経営の高い手腕を買われている。

 冗談ぶって肩を竦めて見せた王太子の手元には、そうした有能な貴族や官吏のカードが何枚も揃っているのだ。


「殿下、こちらです。どうぞお休みください。俺は一度書類を取りに退出させていただきますが……」

「あぁ、すまないね。君たちも下がっていい。押しかけたのはこちらだから、構わなくていいよ」


 陽光が差し込む来賓室は、ティーナもユリウスに案内されて一度来ただけの場所だった。言葉通り一度部屋を辞したロイズと王太子に促されて部屋を出た使用人がいなくなり、部屋はティーナと王太子の二人だけになった。


「いやぁ、それにしても噂に違わぬ美女と野獣っぷり。あそこまでロイズもあからさまとは思わなかったけど、顔緩みっぱなしで」

「顔? 旦那様はいつもあんな顔ですが……」

「……想像以上だったよ。いや、素敵だね。僕もロイズのように彼女を愛せたらいいんだが」


「え?」


 彼女、とは。

 現在リーズバルド王太子に公式な婚約者はいないはずだ。愛人と言われればそこまではティーナの知るところではないが、もしや誰かと結婚するとでもいうのか。


「リィドお兄様、今なんて……?」

「お、嬉しいね。昔のように呼んでくれるなんて――いやね、結婚するんだ、僕」

「結婚?」


 ティーナがその大きな瞳を二、三度瞬かせた時、王太子は天使のような笑顔で一つ付け足した。


「そのことでちょっとお願いがあって、ティーナに会いに来たんだけれど」

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